2017年8月9日10時30分より11時50分までNHKテレビで表題の長崎平和祈念式典
の中継番組が放映されました。式典の内容を写真紹介します。
式典の流れに沿って写真紹介していきます。会場は長崎市 平和公園ほか
式次第
午前10時35分 被爆者合唱
午前10時40分 開式 原爆死没者名奉安
午前10時42分 式辞
午前10時46分 献水
午前10時48分 献花
午前11時2分 黙とう
午前11時3分 長崎平和宣言
午前11時13分 平和への誓い
午前11時18分 児童合唱
午前11時23分 来賓挨拶
午前11時38分 合唱 千羽鶴
午前11時43分 閉式
0. 被爆者歌う会「ひまわり」の合唱、開式
司会者は地元の高校生が担当しました(下の写真)
1.原爆死没者名奉安
新たに3,551名の原爆死没者名簿が奉安された。
累計で17万5,743人
2.式辞
3.献水
4.献花
5.黙とう 原爆が投下された11時2分、長崎の鐘と共に1分間の黙とう
遺族や被爆者代表、安倍晋三首相ら約5,400人が黙とうした。
6.長崎平和宣言(田上富久市長)
英文他の言葉に翻訳された全文は原爆資料館の下記サイトで見れます。
http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html
「ノーモア ヒバクシャ」
この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。
私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。
しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。
日本政府に訴えます。
核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。
今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
2017年(平成29年)8月9日
長崎市長 田上 富久
7.平和への誓い 被爆者代表 深堀好敏さん(88)
朝日新聞デジタル 2017年8月9日11時29分より引用
原爆が投下された1945年8月9日、私は16歳。爆心地から3・6キロ離れた長崎県疎開事務所に学徒動員されていました。11時2分、白い閃光(せんこう)と爆発音を感じ慌てて机の下にもぐり込みました。夕方、帰宅命令が出て、私は学友と2人、金比羅山を越えて帰ろうと山の中腹まできたところ、山上から逃げてくる多くのけが人に「山の向こうは一面火の海だから…」と制止され、翌朝、電車の線路に沿って歩き始めました。長崎駅の駅舎は焼け落ち、見慣れた町並みは消えてなくなり、別世界に迷い込んだようでした。ようやく辿(たど)りついた山王神社近くの親せきの家は倒壊していました。その中で家の梁(はり)を右腕に抱きかかえるような姿で18歳の姉は息絶えていました。あの時、私が無理をしてでも家に帰っていれば、せめて最期に声をかけられたのではないかと、今でも悔やまれてなりません。そのあと大学病院へ向かい、さらに丘を越えると眼下に浦上天主堂が炎上していました。涙があふれ出るとともに怒りを覚え、「ああ、世界が終わる」と思いました。ここ平和公園の横を流れる川には折り重なって死体が浮いていました。私は、三ツ山に疎開していた両親に姉の死を報告し、8月12日、母と弟と3人で材木を井桁に組み、姉の遺体を荼毘(だび)に付しました。その日は晴天でした。頭上から真夏の太陽が照りつけ、顔の正面からは熱気と臭気がせまり目がくらみそうでした。母は少し離れた場所で地面を見つめたまま、ただ祈り続けていました。たった一発の原子爆弾は7万4千人の尊い命を奪い、7万5千人を傷つけました。あの日、爆心地周辺から運よく逃げ延びた人々の中には、助かった喜びも束(つか)の間、得体(えたい)のしれない病魔に襲われ多くが帰らぬ人となりました。なんと恐ろしいことでしょう。私は「核は人類と共存できない」と確信しています。2011年3月、福島第一原子力発電所の事故が発生し国内の原発は一斉に停止され、核の脅威に怯(おび)えました。しかし、リスクの巨大さに喘(あえ)いでいる最中、こともあろうに次々と原発が再稼働しています。地震多発国のわが国にあって如何(いか)なる厳しい規制基準も「地震の前では無力」です。原発偏重のエネルギー政策は、もっと自然エネルギーに軸足を移すべきではないでしょうか。戦後「平和憲法」を国是として復興したわが国が、アジアの国々をはじめ世界各国から集めた尊敬と信頼は決して失ってはなりません。また、唯一の戦争被爆国として果たすべき責務も忘れてはなりません。
私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たちが撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います。
2017年(平成29年)8月9日
被爆者代表 深堀好敏
8.児童合唱 城山小学校 5,6年に児童 約50名
9.来賓挨拶
(1)安倍首相挨拶
本日、被爆七十二周年の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠を捧(ささ)げます。
そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からお見舞いを申し上げます。
一発の原子爆弾により、一瞬にして、七万ともいわれる数多(あまた)の貴い命が失われたあの日から、七十二年がたちました。一命をとりとめた方々にも、耐え難い苦難の日々が強いられました。人々の夢や未来も、容赦なく奪われました。
しかし、長崎の人々は、原子爆弾によって破壊された凄惨な廃墟(はいきょ)の中から立ち上がり、たゆまぬ努力によって、素晴らしい国際文化都市を築き上げられました。
この地で起きた惨禍が二度と繰り返されてはならない。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた歩みを着実に前に進める努力を、絶え間なく積み重ねていくこと。それが、今を生きる私たちの責務です。
真に「核兵器のない世界」を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です。
そのため、あの悲惨な体験の「記憶」を、世代や国境を越えて、人類が共有する「記憶」として継承していかなければなりません。昨年、オバマ大統領が、現職の米国大統領として初めて、広島を訪れ、被爆の実相に触れ、核を保有する国々に対して、核兵器のない世界を追求する勇気を持とうと力強く呼びかけました。核を保有する国の人々を含め、長崎・広島を訪れる世界中の人々が、被爆の悲惨な実相に触れ、平和への思いを新たにする。若い世代が、被爆者の方々から伝えられた被爆体験を語り継ぐ。政府として、そうした取組をしっかりと推し進めてまいります。
そして、昨年十二月、ここ長崎で開催された、核兵器廃絶に向けた国際会議での真摯な議論も踏まえながら、核兵器不拡散条約(NPT)発効五十周年となる二〇二〇年のNPT運用検討会議が意義あるものとなるよう、積極的に貢献してまいります。
被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策の充実を行ってまいりました。今後とも、被爆者の方々に寄り添いながら、援護施策を着実に推進してまいります。
特に、原爆症の認定について、引き続き、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行ってまいります。
結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ長崎市において、改めて、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げるとともに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、長崎市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。
平成二十九年八月九日
内閣総理大臣・安倍晋三
(2)国連のアントニオ・グテーレス事務総長のメッセージ(中満泉 事務次長が代読)
本日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典におきまして、ご参列の皆様と共に、長崎の原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に、謹んで哀悼の誠をおささげいたします。
そして、被爆者の皆様とそのご家族に、心からの敬意を表します。
ニューヨーク国際連合本部の総会会議場のすぐ外に、1945年に原爆によって崩壊した浦上天主堂で見つかった、焼けただれ、傷ついた聖アグネス像が立っています。
この像は、核兵器の恐怖と破壊力を、私たちに静かに、しかし永遠に伝えています。
長崎は何世紀にもわたり、外国との貿易に開かれ、また日本のよりよい未来を築こうとした国士たちが集まった場所として、日本の歴史に特別な地位を占めています。
そしてきょう、私は全世界によりよい、より安全な未来を築くために、長崎と広島の被爆者の皆様が行ってこられた絶大な貢献に対し、深い尊敬の念をお伝えいたします。
近年、核兵器のない世界への道は、数多くの難題に直面しています。
20年にわたり、多国間軍縮交渉は停滞し、残念ながら、多くの費用をかけて、核兵器の近代化が進められています。
そして近年においては、核兵器廃絶への方策を巡って、各国の意見の違いが拡大してまいりました。
このような中、私は、7月の核兵器禁止条約の採択という新しい展開が、核兵器のない世界という人類共通の目標のために、再び機運をもたらすことを希望いたしております。
私は、核兵器の使用がもたらす壊滅的な結果を広く国際社会に発信し続けてこられた被爆者の皆様をはじめとする長崎と広島の人々を称賛いたします。
そして私も、すべての政府に対し、皆様を模範として核兵器のない世界を実現させるために、それぞれの道筋でこれまで以上の努力を重ねていただくよう、訴えてまいります。
国際連合は、長崎の原子爆弾で犠牲になられた方々の御霊に対し、心からご冥福をお祈りするとともに、全ての人々にとって、より安全で、よりよい、そしてより豊かな世界の実現に向けて、皆様と共に一層の努力を続けてまいりますことをお誓い申し上げます。
2017年8月9日、国際連合事務総長、アントニオ・グテーレス。
(3)長崎県、中村法道知事の挨拶
10.合唱 千羽鶴(純心女子高校)
11.閉式
NHKテレビ番組では長崎原爆を象徴する下記3か所を紹介
(1)長崎原爆投下 爆心中心地碑
(2)被爆した旧鎮西学院中学校(現在の活水中学校高等学校の地にあった)
戦後、旧鎮西学院より譲り受け大規模な修繕を行ったうえで、
活水学院中学・高校1号館となった。
ただ、2011年に解体工事が実施されたが一部遺構を保存
(3)浦上天主堂(爆心地より500m)浦上天主堂旧鐘楼、マリア像
上の写真は長崎原爆投下直後の浦上天主堂
上の2枚の写真は浦上天主堂旧鐘楼 原爆投下直後(上) 現在の姿(下)
上の写真は被爆したマリア像
関連ブログ:長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 NHKテレビライブ中継を視聴して on 2015-8-9
の中継番組が放映されました。式典の内容を写真紹介します。
式典の流れに沿って写真紹介していきます。会場は長崎市 平和公園ほか
式次第
午前10時35分 被爆者合唱
午前10時40分 開式 原爆死没者名奉安
午前10時42分 式辞
午前10時46分 献水
午前10時48分 献花
午前11時2分 黙とう
午前11時3分 長崎平和宣言
午前11時13分 平和への誓い
午前11時18分 児童合唱
午前11時23分 来賓挨拶
午前11時38分 合唱 千羽鶴
午前11時43分 閉式
0. 被爆者歌う会「ひまわり」の合唱、開式
司会者は地元の高校生が担当しました(下の写真)
1.原爆死没者名奉安
新たに3,551名の原爆死没者名簿が奉安された。
累計で17万5,743人
2.式辞
3.献水
4.献花
5.黙とう 原爆が投下された11時2分、長崎の鐘と共に1分間の黙とう
遺族や被爆者代表、安倍晋三首相ら約5,400人が黙とうした。
6.長崎平和宣言(田上富久市長)
英文他の言葉に翻訳された全文は原爆資料館の下記サイトで見れます。
http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html
「ノーモア ヒバクシャ」
この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。
私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。
しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。
日本政府に訴えます。
核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。
今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
2017年(平成29年)8月9日
長崎市長 田上 富久
7.平和への誓い 被爆者代表 深堀好敏さん(88)
朝日新聞デジタル 2017年8月9日11時29分より引用
原爆が投下された1945年8月9日、私は16歳。爆心地から3・6キロ離れた長崎県疎開事務所に学徒動員されていました。11時2分、白い閃光(せんこう)と爆発音を感じ慌てて机の下にもぐり込みました。夕方、帰宅命令が出て、私は学友と2人、金比羅山を越えて帰ろうと山の中腹まできたところ、山上から逃げてくる多くのけが人に「山の向こうは一面火の海だから…」と制止され、翌朝、電車の線路に沿って歩き始めました。長崎駅の駅舎は焼け落ち、見慣れた町並みは消えてなくなり、別世界に迷い込んだようでした。ようやく辿(たど)りついた山王神社近くの親せきの家は倒壊していました。その中で家の梁(はり)を右腕に抱きかかえるような姿で18歳の姉は息絶えていました。あの時、私が無理をしてでも家に帰っていれば、せめて最期に声をかけられたのではないかと、今でも悔やまれてなりません。そのあと大学病院へ向かい、さらに丘を越えると眼下に浦上天主堂が炎上していました。涙があふれ出るとともに怒りを覚え、「ああ、世界が終わる」と思いました。ここ平和公園の横を流れる川には折り重なって死体が浮いていました。私は、三ツ山に疎開していた両親に姉の死を報告し、8月12日、母と弟と3人で材木を井桁に組み、姉の遺体を荼毘(だび)に付しました。その日は晴天でした。頭上から真夏の太陽が照りつけ、顔の正面からは熱気と臭気がせまり目がくらみそうでした。母は少し離れた場所で地面を見つめたまま、ただ祈り続けていました。たった一発の原子爆弾は7万4千人の尊い命を奪い、7万5千人を傷つけました。あの日、爆心地周辺から運よく逃げ延びた人々の中には、助かった喜びも束(つか)の間、得体(えたい)のしれない病魔に襲われ多くが帰らぬ人となりました。なんと恐ろしいことでしょう。私は「核は人類と共存できない」と確信しています。2011年3月、福島第一原子力発電所の事故が発生し国内の原発は一斉に停止され、核の脅威に怯(おび)えました。しかし、リスクの巨大さに喘(あえ)いでいる最中、こともあろうに次々と原発が再稼働しています。地震多発国のわが国にあって如何(いか)なる厳しい規制基準も「地震の前では無力」です。原発偏重のエネルギー政策は、もっと自然エネルギーに軸足を移すべきではないでしょうか。戦後「平和憲法」を国是として復興したわが国が、アジアの国々をはじめ世界各国から集めた尊敬と信頼は決して失ってはなりません。また、唯一の戦争被爆国として果たすべき責務も忘れてはなりません。
私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たちが撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います。
2017年(平成29年)8月9日
被爆者代表 深堀好敏
8.児童合唱 城山小学校 5,6年に児童 約50名
9.来賓挨拶
(1)安倍首相挨拶
本日、被爆七十二周年の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠を捧(ささ)げます。
そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からお見舞いを申し上げます。
一発の原子爆弾により、一瞬にして、七万ともいわれる数多(あまた)の貴い命が失われたあの日から、七十二年がたちました。一命をとりとめた方々にも、耐え難い苦難の日々が強いられました。人々の夢や未来も、容赦なく奪われました。
しかし、長崎の人々は、原子爆弾によって破壊された凄惨な廃墟(はいきょ)の中から立ち上がり、たゆまぬ努力によって、素晴らしい国際文化都市を築き上げられました。
この地で起きた惨禍が二度と繰り返されてはならない。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた歩みを着実に前に進める努力を、絶え間なく積み重ねていくこと。それが、今を生きる私たちの責務です。
真に「核兵器のない世界」を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です。
そのため、あの悲惨な体験の「記憶」を、世代や国境を越えて、人類が共有する「記憶」として継承していかなければなりません。昨年、オバマ大統領が、現職の米国大統領として初めて、広島を訪れ、被爆の実相に触れ、核を保有する国々に対して、核兵器のない世界を追求する勇気を持とうと力強く呼びかけました。核を保有する国の人々を含め、長崎・広島を訪れる世界中の人々が、被爆の悲惨な実相に触れ、平和への思いを新たにする。若い世代が、被爆者の方々から伝えられた被爆体験を語り継ぐ。政府として、そうした取組をしっかりと推し進めてまいります。
そして、昨年十二月、ここ長崎で開催された、核兵器廃絶に向けた国際会議での真摯な議論も踏まえながら、核兵器不拡散条約(NPT)発効五十周年となる二〇二〇年のNPT運用検討会議が意義あるものとなるよう、積極的に貢献してまいります。
被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策の充実を行ってまいりました。今後とも、被爆者の方々に寄り添いながら、援護施策を着実に推進してまいります。
特に、原爆症の認定について、引き続き、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行ってまいります。
結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ長崎市において、改めて、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げるとともに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、長崎市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。
平成二十九年八月九日
内閣総理大臣・安倍晋三
(2)国連のアントニオ・グテーレス事務総長のメッセージ(中満泉 事務次長が代読)
本日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典におきまして、ご参列の皆様と共に、長崎の原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に、謹んで哀悼の誠をおささげいたします。
そして、被爆者の皆様とそのご家族に、心からの敬意を表します。
ニューヨーク国際連合本部の総会会議場のすぐ外に、1945年に原爆によって崩壊した浦上天主堂で見つかった、焼けただれ、傷ついた聖アグネス像が立っています。
この像は、核兵器の恐怖と破壊力を、私たちに静かに、しかし永遠に伝えています。
長崎は何世紀にもわたり、外国との貿易に開かれ、また日本のよりよい未来を築こうとした国士たちが集まった場所として、日本の歴史に特別な地位を占めています。
そしてきょう、私は全世界によりよい、より安全な未来を築くために、長崎と広島の被爆者の皆様が行ってこられた絶大な貢献に対し、深い尊敬の念をお伝えいたします。
近年、核兵器のない世界への道は、数多くの難題に直面しています。
20年にわたり、多国間軍縮交渉は停滞し、残念ながら、多くの費用をかけて、核兵器の近代化が進められています。
そして近年においては、核兵器廃絶への方策を巡って、各国の意見の違いが拡大してまいりました。
このような中、私は、7月の核兵器禁止条約の採択という新しい展開が、核兵器のない世界という人類共通の目標のために、再び機運をもたらすことを希望いたしております。
私は、核兵器の使用がもたらす壊滅的な結果を広く国際社会に発信し続けてこられた被爆者の皆様をはじめとする長崎と広島の人々を称賛いたします。
そして私も、すべての政府に対し、皆様を模範として核兵器のない世界を実現させるために、それぞれの道筋でこれまで以上の努力を重ねていただくよう、訴えてまいります。
国際連合は、長崎の原子爆弾で犠牲になられた方々の御霊に対し、心からご冥福をお祈りするとともに、全ての人々にとって、より安全で、よりよい、そしてより豊かな世界の実現に向けて、皆様と共に一層の努力を続けてまいりますことをお誓い申し上げます。
2017年8月9日、国際連合事務総長、アントニオ・グテーレス。
(3)長崎県、中村法道知事の挨拶
10.合唱 千羽鶴(純心女子高校)
11.閉式
NHKテレビ番組では長崎原爆を象徴する下記3か所を紹介
(1)長崎原爆投下 爆心中心地碑
(2)被爆した旧鎮西学院中学校(現在の活水中学校高等学校の地にあった)
戦後、旧鎮西学院より譲り受け大規模な修繕を行ったうえで、
活水学院中学・高校1号館となった。
ただ、2011年に解体工事が実施されたが一部遺構を保存
(3)浦上天主堂(爆心地より500m)浦上天主堂旧鐘楼、マリア像
上の写真は長崎原爆投下直後の浦上天主堂
上の2枚の写真は浦上天主堂旧鐘楼 原爆投下直後(上) 現在の姿(下)
上の写真は被爆したマリア像
関連ブログ:長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 NHKテレビライブ中継を視聴して on 2015-8-9
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