本日は書写山圓教寺 散策記シリーズの第4回として椎名鱗三文学碑というテーマで書いていきます。
書寫山圓教寺への訪問は下記の3回です。
1)2009年6月28日 (日)
2)2016年1月18日(月)
3)2023年1月18日 (水)
書写山圓教寺 散策記シリーズ過去の記事
上の2枚の写真は書写山の麓に実家がある椎名麟三の文学碑
「言葉のいのちは愛である1980」と書かれています。
書は生前に親交があった岡本太郎氏による筆です
石碑の裏側には次のように書かれています。
椎名鱗三
一九一一年母の里書写に生れ 名作深夜の酒宴 により戦後文学の代表者となる
のちキリスト教に入信し 自由の彼方で 美しい女 をはじめ多くの秀作を世に問うた
姫山物語 上演にかたむけた郷土愛は いまも姫路市民の感動を呼ぶ
一九七三年没
碑面の書は親交のあった岡本太郎氏による
造形
小野田 實
一九八〇年五月
椎名鱗三文学碑建設委員会
のちキリスト教に入信し 自由の彼方で 美しい女 をはじめ多くの秀作を世に問うた
姫山物語 上演にかたむけた郷土愛は いまも姫路市民の感動を呼ぶ
一九七三年没
碑面の書は親交のあった岡本太郎氏による
造形
小野田 實
一九八〇年五月
椎名鱗三文学碑建設委員会
下記の文章は山陽電気鉄道の本社 (神戸市)の前の文学碑に記載の椎名鱗三の略歴です。
訪問記は下記ブログ
椎名 麟三 本名 大坪 昇
1911年10月1日 姫路市生まれ少年期を大阪、姫路で過ごす
1929年 宇治川電気(株)電鉄部(現山陽電気鉄道(株))に
入社、2か年余り車掌として勤務。のち上京
して作家を志す。
1947年 「深夜の酒宴」を発表し戦後派第一の新人として世に出る。
1953年 自伝小説「自由の彼方で」を発表
1956年 「美しい女」で芸術選奨文部大臣賞を受賞・
代表作であるこれらの作品は当社に勤務して
いたころの生活を背景に書かれたもので、この頃より
西代、須磨、姫路に想いをよせた多くの秀作を世に問う。
1973年3月26日 没 享年61歳
1985年3月
山陽電気鉄道株式会社
Wikipediaで紹介解説された椎名麟三像について引用させていただきます。
「父・大坪熊次(おおつぼ くまじ)と母・みすの、の長男として、兵庫県飾磨郡曾左村之内書写村(現・姫路市書写東坂(ひがしさか))に出生。両親ともに愛人を持ち、のちに父母ともに自殺した事から困窮し、14歳で家出。旧制姫路中学を中退し、果物屋での20時間労働、飲食店の出前持ち、燐寸工場の鉄具ひろい、コック見習いなどの職を転々とした。宇治川電気(現・山陽電鉄)の車掌時代にカール・マルクスを読みはじめるとともに日本共産党に入党。
1931年(昭和6年)に特高に検挙された。獄中で読んだニーチェ『この人を見よ』をきっかけに転向。その後ニーチェの『大いなる正午』をきっかけに哲学にのめり込む。エッセイ「蜘蛛の精神」によれば、キルケゴール、ジンメルなどを師とあおぎ、後に入信することとなるキリスト教に関する知識を得た。小説に関してはドストエフスキーとの出会いを通して「小説なるものの真の意味」を知ったと述べている。戦後『深夜の酒宴』(1947年(昭和22年))で登場。1950年(昭和25年)、キリスト教へ入信。日本基督教団上原教会にて赤岩栄牧師から洗礼を受ける。以後キリスト教作家として活動。55年『美しい女』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1973年(昭和48年)3月28日に61歳で死去。」
平成27年(2015年)2月14日(土)から3月29日(日)まで姫路文学館で
寄贈記念「椎名麟三新資料展」が開催されました。
このイベントは椎名麟三の文学資料がご遺族の大坪家から寄贈されたことを記念
して開催されたものです。展示された資料のほとんどが未公開資料で、
椎名が手もとに保管していた原稿、創作ノート、草稿、書斎の本棚に置かれていた
愛蔵書、主に家族にあてた手紙、演劇やテレビ、ラジオ関係の台本などがあります。
1911年10月1日 姫路市生まれ少年期を大阪、姫路で過ごす
1929年 宇治川電気(株)電鉄部(現山陽電気鉄道(株))に
入社、2か年余り車掌として勤務。のち上京
して作家を志す。
1947年 「深夜の酒宴」を発表し戦後派第一の新人として世に出る。
1953年 自伝小説「自由の彼方で」を発表
1956年 「美しい女」で芸術選奨文部大臣賞を受賞・
代表作であるこれらの作品は当社に勤務して
いたころの生活を背景に書かれたもので、この頃より
西代、須磨、姫路に想いをよせた多くの秀作を世に問う。
1973年3月26日 没 享年61歳
1985年3月
山陽電気鉄道株式会社
Wikipediaで紹介解説された椎名麟三像について引用させていただきます。
「父・大坪熊次(おおつぼ くまじ)と母・みすの、の長男として、兵庫県飾磨郡曾左村之内書写村(現・姫路市書写東坂(ひがしさか))に出生。両親ともに愛人を持ち、のちに父母ともに自殺した事から困窮し、14歳で家出。旧制姫路中学を中退し、果物屋での20時間労働、飲食店の出前持ち、燐寸工場の鉄具ひろい、コック見習いなどの職を転々とした。宇治川電気(現・山陽電鉄)の車掌時代にカール・マルクスを読みはじめるとともに日本共産党に入党。
1931年(昭和6年)に特高に検挙された。獄中で読んだニーチェ『この人を見よ』をきっかけに転向。その後ニーチェの『大いなる正午』をきっかけに哲学にのめり込む。エッセイ「蜘蛛の精神」によれば、キルケゴール、ジンメルなどを師とあおぎ、後に入信することとなるキリスト教に関する知識を得た。小説に関してはドストエフスキーとの出会いを通して「小説なるものの真の意味」を知ったと述べている。戦後『深夜の酒宴』(1947年(昭和22年))で登場。1950年(昭和25年)、キリスト教へ入信。日本基督教団上原教会にて赤岩栄牧師から洗礼を受ける。以後キリスト教作家として活動。55年『美しい女』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1973年(昭和48年)3月28日に61歳で死去。」
平成27年(2015年)2月14日(土)から3月29日(日)まで姫路文学館で
寄贈記念「椎名麟三新資料展」が開催されました。
このイベントは椎名麟三の文学資料がご遺族の大坪家から寄贈されたことを記念
して開催されたものです。展示された資料のほとんどが未公開資料で、
椎名が手もとに保管していた原稿、創作ノート、草稿、書斎の本棚に置かれていた
愛蔵書、主に家族にあてた手紙、演劇やテレビ、ラジオ関係の台本などがあります。
「言葉の命は愛である」が正しいのです。
ご指摘の箇所については本日、訂正しました。
訂正のご指摘に感謝します。