姫路 船場城西・城南地区の散策シリーズの第13回として2022年10月3日に
訪問した白鷺橋と2号線の拡幅記念碑の写真を紹介します。
訪問した白鷺橋と2号線の拡幅記念碑の写真を紹介します。
第3回 船場川船繋ぎ岩
第4回 炭屋橋(船入川之跡)
第5回 材木町 歳徳寺
第6回 千姫像と船場八景③梅雨松夜雨
第7回 高瀬舟碑
第9回 西国街道碑
第10回 高田神社
第11回 車門跡
第12回 埋門跡
上の写真は船場川に架かる白鷺橋の北側、欄干部などの遠景
上の2枚の写真は白鷺橋と白鷺橋拡幅記念碑
説明書きが読み取り不能であるのでそのまま記載しておきます。
白鷺橋拡幅記念碑
大正初期から、姫路市の商工振興策の一環として、公共用地を確保するため、
姫路城の中濠の埋め立て作業が急ピッチで進められた。
昭和7年には、城南部の幅約20メートルの中濠が埋め立てられ、翌8年、
船場川に架けられたこの白鷺橋の竣工をまって、国道2号が開通した。
橋名の由来は19世紀頃より姫路城の推称とされた白鷺城によるものである。
その後、第2次世界大戦で、当市もまた米軍の空襲を受け、特に昭和20年7月
3日夜の第2次空襲で、この周辺は火の海となり焦土と化した。今もこの橋に
残る黒い焦げ跡が当時の状況を物語っている。
戦後の目覚ましい経済復興と交通量の増大に対応して、昭和49年より国道の
拡幅事業に着手したが地元住民の強い願望もあり、この橋は原型のまま拡幅
することとし、平成3年に竣工した。
ここに、白鷺橋の拡幅を記念して、その由緒を記するものである。
平成3年3月記 兵庫県
姫路への空襲は、昭和20年(1945)6月22日と7月3日深夜から7月4日未明にかけての2度ありました。
1回目の姫路空襲は川西航空機姫路製作所を標的としたもので、2回目は姫路城も含めた市街地への
空襲であった。姫路城には空襲の標的を避けるために黒い網がかけられました。その他の対策が
功を奏して姫路城は奇跡的に焼失を避けることができました。
戦後、復興の段階には姫路城は市民の心の支えとなりました。
2回目の空襲(1975年7月3日&4日)についてWikipediaより引用
マリアナ諸島のグアム・サイパン・テニアンの3島4基地から、徳島・高松・高知、そして姫路への爆撃のため501機のB-29が出撃し、硫黄島を経由して、それぞれの都市へと向かった。同日深夜から翌未明にかけての約2時間、姫路市街地全域に焼夷弾が降り注いだ。火の手は姫路駅前から上がり、順次周辺へと拡大、町は火の海と化し、総戸数の40%が焼失。飾磨でも一部が被災した。
死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者45182人。
姫路城は天守に命中した焼夷弾が発火せずに焼失を免れ、その姿に勇気づけられた被災者もいたようである。
上の2枚の写真は国道線竣工記念の碑の表面と裏面
裏面に緒元として下記事項が記載されています。
事業名:中播都市計画道路事業
路線名:街路 国道線
事業期間:自 昭和49年(1974)2月 至 平成3年(1991)3月
事業区間:姫路市綿町~姫路市上片町 899m
幅員: 27m~30m
施行者:兵庫県
題字: 姫路市長 戸谷松司
尚、白鷺橋を含む国道2号が竣工開通したのは昭和8年 (1933年) である。
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