2022年9月21日、姫路市の城の西公民館の前に建つ「宮本百合子文学碑」の写真を
とってきましたので紹介します。
城の西公民館の住所は姫路市岡町33です。
Goo地図を添付しておきます。
上の写真が宮本百合子文学碑です。
読み辛いのでそのまま転記しておきます。
宮本百合子文学碑
日本が未曽有の混乱に見舞われた敗戦を鮮烈に描いた名作「播州平野」は、姫路の小さな
”しもたや”から生まれた。ここから東約二十mにあった「まつや」に泊まった女流作家
宮本百合子は、瓦礫の中に立つ姫路城、町の人々のうちに、輝く明るさを見つける。
「播州平野には独特の抑揚があった」と表現したのである。この文学碑は「まつや」が
老朽によって取り壊されたおり名作をしのんで建てられた。
宮本百合子は小説「播州平野」の中で分身であるひろ子として姫路の「しもたかや」に
二泊すると書かれています。それは昭和20年10月10日だった。
播州平野のあらすじをWikipediaより引用紹介します。
1945年夏、作家の石田ひろ子は、政治犯として下獄して網走刑務所に収監された夫、石田重吉をささえるために、網走に向かおうとしていたが、青函連絡船の便もなく、福島県郡山の実家の疎開先に一時寄留していた。8月15日、ひろ子はポツダム宣言受諾の玉音放送を郡山で聴く。日本の敗戦を知ったひろ子は、夫の帰還を予測して、ひとまず東京にもどり、準備を始めようとする。すると、夫の弟が広島で被爆して行方不明だとの知らせをうけ、山口県の夫の実家へ向かう。義弟の消息がわからないままに、台風による水害も受けるなかで、治安維持法の廃止と政治犯の釈放の報せを知り、その中に夫の名前があることを知る。東京に戻った方がいいという、夫の実家の人たちの意見もあり、ひろ子は帰京を決意する。しかし、台風の被害は山陽地方にひろがり、鉄道も不通になるなか、ひろ子は姫路から東へ、馬車に乗って移動する。「日本じゅうがこうして移動しつつある」と、ひろ子は新しい時代のはじまりを実感するのであった。
宮本百合子の夫は戦後、網走刑務所から解放され共産党書記長になった宮本顕治です。
上の写真は宮本百合子文学碑の左手にある石碑で「宮本百合子 播州平野 抑揚の野
戸谷松司」と刻まれています。
戸谷松司は姫路市長で抑揚の野の書を書いています。
姫路城の天守閣は戦中の空襲に耐え奇跡的に残った。戦後の復興にあたって姫路市民の
希望の星として大きな存在であったと思われます。
上の写真は城の西公民館の建物で道路側に宮本百合子文学碑があります。
宮本百合子の略歴についてWikipediaより引用させていただきます。
宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月13日 - 1951年(昭和26年)1月21日)は、昭和期の小説家・評論家。旧姓は中條(ちゅうじょう)、本名はユリ。日本女子大学英文科中退。
18歳で『貧しき人々の群』を発表し天才少女と注目された。米留学後結婚したが離婚、その経緯をまとめた『伸子』を発表。その後ソ連を訪れ日本共産党に入党。宮本顕治と結婚。再三検挙されながらも執筆活動を続けた。戦後は『歌声よ、おこれ』を書いて民主主義文学運動の出発を宣言、『播州平野』『風知草』『二つの庭』『道標』などを書いた。日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人である。
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