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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

封境之地---和木町

2005年01月21日 05時06分07秒 | 岩国情報

和木町は山口県の最東端に位置しており小瀬川をはさみ、
数々のドラマが繰り返された。
第2次長州征伐(長州側からは四境の役)慶応2年(1866)
注)四境=芸州口、大島口、石州口、小倉口
6月7日大島口幕府軍の軍艦が周防大島を砲撃し開戦となった
6月14日に芸州口、6月16日に石州口6月17日に小倉口で
戦いが始まりました。
芸州口の戦いで長州軍は彦根藩及び高田藩に対して人数の上では
劣勢であったが、慶応元年(1865)長崎のグラバー氏よりミニエー
銃4,100丁、ゲーベル銃3,000丁を購入し参戦した。
これが四境の役で幕府を退けた最大の要因となった。
芸州口での長州軍は岩国、柳井、玖珂の5代官所で養成された
2,000人の民兵で彦根・高田の幕府軍と約2ヶ月にわたる戦争で
幕府軍に小瀬川を渡らせることなく、将軍家茂の死も重なり幕府は
長州と和睦をせざるを得ない状況となった。
この時和木村(当時)では男は農兵、女は炊出しや食料の運搬など
村をあげて防戦した。
この戦争は明治維新という新しい歴史を開いた回天の戦いであった。
補足(しゅう翼団品川清兵衛と彦根藩竹原七郎平の戦い)
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由宇駅前の丁塚

2005年01月20日 06時08分02秒 | 岩国情報
由宇駅前の丁塚(写真)について紹介します。
丁塚には下記の文字が刻まれています。
大将軍霧峯神社是より28丁
 ラムネ製造所 合資会社 霧峯商行
    明治32年1月 吉祥

はじめは南町の坊迫の入口にあったようですが、
明治30年(1897)9月広島-徳山間に山陽鉄道が
開通し由宇駅が出来、由宇の玄関ということでここに
移設されたようです。
寄進者の霧峯商行は上田貞次郎、嶋谷徳三郎、伊賀崎増太郎
の各氏などによって設立された清涼飲料の製造会社です。
 ゆうの史跡・文化財めぐり Page102の文を引用
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岩国の人材を育てた英国人教師Herbert Augustus Stevens

2005年01月19日 05時54分28秒 | 岩国情報
英国人教師Herbert Augustus Stevens
(1847 3/27---1878 5/3病死)
明治4年(1871)5月27日より明治6年(1873)8月23日までの
2年間Stevensは山口県出張御雇教師として英語にて物理、化学
歴史、地理を教えた。場所は現在岩国資料館となっている当時の
岩国学校である。
藤岡市助(日本のエジソン---東芝の創始者)、大屋権平(鉄道の発展に
寄与)、山県修(大阪造幣局)、江木哀&渡辺安積(中央大の創立に
参画)他多くの有名人を傑出した。
彼は2年間の契約終了後は神戸の裁判所に勤務している。
彼の墓は神戸市立外人墓地にある。
岩国ではStevensの後、仏人ミットンが外人教師となっている。
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一の滝寺---岩国市室の木

2005年01月18日 06時03分59秒 | 岩国情報
一の滝寺について紹介します。
住所:山口県岩国市室の木町3-5-48

この寺は医師会病院の近くにあり、2号線から3重の塔
が見えます。
宗派は真言宗醍醐派
この3重の塔の横に、細長い小さな滝がある。
この3重の塔は昭和54年(1979) に建てられ
総高約10m。木造塔である。
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口屋番所跡---和木町瀬田深山口

2005年01月17日 05時43分20秒 | 岩国情報
口屋番所は領内の交通の要所通船を待つ河口
に設けられ通行人の取り締まりや運上銀の徴収
がその主な役目であった。
岩国藩では元禄元年(1688)諸売買すべて
運上掛かることまた領外に出される櫨の実
を領外に輸出する場合は通手形が必要で
口屋番所又は河口番所に示す必要ありとの
記録が残っている。
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大山祗神社---しまなみ海道大三島

2005年01月16日 07時24分13秒 | 旅行記
瀬戸内の大三島に渡ると原始林の楠群に覆われた大山祇神社がある。
天照大神の兄神大山積大神一座を祀る。朝廷や武将の尊崇を集め、
奉納された多くの武具、甲冑が多いことで有名。
三島水軍に篤く信奉され全国の国宝・重文の甲冑の実に8割が保管
されています。
この大山祇神社(三島大明神・大三島宮)は全国山祇神社の
総本社であり、大山祇神の本拠地(分社は全国に多くある)です。
2004年12月30日訪問。規模の大きい神社でした。


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鶴姫像---大三島大山祗神社横

2005年01月15日 07時56分40秒 | 旅行記
大祝安用(おおほうりやすもち)の娘と言われ、瀬戸内の
ジャンヌダルクと呼ばれる鶴姫の像。
像は大三島大山祗神社横にあります。

毎年行われる「鶴姫まつり」は、戦国時代水軍の指揮をとり、
周防大内方と戦い陶晴賢の銃弾を受けて遂に壮絶な戦死を
するというストーリー「海と女と鎧」の小説又は伝説上の
人物鶴姫にちなんで催される勇壮かつ華麗なお祭です。
なかでも大山祇神社から宮浦港までの間を鶴姫と武士たちが
練り歩く鶴姫行列が目玉となっているようです。
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竹原七郎平徒渉地点---和木町

2005年01月14日 06時09分15秒 | 岩国情報

慶応2年(1866)5月28日、幕府は長州藩へ宣戦布告。
小瀬川を隔てて大竹側は幕府軍対岸に長州軍が相対した。
慶応二年(1866)6月14日の朝その日の小瀬川は霧が深く、
第二次征長軍芸州口先鋒の彦根藩木俣隊使番竹原七郎平は、
従者二名と共に先陣をきって小瀬川に渡ろうとしましたが、
長州軍(しゅう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れました。
異郷に死んだ三士の遺骨は、長州の品川清兵衛によって、
その勇を讃える碑文と共に安禅寺に手厚く葬られました。
墓所は大瀧山安禅寺(曹洞宗)境内(和木町)にあります。

 

関連ブログ:

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/8b5ee1d193db8f4d196d446a17508a30

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旧山陽道(西国街道)関戸宿---岩国市

2005年01月13日 06時06分04秒 | 岩国情報

旧山陽道(西国街道)は遠管(おか)(大竹市小方)の駅家を過ぎ
小瀬川を渡って周防国小瀬(岩国)に入り山道を越えて(小瀬峠)
石国(いわくに)駅家(岩国市関戸付近)に至る道であった。

関戸宿の本陣と街並み(岩国市関戸)
関戸の宿には参勤交代のための本陣や脇本陣があり、
一般の旅籠や茶店などの施設の他に芝居小屋も設けられていた。
(写真は脇本陣跡)
この宿付近には駅家が置かれ20頭の駅馬を常備し
駅館の施設が整っていたと思われる。
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曹洞宗大瀧山安禅寺---和木町

2005年01月12日 05時56分37秒 | 岩国情報
大瀧山(大滝山)安禅寺は創建の元弘年間(1331年~1333年)
には天台宗黙養寺と称していた。
応永5年(1398)に臨済宗法昌寺と改称するが兵火で断絶。
吉川氏が岩国に国替えになった頃曹洞宗に改められ寺号も
安禅寺となった。
仏像には見るべきものが多く本尊 釈迦如来座像
脇侍 迦葉尊者座像及び阿難尊者座像が文化財に
指定されている。

写真は鐘楼門 額には大龍山と書かれており享保10年
(1725)栗屋公豊が寄付と刻印されている。
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