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長屋王邸宅跡訪問記 on 2015-12-20

2017年01月24日 04時47分04秒 | 奈良情報

2015年12月20日、平城京左京三条二坊十四坪(奈良警察署跡)の発掘調査
現地説明会があり出かけていました。

この近くに本日紹介する長屋王邸宅跡があり写真を撮ってきましたので紹介します
現在はイトーヨーカドー奈良店の敷地となっています。

まず、長屋王について簡単に記しておきます。
長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684)? -~神亀6年2月12日
(729年3月16日))は、天武天皇の子供太政大臣・高市皇子の長男で天武天皇の
孫にあたる皇族で「親王」として待遇されていました。官位は正二位・左大臣で
現在の総理大臣にあたります。
長屋王の妻は元明天皇の娘で文武天皇および元正天皇の妹、吉備内親王
皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀と
いわれる長屋王の変(729)で妻の吉備内親王と子供とともに自殺した。
長屋王はこの時45歳であった



上の写真は現地の説明板遠景。


上の写真は現地の説明板の文章部

内容を要約記載します。
昭和61年(1986)から発掘調査(By 奈良文化財研究所)。長屋王の邸宅は
平城京の東南に隣接し、平城京三条二坊一・二・七・八坪の4坪分を占め約6万㎡
もの広さがありました。

昭和63年(1988)には 四万点の木簡と邸宅跡が見つかった。
「長屋親王宮鮑大贄十編」という木簡から 和銅3年(710)から神亀6年(729)
までの19年間ここにあった長屋王の邸宅跡であることが判明。
長屋王邸宅跡の内部は王の住居地区、王家の事務所地区、使用人住居地区など、
数ブロックに塀で区画されていました。
長屋王の住居は面積360㎡の掘立柱建物で、天皇の住居である平城京内裏正殿に
準ずる広さがありました。

約4万点の木簡は王家の事務書類で王に仕えた人々と役所のこと王家を支えた
経済的基盤のこと王家の豪華な食生活のこと犬、馬、鶴を飼っていたこと等が
記されていました。 


上の写真は長屋王邸宅跡の邸宅復元絵画(現地の説明板を拡大)


上の写真は現地の説明板に書かれた発掘現場の様子


上の写真は長屋王邸宅の位置を示したもの(現地説明板)


上の写真は発掘された木簡の一部

最初(一番右)に書かれた木簡で「親王宮」、大贄( おおにえ)と記されている
ことから天皇の皇子の待遇を受けていたことが判る。「おおにえ」は天皇に献納
する物という意味である。 また親王は天皇の皇子に使う名称である。


上の写真はイトーヨーカドー奈良店の正面玄関側
当初はそごう百貨店の建物であったが2000年12月に閉鎖された




上の写真は悲劇の最期を遂げた長屋王を悼み建立された祠と長屋王略記
の掲示板。

長屋王の官位の経過(Wikipediaより)

大宝4年(704年) 正月7日:正四位上(直叙)20歳
和銅2年(709年) 11月1日:従三位[25]。11月2日:宮内卿 25歳
和銅3年(710年) 4月23日:式部卿 26歳
和銅7年(714年) 7月3日:益封100戸 30歳
霊亀2年(716年) 正月5日:正三位 32歳
養老2年(718年) 3月10日:大納言(不歴中納言参議)34歳
養老5年(721年) 正月5日:従二位、右大臣。3月25日:帯刀資人10人。
         5月20日:稲10万束、籾400斛
         12月8日:御装束事 37歳
神亀元年(724年) 2月4日:正二位、左大臣  40歳



上の写真は奈良文化財研究所が制作した長屋王邸宅の再現模型


上の写真は橿原考古学研究所作成の長屋王に関する説明文


長屋王の墓: 
 奈良県生駒郡平群町梨本、宮内庁管理
 直径15m、高さ1.5mの円墳で、周囲は方形の生垣で囲まれている。
 王墓の下には6世紀前半に築造された前方後円墳が埋まっている。
 3月20日に墓前で正辰祭が行われる。

 

以下の記述は2022年7月8日 BS6ch(TBS)関口宏の「一番新しい古代史」で紹介の

長屋王に関する資料です。2022年7月18日追記

長屋王の肖像:

長屋王関連の系図:

長屋王の変(729年2月10日):

 


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