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百耕資料館 2023年春季企画展の観覧記 on 2023-6-17

2023年06月21日 04時27分23秒 | 神戸情報
下記の日程で百耕資料館 春季企画展が開催されています。
会期は6月25日〈日〉までですのでまだ行かれていない方は是非、ご観覧ください。
私は6月17日に観覧しました。
 
百耕資料館春季企画展の基本情報
主題:明治の税制改革~地租改正と村のくらし
   紛本(ふんぽん)にみる神仏と人のイメージ
会期:2023年5月27日(土)~6月25日(日)  開館時間:10:00~16:00
場所:一般財団法人 武井報效会 百耕資料館(神戸市須磨区板宿町2丁目2-1 育英幼稚園内)
休館日:毎週月曜日  
入館料:大人300円(250円)中・高・大の学生200円(150円)(  )内は団体20名以上
 百耕資料館のGoo地図を添付しておきます。
 
百耕資料館は、板宿の旧家名門である武井家に伝わる約1万2千点にも及ぶ
歴史資料を一般に公開されています。昭和62年(1987)10月に開館。
平成22年(2010)7月10日に平成16年春以来、約6年ぶりにリニューアルオープンされ
板宿の歴史をテーマに古代から近現代まで解説とともに公開されています。

館内は撮影禁止のため館内の写真はありません。
ポスターに添付されている資料や作品の一部を紹介します。

上の写真はポスターの全体
上の写真は企画展の会期などの要項

1873年(明治6年)7月28日に地租改正法(地価の3%を地租とする)と具体的な規定を
定めた地租改正条例などから成る太政官布告第272号が制定された。
明治政府は翌年1874年(明治7年)から地租改正に着手した。

上の写真は明治6年(1873)7月28日の兵庫県布達(地租改正上諭)
新政府は明治5年(1872)から土地の所有者に対し、土地の所有権を示す 地券 と呼ばれる
証明書を発行しました。(下の写真は武井伊右衛門に対して発行された地券)

明治9年(1876)になると地租改正反対の一揆が頻発。伊勢暴動、真壁騒動(茨城)など。
これを受け明治10年(1877)1月に、地租を3%から2.5%に減額することを決定した。

その後政府の強硬姿勢は、1878年(明治11年)頃まで続いたが、税収の見込みがつくようになると徐々に緩和されていき、1880年(明治13年)に耕地宅地の改正作業が完了した。この地租改正は約7年にわたる大事業であった。

旧貢租と新地租の違い
前述の通り、江戸時代までの貢租は米による物納制度であり、あくまで生産者が納税義務者であった。また、その制度は全国で統一したものではなく、地域毎に違いがあった。このような制度を、地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めたのである。


新地租の要点としては以下の点が挙げられる。
・改正前は収穫量に応じて物納、改正後は収穫力に応じて決められた地価を課税基準とした。
・村単位とする賦課体系を廃して、個別の土地単位で賦課を行うこととした。
・従前は物納であったものを、金納とした。
・地租は地価に対する一定率(3%)を納入
・納税者は改正前の耕作者ではなく、地券の発行により確認された土地所有者(地主)した。
・制度を全国統一のものとした。


上の2枚の写真は江戸時代に作成された板宿村周辺の地図。
展示では江戸時代の板宿村、大手村など周辺の村々の年貢の石高が掲示されていました。
年貢の比率は5公5民(江戸時代の初期は4公6民であった)

地租改正について易しく解説されたYoutube動画をGooで共有させていただきました。
【中学 歴史】明治時代2富国強兵をめざす、地租改正、屯田兵 (13分)

【高校日本史】地租改正〜明治新政府の税制・土地制度改革〜  

【明治時代】Youtube高校 213 地租改正と秩禄処分【日本史】

上の写真は2階に展示の一部です。
2階には2,000点もの所蔵の紛本(ふんぽん) の一部の展示が中心である。
今回は神仏及び中国・日本の古典文学に登場する人物を描いたものを流派横断的に取り上げられています。

 百耕資料館

上の写真は百耕資料館の入り口
上の写真は百耕資料館の建物遠景 

武井百耕翁 


上の2枚の写真は武井伊右衛門(百耕)(1845-1917) の銅像と現地説明板
武井伊右衛門は弘化2年(1845)2月14日に板宿村生まれ、幼名は久太郎明治に
なってから伊右衛門と名を改めました。さらに百耕と号す。日頃より書画を愛好し、
漢詩を嗜み多くの郷友諸士と交友を結ぶ。
明治5年(1872)兵庫県第三区長の父を補佐し 明治14年(1881)兵庫県の県会議員に当選
明治16年(1883)公職を退いて邸内に秋錦園(菊園)、魁春園(梅園)の二園を開き
一般に開放す。
八部郡郡長、同年有馬郡郡長となる。大正6年(1917)3月8日73歳で没。
墓は武井家歴代の墓とおともに禅昌寺にあります。明治21年4月には有馬郡長を病気
のため辞任してからは漢学の素養から多くの詩を作り明治43年(1910)漢詩結社
隋鴎吟社の正社員となった。また、かって画を学んだ岡田広章からは画稿を譲り受けた。
特に円山、四条派の粉本に関しては2,000点の一大コレクションを誇っている。 

武井悌四郎翁 






上の2枚の写真は武井伊右衛門(百耕)の娘婿の後継者「武井悌四郎」の胸像と説明書き
撮影:2017-5-28 百耕資料館にて
武井梯四郎(1875-1925)は明治8年(1875)兵庫に竹末朗平の四男として生まれる
明治31年(1898)武井伊右衛門(百耕)の長女愛子との養子縁組で武井家に入る。
明治32年(1899)から明治33年(1900)まで神戸新聞主筆・客員の後退社、
千葉県佐倉中学校長を振り出しに教育界に入り、各府県で師範学校長を歴任
長崎県師範学校長任期 明治39年(1906)12月6日 - 明治40年(1907)6月14日
大正6年(1917)兵庫県武庫郡須磨町長となる。
大正9年(1920)神戸市との合併により町長辞任、神戸市会議員を勤める。
大正14年(1925)没


上の写真は須磨町長時代(1917-1920)の 武井梯四郎氏

神戸歴史遺産

百耕資料館の「武井家文書」および「武井家伝来絵画資料(粉本)」は
2021年7月28日に神戸歴史遺産に指定さています。

 

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