2022年8月24日10時からNHK総合テレビで標題の八角形の古墳について放送されていました。
八角形の古墳は一般的には天皇陵と言われています。
NHKが下のYoutube動画を制作されましたのでリンクさせていただきました。
[歴史探偵] UFO?CG?いえいえ奈良・飛鳥の古墳です!| NHK - YouTube
そこで、八角形の古墳について上記番組の放送内容をレビューすると共に
関連事項も補足して纏めてみました。
645年を境として四角形(蘇我氏の影響)から八角形の天皇陵墓が採用されていきました。
段ノ塚古墳 34代 舒明天皇(在位629年-641年)
牽牛子塚古墳 35代 皇極天皇(在位642年-645年)?
&37代 斉明天皇?(在位655年-661年)
御廟野古墳(山科陵) 38代天智天皇(在位661年-668年)
野口王墓古墳 40代 天武天皇(在位673年-686年)
41代 持統天皇(在位690年697年)
中尾山古墳 42代 文武天皇?(在位697年-707年)
御廟野古墳は飛鳥ではなく京都府山科区にあります。
段ノ塚古墳(舒明陵)
段ノ塚古墳(だんのづかこふん)は、奈良県桜井市忍坂にある古墳。形状は八角墳。
古墳時代終末期の古墳である。
宮内庁により「押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)」として第34代舒明天皇の陵に治定
牽牛子塚古墳
飛鳥時代の女帝・斉明天皇(594~661年)の墓ではないかとされる奈良の牽牛子塚古墳は
2022年3月までに復元され、石に覆われたピラミッドのような姿がよみがえった。
側には、斉明天皇の孫の大田皇女の墓と言われる越塚御門古墳もあり、古墳の内部で
時代背景などを解説する映像が上映される。2022年3月6日より一般公開。
陵前之墓と書かれているところが越塚御門古墳で斉明天皇の孫の大田皇女が葬られたと
日本書紀に記載されています。
上の写真は斉明天皇と間(はし)人皇女は天智6年(667)2月27日に合葬されたと日本書記に記述
上の写真は2010年に発掘調査された牽牛子塚古墳
関連ブログ
奈良県立橿原考古学研究所 土曜講座 「牽牛子塚古墳外周部の調査」 on 2016-8-6 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
関連サイト
牽牛子塚古墳の整備完了 斉明天皇陵か、6日公開: 日本経済新聞 (nikkei.com)
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳整備公開 | 明日香村観光ポータルサイト | 旅する明日香ネット (asukamura.com)
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 復元公開|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|明日香村|山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア|歴史・文化|観光 (nara-kankou.or.jp)
御廟野古墳(山科陵)
Wikipediaより御廟野古墳の解説を引用させていただきました。
御廟野古墳(ごびょうのこふん)は、京都府京都市山科区にある古墳。形状は八角墳。古墳時代終末期の古墳である。宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇の陵に治定されている。
本古墳は、被葬者の実在性にも、天皇陵古墳に比定することにも問題がない、つまり、「天智天皇陵」と呼称してもほぼ間違いのない古墳である。このような古墳は非常に稀であり、他には天武・持統合葬陵の野口王墓があるだけである。なお明治天皇の伏見桃山陵以降、現在に至るまで天皇陵は上円下方墳の形式で築造されているが、その手本となったのが大正時代当時に上円下方墳と見做された本古墳である。
築造年代は7世紀末から8世紀。古墳の大きさは、上円下方墳と見做す場合、上円対辺長約46メートル、下方辺長約70メートル、高さ8メートルである。
上の2枚の写真は天智天皇山科陵を訪問した際のものです。 撮影:2017年4月13日
天智天皇は初めて漏刻を作り水時計を作りました。関連ブログにリンクしておきます。
天智天皇陵前の日時計の碑 on 2017-4-13 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
野口王墓古墳
野口王墓(天武・持統天皇陵)についてWikipediaでの解説を引用させていただきます。
天武・持統天皇陵の別名:野口王墓、檜隈大内陵
野口王墓(のぐちのおうのはか)は、奈良県明日香村に所在する古墳時代終末期の
八角墳である。
天皇陵であり、天武・持統合葬陵に比定・治定(陵墓と決定されること)されている。
宮内庁発行の『陵墓要覧』による陵名は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)。
日本書紀には「大内陵」と記述される。
墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。
本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。
2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)と持統天皇の
金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として
考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。
同様の事例には、天智陵(御廟野古墳)を上げることが出来る。
しかし1235年(文暦2)に盗掘にあい大部分の副葬品が奪われた。その際天武天皇の
棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していた
という。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も
奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。
上の2枚の写真は天武・持統天皇陵の正面の写真と
天武天皇、持統天皇 檜隈大内陵と書かれた石碑。
陵墓の築造年代は 687年(持統天皇元年)です。
上の写真は番組で紹介された野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)
中尾山古墳
中尾山古墳についてWikipediaの解説を引用紹介します。
中尾山古墳(なかおやまこふん)は、奈良県高市郡明日香村平田にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定されている。
第42代文武天皇の真陵とする説が有力視される。
奈良盆地南東縁、文武天皇陵(栗原塚穴古墳)から北に延びる丘陵頂部に築造された古墳である。丘陵上には文武天皇陵のほか高松塚古墳が所在する。鎌倉時代に盗掘に遭っているほか、1974年(昭和49年)・2020年度(令和2年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は八角形で、対辺長約19.5メートル・高さ4メートル以上を測る[1]。墳丘は3段築成で、版築によって構築される[1]。墳丘の1段目・2段目は基壇状の石積みとし、3段目は盛土のみとする。墳丘周囲には三重の外周石敷が巡らされる[1]。主体部の埋葬施設は横口式石槨で、底石・奥壁・閉塞石・天井石各1石、側壁各2石、隅石(柱石)4石(1石は欠失)の計10石(現存9石)から構成される。石槨内面には平滑な磨きがかけられて水銀朱が塗布されるほか、石槨中央部に火葬骨の蔵骨器が納められたと見られる。副葬品は詳らかでない。
この中尾山古墳は、古墳時代終末期の8世紀初頭頃の築造と推定される。天皇陵級の古墳に見られる八角墳である点、豪壮な横口式石槨を有する最高級の火葬墓(火葬墳)である点で特異な古墳になる。被葬者は明らかでないが、近年では第42代文武天皇(707年崩御)の真陵とする説が有力視される(現墓は南の栗原塚穴古墳に治定)。
古墳域は1927年(昭和2年)に国の史跡に指定されている[2]。
以下の記述は下記ブログより再掲載
2021年4月28日放送、歴史探偵「飛鳥の八角形古墳」を視聴して - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
「中尾山古墳」が文武天皇陵と確実に宮内庁はいつまで“ねじれ構造”を放置するのか - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
上の写真は中尾山古墳(文武天皇陵)現地の遠景です。 撮影:2011-5-16
高松塚古墳の近くにあります。
文武天皇陵は別名粟原塚穴(あわらつかあな)、ジョウセン塚古墳とも
言われる。
享保19年(1734)の『大和志』では、「平田村の西に在り。
俗に中尾の石墓と呼ぶ」(現在の中尾山なかおやま古墳)としている。
明治14年(1881)に現在地に指定替えとなった。
以下現地の説明板より引用させていただきます。
「陵名を檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのうえのみささぎ)と称する。
文武天皇は、追尊岡宮天皇(草壁皇子)の皇子で慶雲4年(707)6月に
崩御され、11月に飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られたことが「続日本紀」に
見られる。」
以上は下記ブログより再掲載
奈良散策記 その7 第42代文武(もんむ)天皇陵 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
八角形の証拠135度
今迄述べてきた八角形の天皇陵以外に八角形の古墳としては
奈良県高市郡高取町の束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜か)、方形墳の上に八角形の墳丘を
造っている可能性のある明日香村の岩屋山古墳などが八角形墳の可能性を指摘されている。
岩屋山古墳については下記ブログで書いています。
岩屋山古墳 on 2016-10-7 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
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