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中村大佐顕彰碑(中村重遠大佐の顕彰碑) on 2022-10-12

2025年02月23日 04時48分21秒 | 姫路市
2022年10月12日、姫路城の菱の門の北西に建つ中村大佐顕彰碑(中村重遠大佐の顕彰碑)の
写真を撮りましたので紹介します。

上の写真は中村大佐顕彰碑の表面です。
揮毫は姫路城城主の直系当主の酒井忠正氏(明治26年(1893)6月10日 - 昭和46年(1971)2月16日 )
酒井忠正氏の略歴をWikipediaより引用紹介します。
酒井 忠正は、日本の政治家・華族。貴族院議員、貴族院副議長、農林大臣、勲一等瑞宝章・伯爵、中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系酒井家26代当主、大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長などを歴任した。




上の2枚の写真は中村重遠大佐の顕彰碑の裏面
昭和19年3月に顕彰碑を建てる会の会長 姫路市長の原惣兵衛氏などが中心
となって中村重遠大佐の顕彰碑が建てられました。
顕彰碑の裏面には中村大佐の功績の内容と顕彰碑建立に尽力した人々の名簿が記載。
中村重遠(しげとう)大佐は廃城令による姫路城の解体を阻止した 人物です。
維新の動乱の後兵器の発達にともない日本各地の旧藩の城はもはや戦闘の
役には立たず、無用の物と思われはじめた。
明治6年 太政官による旧藩城の廃棄布達により全国には僅か39の城が存するに至った。
しかし、残った城も補修も行われず腐敗にまかせたため取り壊しの危機に瀕していた。
陸軍の「中村重遠」大佐は陸軍卿「山県有朋」にたいして、建築学的にも芸術としても
価値のあるお城(姫路城と名古屋城)をどうにか保存できないかを訴えました。

中村大佐の訴えを聞き入れた山県有朋はお城の保存を決定し、明治12年(1879)には陸軍の費用で姫路城と名古屋城の修理(大天守の地階の補強支柱工事)が行われた。
これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であった。
市民による「白鷺城保存期成同盟」の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく明治43年(1910年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた

名古屋城は大東亜戦争の米軍の空襲により焼失してしまったが(後に再建)、姫路城は戦災を免れ補修を重ねながら昔ながらの偉容を現在もとどめている。


Wikipediaより中村重遠大佐の略歴を引用紹介します。
中村重遠大佐は中村進一郎として掲載されています。

1840年(天保11年)、宿毛村(現在の高知県宿毛市)に小野弥源次の子として生まれた。
のち中村儀平の養子となる。山内氏固の家臣で1862年(文久2年)、宿毛文館の句読役になった。
戊辰戦争では、1868年(明治元年)、東征軍に従ったが途中帰国し、宿毛出兵を説き機勢隊を編成しその責任者となる。北陸に進み功をあげる。
1871年(明治4年)[西暦年要検証]、兵部省七等出仕。のち陸軍少佐任官。1873年(明治6年)6月、陸軍省第4局第1課長に就任し、同年12月、熊本鎮台参謀長心得に転じ佐賀の乱に出征。1874年(明治7年)8月、第4経営部司令官となる。1877年(明治10年)1月、広島鎮台参謀長兼衛戍司令官に着任するが、同年3月、西南戦争により別働第2旅団参謀長として出征し軍功をあげ勲四等。
1877年12月、第4局次長に就任し、1878年(明治11年)11月、工兵大佐に昇進し第4局副長となる。同年12月、工兵第1方面提理に転じ、1884年(明治17年)2月、東京で病死。

上述の顕彰碑の近くに説明板があります。その内容をそのまま転記します。

姫路城と中村大佐
 日本古来の城郭は兵器の発達にともなって、無用のものになり、明治6年(1873年)のはじめ、太政官は全国の城郭125の廃棄を布達し、姫路城など56の城が残されました。しかし、その後各城とも腐朽がはなはだしく、姫路城も取りこわしのため、市内の神戸某氏が23円50銭で落札したほどでした。
 陸軍省第四局長代理中村重遠大佐は、先人の築いた名城はぜひ後世に残さねばならぬと考え、陸軍卿山県有朋を説いて、名古屋城と姫路城は陸軍の費用で修理することになりました。
 中村大佐は、明治17年(1884年)45歳で亡くなりましたが、文武に達した古武士風の人だったといわれています。
Himeji Castle and Colonel Nakamura
With the abolition of the feudal system, old castles became obsolete. In 1873 the Meiji Gavernment ordered 125 castles should be torn down or burned down. Only 56 castles in-cluding Himeji Castle survived. A lot of money was required for preservation. Himeji Castle was in disrepair. Finally Himeji Castle was put up for auction and a Mr. Kanbe made a successful bid for it with \23.5.
Colonel Nakamura suggested to the govern-ment that the castle should be preserved regard-less of the cost. Thanks to him the castle was saved.
He passed away at the age of 45. He is said to have been expert in both the pen and the sword.
そもそも姫路城はいったんは競売にかけられて、23円50銭で落札されたのですが(城の瓦や釘を再使用するつもりで落札されたそうです)、落札者が(うまく再使用できないことがわかったため)その権利を放棄してしまったそうです。



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