本日は京都大学図書館所蔵の「イラストレイテッドロンドンニュース」に掲載された
英国海軍の軍艦「レオパード号」のスケッチを紹介します。
市民のグラフ こうべ No.132(1983年9月)幕末の神戸Page6に掲載
上の写真が「イラストレイテッドロンドンニュース」に掲載された英国海軍の軍艦「レオパード号」
このスケッチは慶応元年(1865)開港談判のために兵庫に寄港する前に上海で待機している
時に描かれたものです。レオパード号の綴りはLeopardでレパード号との表記もあります。
開港談判は兵庫開港要求事件としてWikipediaで解説されていますので要約引用します。
1864年の下関戦争の賠償は幕府が負担することとなった。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画した。パークスは、他の3国の合意を得、連合艦隊を兵庫に派遣し(長州征伐のため、将軍徳川家茂は大坂に滞在中であった)、幕府に圧力をかけることとした(賠償金を1/3にする代わり、兵庫開港を2年間前倒しする案があった)。1865年11月1日(慶応元年9月13日)、キング提督を司令官とした英国4隻(プリンセス・ロイヤル、レパード、ペラロス、バウンサー)、フランス3隻(グエリエール、デュプレクス、キャンシャン)、オランダ1隻(ズートマン)の合計8隻(米国は今回は軍艦は派遣せず)からなる艦隊は、英仏蘭の公使を乗せて横浜を出港し、11月4日(9月16日)には兵庫港に到着した。幕府は老中阿部正外および松前崇広派遣し、11月11日(9月23日)から三国の公使との交渉を行わせた。途中、両老中の解任などの紆余曲折を経て、11月24日(10月7日)、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、三国に対して回答した。開港日は当初の通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは三国の外交上の勝利と思われた。また、同時に関税率の改定も行われ、幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。
孝明天皇が勅許をしたのは慶応3年5月24日(1867年6月26日)
レオパード号は1851年に建造された蒸気外輪フリゲート艦で積載量1,406トン、乗組員310名
3本マストを有し、大砲18門を搭載しています。
慶応元年(1865)開港談判のために兵庫に寄港したのは上述のレオパード号を含め8隻。
レオパード号は元治元年(1864)下関を砲撃した四国(英国、フランス、オランダ、米国)
艦隊として参加しています。
神戸開港(兵庫開港)に深く関わった人物として柴田剛中(1823-1877)がいます。
柴田剛中は文久3年(1863)に外国奉行として函館に赴任し、諸太夫になった。
慶応元年(1865)、製鉄所建設と軍事調査のため再び仏英に派遣され、同年末帰国。
慶応3年(1867年)5月13日には大坂町奉行、7月9日には兵庫奉行を兼務して、当時八部郡
二茶屋村にあった善福寺を宿所とし、もっぱら外国人居留地問題などの外交問題を担当した。
神戸港に関しては、運上所や埠頭・居留地の造成、西国往還の付け替え工事(徳川道の造成)
などを進め、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、大坂・兵庫開港市の式典を迎えている。
開港当日、柴田剛中は、まず税館(運上所)を開き、英、米、仏、晋、蘭等の公使・領事等
出席の下、開港式典が行われ、西洋の新年への賀と兵庫開港・大坂開市の賀を申し述べる旨の
宣言書を読み上げた。
詳細は下記のブログで纏めています。
神戸開港を主導した外国奉行「柴田剛中」について - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
また、神戸開港の祝典行事の一部については下記ブログで纏めています。
神戸開港150年 祝砲 「ロイヤル・サルート」 on 2017-1-1 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
Wikipediaでは幕末の砲艦外交として1792年のラクスマンの通商要求以降の開港の推移を
詳しく解説されています。
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