2024年11月21日(木)、ゆかた祭で有名な 姫路市立町33に鎮座する「長壁神社」
の写真を撮ってきましたので紹介します。長壁神社の読み方は「おさかべじんじゃ」
長壁神社の漢字は刑部神社とも書きます。
ゆかた祭は例年6月22日~24日に実施されていますが、2023年は6/24(土)から6/25(日)に実施。
2024年は6月22日(土)から6月23日(日)に実施されました。
浴衣祭は寛保2年(1742)、当時の姫路城主・榊原政岑(まさみね)公が越後高田へ移封される
に当たり、城内の長壁神社を長源寺の境内に遷座した際に行われた「遷座祭」に由来する。
当時の町人が式服を作る間がなく参加するのを躊躇していたところ、
浴衣での参加を認めたのが起源とされる。
に当たり、城内の長壁神社を長源寺の境内に遷座した際に行われた「遷座祭」に由来する。
当時の町人が式服を作る間がなく参加するのを躊躇していたところ、
浴衣での参加を認めたのが起源とされる。
姫路市立町の「長壁神社」基本情報
住所:姫路市立町33
御祭神:刑部親王とその王女「冨姫」
創建:寛保2年(1742)
上の写真は正面斜めから撮った立町長壁神社
上の写真は長壁神社の側面及び玉垣 説明板がありますが読み難いので
そのまま転記しておきます。
長壁じんじゃ ゆかた祭 縁起
当神社の御祭神は第49代光仁天皇の皇子刑部親王とその王女の富姫の神二柱を今より
1,150余年の昔、国司角野氏により祀られた
ゆかた祭は江戸時代約220年前、時の城主榊原政岑(まさみね)が堅町の長源寺住職と
はかり城主の信仰する神を一般庶民にも自由に参拝出来るようにとの考えから
俄かに長源寺境内に社を造営し城内にある長壁神社の御分霊を御遷座
其の時奉仕参列した人々達が清浄なる白衣の代わりにゆかたを着用した事に始り
以来姫路では毎年此の祭からゆかたを着るようになった
人傳えて「ゆかた祭」と呼び近年は此のお祭りの3日間、約50万人の人が近郷から
参拝に来られ全国にも珍しい祭と各方面に聞えています
お祭は6月22日より24日まで
平成元年6月吉日 長壁神社
上の写真は長壁神社と書かれた石碑 平成26年5月 立町自治会から寄贈
Wikipediaでは次のように解説されています。
刑部神の本来の由来は、古墳時代から飛鳥時代にかけての中央豪族の私有民である部民の一つ、刑部(おさかべ)氏にあると考えられる。
刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。国司の角野氏がこの2人を守護神として姫山に祀って以来、代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い信仰を受けた。
天正8年(1580年)頃に羽柴秀吉が姫路城の改築を始めると、縄張り内に位置するために城下に移された後に播磨国総社である射楯兵主神社の境内に摂社として祀られたが、江戸時代になって池田輝政が姫路城に入城した際に輝政が病に倒れると、当神社を移祠した祟りであろうと噂され、城内へ戻されて八天堂として再建立された。寛永16年(1639年)に藩主が松平氏に変わると再度城下へ移され、慶安2年(1649年)に榊原氏に変わると城内の社殿を再建し、城内と総社境内の二社併存となる。
寛保元年(1741年)榊原政岑に認められ、長源寺の境内に分霊が勧請された。
大正末に、長源寺で祀られていた長壁大明神が長壁神社として独立した。
播磨に伝わる富姫伝説
刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。国司の角野氏がこの2人を守護神として姫山に祀って以来、代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い信仰を受けた。
天正8年(1580年)頃に羽柴秀吉が姫路城の改築を始めると、縄張り内に位置するために城下に移された後に播磨国総社である射楯兵主神社の境内に摂社として祀られたが、江戸時代になって池田輝政が姫路城に入城した際に輝政が病に倒れると、当神社を移祠した祟りであろうと噂され、城内へ戻されて八天堂として再建立された。寛永16年(1639年)に藩主が松平氏に変わると再度城下へ移され、慶安2年(1649年)に榊原氏に変わると城内の社殿を再建し、城内と総社境内の二社併存となる。
寛保元年(1741年)榊原政岑に認められ、長源寺の境内に分霊が勧請された。
大正末に、長源寺で祀られていた長壁大明神が長壁神社として独立した。
播磨に伝わる富姫伝説
播磨に流された富姫は角野明国*1のもとへ 後に角野明国と結婚
弘仁7年(816)9月15日没 御霊「富姫明神」として姫山*2に祀られる
注)*1 角野明国は播磨郡大領 大領は大宝律令で定められた郡司
*2 姫山は姫路城のある場所です
関連サイト