CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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双日社長 藤本昌義さんと鈴木商店 MBSのザ・リーダーを視聴して on 2021-8-8

2021年09月05日 06時57分18秒 | Weblog

大正時代のGNPの1割の売り上げがあったという鈴木商店の貿易部門を担った日本商業

をルーツに持つ総合商社の「双日(そうじつ)」の社長を2017年より務める藤本昌義さん

が出演されたテレビ番組(2021年8月8日、4ch 5:40-6:10「ザ・リーダー」)を視聴した。

そこで、紹介された鈴木商店と双日に関係する事項を整理してみました。

藤本昌義社長は2017年に佐藤洋二社長を引き継がれ社長に就任されました。

番組では、司会者の高井アナと双日の藤本昌義社長が鈴木商店跡地のモニュメント前で

待ち合わせするところから始まります。(下の2枚の写真)

藤本昌義社長は鈴木商店の経営理念「情報を収集・分析して新事業に投資」を双日も

受け継いでいると述べられました。

上の3枚の写真は記念碑の文章と写真です。 撮影:2017-10-14

 

鈴木商店は1874年(明治7年)に神戸で創業し、大正期に売上高日本一の総合商社として栄えました。

神戸開港から150年となる2017年、我が国の産業発展に貢献した鈴木商店の偉業を称え、また、

神戸市が主催する神戸開港150年記念イベントの中で鈴木商店を神戸のみならず日本の経済の発展に

多大に貢献した企業として広く紹介することを受け、モニュメント(記念碑)が建立されました。

モニュメントは鈴木商店の直系の太陽鉱工、神戸製鋼、双日、帝人が共同で建立。

辰巳会・鈴木商店記念館が主宰。

モニュメントに関する詳細は下記ブログで纏めています。

 鈴木商店跡地のモニュメントの現況 on 2017-6-25&2017-10-14 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

鈴木商店の事業の盛衰

鈴木商店の事業多角化
明治37年(1904)から大正2年(1913)にかけて精製糖、製鐵、織物、製粉、化学繊維
製塩、製油、煙草、麦酒、火薬、セメント、船舶、損害保険など一挙に多角化を図っています。
商事部門では分社化をして日本商業を設立しています。

鈴木商店の絶頂期
大正3年(1914)7月に始まった第1次世界大戦に伴う好景気を通じて鈴木商店は
世界的貿易商社に躍進していきます。
商機と見た金子直吉は大正3年(1914)11月から鉄・船舶を中心とした一斉の「買い出動」
Buy any steel,any quantity,atany priceの号令を発します。

この頃(大正4年(1915)11月1日)天下三分の宣言書が発せられます
詳細は下記サイトに記載しています。
 鈴木商店 大番頭 金子直吉の「天下三分の宣言書」

実際に鈴木商店は貿易総額で三井・三菱を超えています。

 大正6年(1917) 鈴木商店15.4億円(三井10.95億円)
 大正8年(1919) 鈴木商店16億円(三井12億円)

この当時の国家予算がこの規模であったとのこと。また当時のGNPの10%に相当
当時のエピソードとしてスエズ運河を通る物資の10%が鈴木商店の商品
ヨーロッパ戦線ではSZKの刻印の入った小麦袋が土嚢として使用

 

反動不況と破綻
大戦の終結(大正7年(1918)11月11日)後も、ヨーロッパの復興需要で大きな利益を
あげたが7、ワシントン軍縮や関東大震災の影響で資金繰りが逼迫。大正12年(1923)
から台湾銀行主導の組織改革が行われたが金子直吉のワンマン体制打破に失敗。
ここでお家さん(鈴木よね)に関するエピソードを紹介します。「台湾銀行の2条件
(持ち株会社お整理と金子直吉の退陣)をのんで鈴木を助けてください」と若い店員が
須磨の鈴木よね邸に頼みにきた。「お家さんどうかわかってください。金子さんさえ切れば
鈴木は新しく残れるのです。神戸製鋼所をはじめ業績のいい会社がたくさんあるのです。」
お家さんは「ええのや・・・鈴木商店の繁栄は直どんが作って、直どんが潰した・・うちは
いい夢を見せてもろうただけのことや。お家さんとよばれて・・・」倒産整理の道を選んだ。
須磨の鈴木よね邸(敷地2,000坪)は大正8年(1919)に建てられており現在跡地は三菱重工
神戸造船所山畑社宅になっています。
昭和2年(1927)震災手形処理法案審議の過程で、約2億円の手形のうち、約1億円が
台湾銀行、さらにそのうちの7,000万円余りが鈴木商店の手形であることが明るみに出た。
審議は紛糾し昭和金融恐慌がはじまる。
上記の法案は成立し、救済される見通しがついたが台湾銀行は財閥系銀行がコール市場から
金を引き上げたためやりくりがつかなくなり3月26日、鈴木商店に対する新規融資を停止。
4月4日に鈴木商店は破綻した。

世界の三大倒産と言われています。鈴木商店以外の2つは
1.スウェーデンのクロイガー2.ドイツのシュテインネス

 

双日の歴史

日本商業(以下、日商と略)は鈴木商店の貿易部門を強化するため明治42年(1909)に

設立され、鈴木商店の取り扱う商品以外の物資の輸出入を行う貿易専門商社で取り扱い

商品の多角化が図られた。日商はドイツ系外国商館ラスペ商会出身のエミール・ポップとの

合弁事業としてスタートした。ラスペ商会が事業不振から解散するに際し、ポップから

相談を受けた金子直吉はポップの人脈を利用して鈴木が手掛けていなかった綿花、綿糸布、

羊毛、紙、銅などを取り扱うこととなった。

日商設立時の資本金は50万円、社長空席のままポップを専務に起用。取締役に増田斜、

藤田助七(辰巳屋藤田商店代表)、森衆郎、井田亦吉(ラスペ商会出身)の陣容でスタート。

その後、明治43年(1910)ポップが辞任すると鈴木商店全額出資の経営となり、大正8年

(1919)資本金を一挙に500万円の増資し、大正9年(1920)鈴木岩次郎(2代目)が社長に

就任。さらに大正13年(1924)永井幸太郎(後の日商(株)第2代社長)を専務に送り込み

事業展開を加速させた。昭和2年(1927)鈴木破綻により、(株)鈴木商店を整理会社として

その商権を日商に移管、これを改組し、鈴木の後継会社として昭和3年(1928)日商(株)が設立。

「Slow but Steady」を合言葉に社員全員が鈴木の轍をふまないという強い決意でスタートした。

昭和18(1943)日商産業と改称、昭和24年(1949)再び日商に戻し順調に発展して創立40周年

を迎えた昭和43年(1968)、岩井産業と合併して日商岩井となった。

日商岩井は更に平成16年(2004)ニチメンと経営統合して双日が誕生した。

 上記は小宮由次 著「金子直吉」(2012)Page53-54より要約引用

双日の歴史については下記サイトが詳しい。

双日の歴史|双日株式会社 (sojitz.com)

 

祥龍寺での対談

番組では場所を神戸市灘区にある祥龍寺(鈴木よねさんが寄進)に移し藤本昌義社長と

高木アナとの対談が行われました。

上の写真は祥龍寺山門前での藤本社長と高木アナ

上の写真は境内の鈴木よね像

祥龍寺境内の鈴木商店所縁の顕彰碑などについての詳細は下記ブログで記載

  祥龍寺の鈴木よね社長の銅像と大番頭金子直吉、柳田富士松翁の頌徳碑 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

上の写真は祥龍寺本堂での対談場面

上の写真はNIKE創業者のフィリップ・ナイト氏との交流を話される藤本社長

対談当日の服装が黒づくめなのはフィリップ・ナイト氏が黒しか着ないことから。

上の写真は経営者としての夢で「人材が輩出する会社」と述べられた藤本社長

関西経済が元気になるには先見性とベンチャー精神が必要と・・・

上の写真は2022年春に開業予定の神戸市西区の西神中央の旧そごう

双日が企画を担当して開業するそうです。

上の写真は2021年2月、ロイヤルHDに100億円を出資しての提携発表場面

双日としては東南アジアでの外食産業の成長性に着目しての提携と説明

上の写真はロイヤルHDが展開するお店

 


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