1966年(昭和41年)から始まったNETテレビ(現:テレビ朝日)の長寿番組
『日曜洋画劇場』(当初は『土曜洋画劇場』)の解説者として、番組開始から
死の前日までの32年間、出演し続けた映画評論家の淀川長治さんの墓が須磨寺
にあります。2015年6月29に写真を撮ってきましたので紹介します。
淀川長治さんの解説 By Wikipedia
淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年
(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家である。
約32年にわたって「日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨドチョーさん、ヨドさんの
愛称のほか、その独特の語り口からサヨナラおじさんとして親しまれた。
上の写真が淀川長治が眠る淀川家累代の墓です。
裏面には大正4年(1915)5月3日 神戸市柳川甼 淀川又七 建之
淀川又七は淀川長治の父親で淀川又七が62歳の時に建立した。
上の2枚の写真は淀川家累代の墓の遠景です。
淀川長治さんの戒名は長楽院慈眼玉映大居士
慈しみの眼で映画を長く楽しみ、すべての映画を珠玉の名作として鑑賞した人
という意味合いだそうです。
上の写真は墓の所在地を示したものです。
護摩堂の東側の十三重の塔のさらに東側の墓所にあります。
上の写真は須磨寺の本堂他の遠景です
淀川長治さんの生い立ち 詳しくはhttp://yodogawanagaharu.jp/nenpyo/mobi.cgi
・1909(明治42年)0歳 4月10日出生
父 又七56歳 母 りゅう26歳
生家は「お座敷料理店」で芸者置屋(検番)も兼ねた江戸時代から続く旧家
その業界では神戸で三本の指に入る規模であった
市立兵庫幼稚園(現兵庫くすのき幼稚園)、兵庫尋常高等小学校(現大開小学校)
を卒業 幼少時から毎週9本の映画を新開地で観ていたそうです。
・1922(大正11年)13歳 神戸第三中学校(現 長田高校)入学
学校の毎月の総見映画の選定をする
・1925(大正14年)16歳
慶応の予科受験のため上京するが、高熱のため試験に行けず
無試験で入学できた日本大学に籍をおくが映画に没頭し通学せず
・1927(昭和2年)18歳
「映画世界」編集部(映画世界社)にアルバイトのような形で入る
・1929(昭和4年)20歳
家業が破産し神戸に連れ戻される
姉の経営する外国輸入美術品店「ラール・エヴァンタイュ」に勤める
・1936(昭和11年)27歳
3月6日 神戸港のクーリッジ号船上でチャップリンと会う。チャップリンは
『モダン・タイムス』完成後、ポーレット・ゴダードを同伴してやってきた。
5分の約束を40分も会話できた。その後のチャップリンとの交友の原点
・1942(昭和17年)33歳
東宝に入社
黒澤明監督と懇意になり『姿三四郎』宣伝文案も書く
・1943(昭和18年)34歳
11月11日父親又七(91歳)が鶴見の長治の家で永眠
・1946(昭和21年)37歳
雑誌「スクリーン」が創刊されることになり、双葉十三郎氏とともに編集委員
になる
・1950(昭和25年)41歳
5月1日 初の著書「映画散策」(冬書房)を出版する
・1960(昭和35年)51歳
6月 NET(現テレビ朝日)でテレビ・シリーズ「ララミー牧場」の解説を
始める。1963年6月まで「日曜洋画劇場」のさきがけとなる
・1966(昭和41年)57歳
10月1日 NET(現在の朝日放送)で「土曜洋画劇場」(のちの
「日曜洋画劇場」)の解説を始める。第1回放送作品は『裸足の伯爵夫人』
・1970(昭和45年)61歳 母親 りゅう(87歳)が死去
・1975(昭和50年)66歳
8月9日 次姉ガンのため死亡
・1976(昭和51年)67歳
1月20日 長姉ガンのため死亡
・1998(平成10年)89歳
11月11日 午後8時7分、腹部動脈瘤破裂のため東大病院で永眠
父の又七と同じ命日
関連ブログ
日本で初めて映画が上陸
神戸と映画 in 神戸映画資料館 on 2013-6-8
メリケンシアター in 神戸メリケンパーク on 2011-10-31
『日曜洋画劇場』(当初は『土曜洋画劇場』)の解説者として、番組開始から
死の前日までの32年間、出演し続けた映画評論家の淀川長治さんの墓が須磨寺
にあります。2015年6月29に写真を撮ってきましたので紹介します。
淀川長治さんの解説 By Wikipedia
淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年
(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家である。
約32年にわたって「日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨドチョーさん、ヨドさんの
愛称のほか、その独特の語り口からサヨナラおじさんとして親しまれた。
上の写真が淀川長治が眠る淀川家累代の墓です。
裏面には大正4年(1915)5月3日 神戸市柳川甼 淀川又七 建之
淀川又七は淀川長治の父親で淀川又七が62歳の時に建立した。
上の2枚の写真は淀川家累代の墓の遠景です。
淀川長治さんの戒名は長楽院慈眼玉映大居士
慈しみの眼で映画を長く楽しみ、すべての映画を珠玉の名作として鑑賞した人
という意味合いだそうです。
上の写真は墓の所在地を示したものです。
護摩堂の東側の十三重の塔のさらに東側の墓所にあります。
上の写真は須磨寺の本堂他の遠景です
淀川長治さんの生い立ち 詳しくはhttp://yodogawanagaharu.jp/nenpyo/mobi.cgi
・1909(明治42年)0歳 4月10日出生
父 又七56歳 母 りゅう26歳
生家は「お座敷料理店」で芸者置屋(検番)も兼ねた江戸時代から続く旧家
その業界では神戸で三本の指に入る規模であった
市立兵庫幼稚園(現兵庫くすのき幼稚園)、兵庫尋常高等小学校(現大開小学校)
を卒業 幼少時から毎週9本の映画を新開地で観ていたそうです。
・1922(大正11年)13歳 神戸第三中学校(現 長田高校)入学
学校の毎月の総見映画の選定をする
・1925(大正14年)16歳
慶応の予科受験のため上京するが、高熱のため試験に行けず
無試験で入学できた日本大学に籍をおくが映画に没頭し通学せず
・1927(昭和2年)18歳
「映画世界」編集部(映画世界社)にアルバイトのような形で入る
・1929(昭和4年)20歳
家業が破産し神戸に連れ戻される
姉の経営する外国輸入美術品店「ラール・エヴァンタイュ」に勤める
・1936(昭和11年)27歳
3月6日 神戸港のクーリッジ号船上でチャップリンと会う。チャップリンは
『モダン・タイムス』完成後、ポーレット・ゴダードを同伴してやってきた。
5分の約束を40分も会話できた。その後のチャップリンとの交友の原点
・1942(昭和17年)33歳
東宝に入社
黒澤明監督と懇意になり『姿三四郎』宣伝文案も書く
・1943(昭和18年)34歳
11月11日父親又七(91歳)が鶴見の長治の家で永眠
・1946(昭和21年)37歳
雑誌「スクリーン」が創刊されることになり、双葉十三郎氏とともに編集委員
になる
・1950(昭和25年)41歳
5月1日 初の著書「映画散策」(冬書房)を出版する
・1960(昭和35年)51歳
6月 NET(現テレビ朝日)でテレビ・シリーズ「ララミー牧場」の解説を
始める。1963年6月まで「日曜洋画劇場」のさきがけとなる
・1966(昭和41年)57歳
10月1日 NET(現在の朝日放送)で「土曜洋画劇場」(のちの
「日曜洋画劇場」)の解説を始める。第1回放送作品は『裸足の伯爵夫人』
・1970(昭和45年)61歳 母親 りゅう(87歳)が死去
・1975(昭和50年)66歳
8月9日 次姉ガンのため死亡
・1976(昭和51年)67歳
1月20日 長姉ガンのため死亡
・1998(平成10年)89歳
11月11日 午後8時7分、腹部動脈瘤破裂のため東大病院で永眠
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