現在、部屋の資料や本の整理処分作業を行っています。
その際、神戸港中突堤中央ターミナル(こもめりあ)で平成24年(2012)2月25日
から3月4日開催の「維新と海図 柳 楢悦 没後120周年記念」のリーフレットが
出てきました。(下の2枚の写真)
拡大版はこちら 20120225kobe.pdf (jha.or.jp)
そこで、柳 楢悦(やなぎ ならよし)及び海図について調べてみました。
柳 楢悦について
Wikipediaでは次のように解説されています。
柳 楢悦(やなぎ ならよし、天保3年9月15日(1832年10月8日) - 明治24年(1891年)1月15日)は、
日本の海軍軍人・和算家[2]・数学者・測量学者・政治家。最終階級は海軍少将。
錦鶏間祗候・元老院議官・貴族院議員。
江戸(現・東京)生まれ。津藩の下級藩士・柳惣五郎の長男。
嘉納治朗作希芝(嘉納治五郎の父)の娘を後妻としている。
年譜
天保3年(1832年) - 江戸染井の安濃津藩下屋敷にて産まれる、幼名芳太郎
弘化3年(1846年) - 和算家・村田恒光(佐十郎)に入門
嘉永3年(1853年) - 藩命により伊勢湾沿岸を測量(指揮は村田恒光)
安政元年(1855年) - 長崎海軍伝習所へ派遣
明治3年(1870年) - 海軍に出仕
明治5年(1872年) - 海軍大佐
明治9年(1876年) - 水路局長
明治10年(1877年) - 神田孝平と共に、日本初の学会・東京数学会社(現・日本数学会)を設立
明治11年(1878年) - 天文学・天文台の実情視察のために欧米視察
明治13年(1880年) - 海軍少将
明治15年(1882年) - 大日本水産会創立に尽力し、名誉会員に推される[3]
明治21年(1888年) - 予備役編入、元老院議官
明治23年(1890年) - 貴族院議員
10月20日 - 錦鶏間祗候[4]
明治24年(1891年) - 肺炎のため没、青山霊園に埋葬
さらに詳しく調べたい場合は
海図について
明治4年(1871)「春日」の艦長となった柳 楢悦は北海道・東北沿岸各港の測量を
実施しました。翌明治5年9月、その成果の一つとして、我が国最初の海図
「陸中國釜石港之圖」が海軍省水路局から刊行されました。釜石港の海図に続き、
全国各地の港の海図が刊行されました。
以下は神戸港付近に関する海図のお話です。
上の3枚の写真は明治5年(1872)神戸港を描いた最も古い海図で描かれた神戸港(部分)と
説明書き。さらに海図の作成にあたり測量した英国測量船「シルビア号」のパネル展示
出典:2017-7-29海フェスタ神戸 海の総合展 第五管区海上保安部展示
この海図は上に添付のリーフレットでも「KOBE AND HIOGO ANCHORAGES 1872
英国海軍水路部寄贈」として写真掲載されています。
上の2枚の写真は水路部(現:海上保安庁海洋情報部)が米国水路部の海図を複製して
作製された神戸付近のもっとも古い海図(海図100号)明治26年(1893)2月刊行
出典:2017-7-29海フェスタ神戸 海の総合展 第五管区海上保安部展示
上の2枚の写真は日本の警備艦「筑波」が測量し、海図作成に至るまですべての工程を
日本人技師のみで行った初めての海図(明治29年1月刊行)と説明パネル
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