2021年12月9日、姫路市手柄山中央公園にある播磨国刀匠顕彰碑の写真を撮ってきました
ので紹介します。
上の写真は播磨国刀匠顕彰碑の表面
上の2枚の写真は播磨国刀匠顕彰碑の裏面
上の写真は判読できた文字を上書きしたもの
文章の主旨としては「播磨国は昔から良質の鉄の産地として知られ古くから日本刀が
生産されていました。初祖は大和大掾氏重。
姫路藩の藩主、酒井家各代の方々は自ら焼刃し、現存する刀もある。
江戸時代中期における姫路藩の刀匠の双璧は手柄山氏繁と鈴木宗栄
昭和48年(1973)秋に播磨の刀匠を顕彰するためにこの碑がつくられた。」
「手柄山氏繁」は、播磨国の手柄山で活躍した刀工です。手柄山(てがらやま)という銘から、
縁起が良いとされ、人気が高かったと言われています。
手柄山氏繁の初祖は「氏重」で、大和大掾を受領して3代まで続きましたが、藩命により
「氏繁」と改名。その後、4代氏繁(正繁)は別家を樹立しました。その4代氏繁(正繁)
の作刀は、新撰組「永倉新八」の愛刀として有名ですが、「池田屋事件」の際に鋒/切先が
折れたと言われ、残念ながら現存はしていません。
「氏繁」は、姫路市にある手柄山の麓に住んだことから「手柄山」を称するようになりました。
1788年(天明8年)、陸奥白河藩(福島県白河市)第3代藩主「松平定信」に知行500石で
お抱え鍛冶となり、江戸にて鍛刀するようになります。時に氏繁30歳、江戸に出た氏繁は
名を手柄山正繁と改めた。そののち、1803年(享和3年)に
甲斐守を受領。定信より寵愛を受けた正繁は晩年に「神妙」の2字を賜り、自身が納得のいく
でき映えとなった作品の銘に切っていたとされています。
正繁は手柄山四代氏繁の子、兄五代氏繁を助けて、大阪に出て鍛刀し自ら六代氏繁を名乗った。
福島県白河市指定文化財の脇指し「神妙 手柄山甲斐守正繁」の作者
脇差 銘 「神妙 手柄山甲斐守正繁」【わきざし めい「しんみょう てがらやまかいのかみまさしげ」】 | 白河市公式ホームページ (city.shirakawa.fukushima.jp)
大和大掾氏重は播磨国姫路の刀工で、名を三木新兵衛といい、明暦元年(1655)に
大和大掾を受領している。京と大坂に近い姫路藩は西国外様大名の監視上の要地で、
本多、榊原、酒井等有力諸侯が歴代藩主を拝命した。氏重は重責を担う播磨武士の
需に応えて鎚を振るい、廣峯神社天王宝殿、播磨総社伊和大明神、寛文二年(1662)
正月には松原山八幡宮への奉納刀を打つなど声望は殊に高い。その優れた技術と感性は
血脈と共に代々引き継がれ、五代孫の朝七が寛政の改革で有名な老中松平定信に仕え、
津田助廣張りの華麗な濤瀾乱刃で一世を風靡した、あの手柄山正繁である。
広峯神社に氏重作の刀が残っている。姫路市広嶺山52(姫路市立美術館)に寄託
広峯神社氏重刀 | 姫路市 (himeji.lg.jp)
碑に書かれている鈴木宗栄の正式名は鈴木五郎右衛門宗栄(?~1708)、通称:鈴木右作宗栄
姫路藩からのちに備前岡山池田家のお抱え刀匠となっています。
初代の時、姫路城主池田家に招かれました。のち備前藩では池田家重宝の左文字(さもんじ)
を写したところ、本物の左文字より出来がよいと「左(さ)」の「右」にでるものという
ほめ言葉を与えられ、通称「右作(うさく)」と称したとされますが、その作刀は残っておらず不明です。
最後に、播磨国刀匠顕彰碑の設置場所の地図を添付して筆を置きます。
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