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千姫ゆかりの地を巡る

2023年02月07日 04時34分56秒 | 神戸市以外の兵庫県
千姫(徳川家康の孫、豊臣秀頼正室)は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣秀頼が自害し
千姫は寡婦となる。その翌年、千姫は本多忠刻と再婚し姫路に移り住みました。
本ブログでは千姫ゆかりの地を巡ってみようと思います。


姫路城の化粧櫓・百間櫓
上の写真は千姫と本多忠刻成婚400年を記念して2016年に制作された、
千姫色彩乾漆座像です。作者は色彩乾漆作家のサブロウコスギ氏です。
イオン株式会社名誉相談役である二木英徳氏からの寄贈です。
千姫色彩乾漆座像は姫路城西の丸のカの渡櫓に展示されています。
撮影:2022-10-12

千姫は、慶長2年(1597)、のちの江戸幕府2代将軍徳川秀忠と江の長女として生まれました。7歳で豊臣秀頼に嫁ぎますが、慶長20年、大坂夏の陣で秀頼と死別。その翌年、本多忠政の嫡男忠刻と再婚しました。
元和3年(1617)、本多忠政が姫路へ転封になると、忠刻とともに姫路城に移りました。
本像は土の原型の上に砥粉や木屑入りの漆を厚く塗りその上に麻布を張ってその作業を繰り返し行なう伝統的な技法によって作られた乾漆像です。
羽子板を手に勝姫、幸千代たちの遊ぶ姿を慈愛あふれる目で幸せそうに見つめる千姫を表現したもので、容姿や服装は「本多平八郎姿絵」などからイメージして造形されたものです。
 

下の写真は本多忠政を中心とした系図です。
千姫と本多家の関係を理解するために添付しました。



上の写真は姫路城西の丸にある化粧櫓 撮影:2022-10-12


上の写真は姫路城西の丸にある百間廊下 撮影:2022-10-12
上の写真は姫路城大天守より観た西の丸の化粧櫓と百間廊下の遠景
撮影:2022-10-12

姫路市、千姫の小径(こみち)と千姫像
上の写真は船場川に架かる市之橋より北側の千姫の小径を撮ったものです。 
撮影 2009-6-28 




上の写真は千姫像と現地説明板  千姫像の作者は吉田英智さん
船場川に架かる市之橋の南側に歩くとすぐの場所にあります。
撮影:2022-10-3
この像はいつも千姫が祈りを捧げていた男山にある千姫天満宮の方向を向いています。姫路城二の丸の化粧櫓の方も見ていたと思われます。
現地説明板は男山の中腹に鎮座する千姫天満宮の総代会の皆様により文章が作成され総代会の会長の古本保美さんの謹書で平成9年(1997)に建てられました。前半部は千姫の境遇について説明。後半に千姫と本多忠刻の歌が紹介されています。

初秋の風を 簾にまきとりて (忠刻)
軒はにおほふ 竹の葉の露 (お千=千姫)

この連歌は二人の間に長男幸千代が生まれ、二人の幸福感がにじみ出ている。

この連歌は元和5年(1619)8月14日、将軍家から1隻の大きな安宅舟を本多忠政に預けられたのを記念して詠まれたもので本多忠刻と千姫夫婦の他、両親の忠政、於熊、2人の子供、弟の本多政朝一家の歌も記録に残されています。
お題は「船」。船は前の姫路城主因幡鳥取城主「池田新太郎光政」から献上されたものです。

寛永3年(1626年)千姫29歳には夫・忠刻、姑・熊姫、母・達子が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。

以降、江戸での暮らしが続き寛文6年(1666年)2月6日、江戸で死去。享年70歳
墓所は小石川の伝通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にある。
知恩院には分骨され宝塔に納められた。

姫路市、千姫天満宮
上の写真は千姫天満宮の遠景  撮影:2019-10-8
所在地は住所:姫路市山野井町1−3(水尾神社) 
訪問記は下記ブログ
Wikipediaによる千姫天満宮の解説(一部加筆)を引用紹介します。
千姫は天神(天満宮・菅原道真)を信仰しており天神の木像を祀っていた。1615年(慶長20年[2])の大坂夏の陣で豊臣秀頼が自害し千姫は寡婦となるが、その翌年、1616年(元和2年)には本多忠刻と再婚。1617年(元和3年)に忠刻が姫路に移封されると、千姫は本多家の繁栄を願い姫路の天門(乾・北西)の鎮めとするため1623年(元和9年)3月に男山に天満宮を建立し6枚の羽子板を奉納した。千姫が生活していた姫路城西の丸から拝礼出来るように東向きに造営されており、千姫は長局の廊下から拝礼していたと伝わる。
千姫が奉納した羽子板に肖って絵馬は羽子板の形になっており、麓(水尾神社)の店で販売している。また、切手を貼れば郵便物として郵送も可能。
学業成就の他、忠刻と千姫の夫婦仲の良さから恋愛成就の御利益もあるといわれている。
男山千姫天満宮は、姫路城の北西に位置し、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社で、本多忠刻と再婚した千姫が、本多家の繁栄を願って建立し、西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われています。城内から、遙拝できるよう東向きに造営されています。
平成14年(2002)4月に社殿が新築され、唐破風造りの流麗優美な姿に生まれ変わりました。

姫路市書写山圓教寺本多家墓所
書写山円教寺の山上に室町時代に建立された三之堂(大講堂、食堂、常行堂)の
傍に姫路城主 本多家の墓所があります。

徳川四天王の1人本多忠勝公を祖とする本多6代の当主のうち5人の五輪塔が
5棟の堂内に収められています。
上の写真は中央部が本多忠勝公の廟屋です。戒名は西岸院殿長誉良信大居士。
慶長15年(1610)10月18日 享年63歳。
その左手には、廟屋に入っていないが、本多忠刻公(本多忠政の長男で千姫の婿殿
である)と忠刻公と千姫長男 幸千代君(享年 3歳)の五輪塔があります。
本多忠刻公の戒名は 円泰院殿黄山蒼雄大居士。 寛永3年(1626)5月7日 享年31歳。

忠刻の伴には宮本三木之助=宮本武蔵の養子、宮田角兵衛(三木之助の伴)、
岩原牛之助(忠刻の伴)の切腹殉死者の墓碑がある。

室津 賀茂神社
本多忠政が元和9年(1623)に室津の賀茂神社に鳥居と摂社椙尾神社を建立しています。

 

上の3枚の写真は室津の賀茂神社と摂社椙尾神社の位置を示したものです。
撮影:2017-11-5
上の写真は賀茂神社の摂社 椙尾神社の表札   撮影:2017-11-5

播磨国総社

播磨国総社は姫路城の鎮護の社として大切にされてきました。


上の2枚の写真は播磨国総社射楯兵主神社の拝殿(本殿)と由緒書き
撮影:2020-10-22

高砂神社
千姫、本多忠刻も参拝したと記されている夫婦和合の象徴「相生の松」で知られる高砂神社
上の写真は高砂神社の拝殿  撮影:2017年11月12日 
上の写真は秩父宮勢津子妃殿下が命名された五代目の相生松。 
撮影:2018-1-21

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