CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

神戸市営交通100周年

2016年10月20日 05時03分06秒 | 神戸情報
神戸市交通局は、大正6年(1917)に神戸市電と電気事業を開始して以来、
平成29年(2017)8月1日に100周年を迎える予定です。

下の写真は神戸市営交通100周年を告知するポスターです。



100周年の記念行事としては下記のようなイベントが実施されました。

(1)平成28年5月10日 神戸市営交通100周年記念ロゴマークが決定


上の写真は決まった神戸市営交通100周年記念ロゴマーク
   東京都大田区在住のグラフィックデザイナー中村千秋さんの作品 
   298点の応募作品から選ばれました


(2)平成28年7月19日 市営交通100周年プレイベント
       「北区山田町重要文化財めぐり」

(3)西神・山手線新長田駅~海岸線新長田駅連絡通路でなつかしの写真展
    平成28年8月1日~8月31日

(4)市営地下鉄「新型車両デザイン総選挙」10月17日~10月23日

これからも色々とイベントが開催されると思います

神戸市営交通の歴史
 http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2016/05/20160510701101.html
 上記神戸市サイトより引用

1917(大正6)年8月1日 「神戸市電気局」を創設(※)市営として発電、
             配電及び市街地路面電車事業を開始
1930(昭和5)年9月16日 市営バス事業を開始
1942(昭和17)年5月19日電気局を「交通局」と改称
1971(昭和46)年3月13日市電路線(路面電車事業) 全線廃止
1977(昭和52)年3月13日地下鉄西神線(名谷~新長田) 営業開始
1987(昭和62)年3月18日地下鉄西神・山手線 全線開通
2001(平成13年)7月7日地下鉄海岸線 営業開始
2017(平成29年)8月1日神戸市営交通100周年

※民営で行われていた発電、配電及び市街地路面電車事業を神戸市が引き継ぐ



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須磨一の谷 皇女和宮像 on 2016-10-17

2016年10月19日 17時34分28秒 | 神戸情報
須磨観光協会が例年のごとく2016年10月1日から11月30日の日程で
スタンプラリーが行われています。安徳帝内裏跡伝説地がクイズ設置場所の
一つとなっており現地に出かけた。(2016年10月17日訪問)

安徳帝内裏跡伝説地(安徳宮)の西手に本日のテーマの皇女和宮像があります。


上の写真が皇女和宮像です。
「静寛院和宮様之像」と書かれた石碑が横に建てられています。
衣装の紋所は丸の三つ葉葵


上の写真は平成13年(2001)3月に一の谷二丁目自治会が作成した説明板です。
読みづらいので書かれている内容を簡単に述べます
「静寛院和宮様の略歴記載 公武合体で将軍 徳川家茂公に嫁がれた時に
 詠まれた歌 惜しまじな君と民とのためならば身は
           武蔵野の露と消ゆとも
 中村直吉氏が神戸市内の高等女学校に寄進した三体のうちの一体が
 こちらに安置の和宮像であること。」

全文は下記のとおり
「和宮様は、仁孝天皇の第八皇女で6才にして有栖川熾仁親王(別荘が後の
舞子ビラ)と婚約をされ、むつまじく育たれた。
しかし、幕末に朝廷と幕府との関係を改善し国論を統一せしめるため、
幕府の強い要請で和宮様は有栖川熾仁親王との婚約を破棄し、17才で
徳川幕府の14代将軍家茂に嫁がれた。
惜しまじな 国と民との為ならば 身は武蔵野の露と消ゆとも
その後、有栖川熾仁親王総指揮の官軍が江戸幕府へ総攻撃をかけようと
したが、和宮様は嘆願し、江戸の町を戦火から救われた。
昭和3年に神戸市各小学校に二宮尊徳像を寄贈した中村直吉氏は外遊で
西欧の女性たちの質素で勤勉な姿にふれ、日本女性の伝統ある美徳保持を
いつまでも願い昭和9年に県一(神戸高校)、県二(夢野台高校)、
市二(須磨高校)の三学校に和宮像を寄付した。
この像は戦争中の金属供出から免れたその内の一体だと思われる。
他の像と比べ憂いを含んだ物悲しい少女の雰囲気が表れている。
この度、多くの方々のお力添えで、ここ安徳花壇の側に和宮様をお迎え
することができたのは非常に喜がしい限りであります。
     平成13年(2001年)3月
        一の谷町二丁目自治会」


皇女和宮像について小生のブログ(須磨一の谷皇女和宮像)で書いていますが
上記説明板にあるような銅像のルーツなど詳しい内容を記載していないので
今回、もう少し掘り下げて記事を書いていきます。

まず静寛院和宮様について簡単に記載します。Wikipediaよりの引用がメイン

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日
(1846年7月3日) - 明治10年(1877年)9月2日)は、仁孝天皇の第八皇女。
母親は橋本経子(観行院)
孝明天皇の異母妹。明治天皇は甥にあたる。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室。
品位は二品、薨後贈一品。家茂死後、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。

嘉永4年(1851)7月12日、5歳で孝明天皇の命で有栖川宮熾仁親王と婚約
                     (舞子ビラの地に屋敷があった)

万延元年(1860)10月18日、孝明天皇は和宮の降嫁を勅許

文久元年(1861)10月20日 15歳で和宮一行は桂御所を出立

文久元年(1861年)11月15日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入った

文久2年(1862)2月11日、和宮と家茂の婚礼が行われる

慶応元年(1865)8月10日、和宮と共に江戸に下向し大奥に住まっていた
                         母・観行院が卒去

慶応2年(1866)7月20日、将軍 徳川家茂が大坂城で薨去

慶応2年(1866)12月9日、和宮は落飾し号を静寛院宮と改めた

慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇が崩御
    和宮は1年余りの間に母・夫・兄を次々と失うこととなった

明治2年(1869年)1月18日、和宮一行は東海道を京都へ出発、2月3日、京都に帰着

明治7年(1874年)7月に東京に戻る

明治10年(1877)静寛院宮 和宮様は病気療養のため箱根 塔ノ沢元湯の
老舗旅館「環翠楼」で療養(脚気と言われるが定かでない)されそこで身罷られた

法名:静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉
(せいかんいんのみやぞういっぽんないしんのう こうよわじゅんていきょだいし)
墓所:芝 増上寺(徳川家茂と共に眠る)


ここで「静寛院和宮様の銅像のルーツ」についての話題に変えます。

和宮の銅像の作者は慶寺丹長で、和宮像の発注者は米問屋店主の中村直吉である

中村直吉(1880~1939)は兵庫佐比江生まれで苦難の少年時代を過ごし独立後
米問屋として成功を収め神戸米穀取引所理事長、県会議員などを務めた。
中村直吉氏(1880~1939)は昭和8年神戸市内の公立高等女学校に
「和宮像」「楠母子像」の寄進を推奨。
昭和9年に神戸市立第二高等女学校(市立須磨高校から現在須磨翔風高校)
および 県一(現:県立神戸高校)・県二(現:県立夢野台高校)の二女学校に
寄贈しました。
同11年には、東京の増上寺と日本女子会館に和宮像を寄贈しています。
当時、和宮は「日本女性の鑑」と評され、称賛されていました。

安徳帝内裏跡伝説地にある「和宮像」は県二高女にあったものである。
昭和23年(1948)4月「新制高校男女共学第一号校」指定を占領軍から
申し渡された同校校長は和宮像の処置に困惑し和宮像を保存してくれそうな
人物を探していたところ中村直吉氏の知友の大楠公顕彰会役員で後の須磨
信用組合理事長の塩田富造氏が自邸に匿うことになりました。
秘匿の方法には諸説があり判然としないが塩田富造氏が異人山のどこかの
地中に埋めていたのが妥当ではないかと筆者は思っています。
塩田富造氏は 須磨一の谷の旧異人山を戦後買取、そこに南洋植物パーク
(昭和39-昭和59)を造りさらにその上の山中に昭和29年(1954)4月11日
「寄手墳」、「身方墳」という二つの立派な五輪塔を建てた人物である。
昭和26年(1951)9月8日の日米講和条約さらに進駐軍の撤退もあったので
「寄手墳」、「身方墳」の真ん中に和宮像が建てられた(年月日は不詳)
平成7年1月17日の阪神淡路大震災で和宮像、「寄手墳」、「身方墳」は
倒壊、和宮像の両手の捧げられた緋扇の部分が欠損したが塩田氏の遺族が
この像に関心を示されなかったので放置され和宮像の内部空洞がスズメバチの
巣になっており近寄り難い惨状であった。これを見かねた地元の自治会有志が
立ち上がり平成12年に移設再建された。

県一高女(現:神戸高校)の和宮像は神戸市内の某氏宅に安置
市立第二高女(現:須磨翔風高校)の和宮像は神戸市立博物館の倉庫にあります。

さらに詳細な和宮像の流転については歴史と神戸 42巻第3号 238号
(2003年 June) 森田修一氏 「静寛院和宮像」流転の真相
Page23-30を参照すれば書かれています。


上の写真は神戸市民花壇 参加花壇 栄誉賞に輝いた花壇です。
綺麗に整備されています。

参照ブログ:新小児科医のつぶやき:http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20160523







 











  
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須磨寺 亜細亜万神殿 on 2016-10-16

2016年10月18日 05時54分43秒 | 神戸情報
2016年10月16日、本年4月25日に完成落慶法要された須磨寺の
「亜細亜万神殿」にお詣りに行ってきました。

亜細亜万神殿について写真で紹介します。


上の写真は参道から見た亜細亜万神殿の遠景です。


上の写真は新しく書かれた須磨寺の境内図で亜細亜万神殿の位置が
記されています。


上の写真は「祈りの回廊 亜細亜万神殿」の説明板です。

亜細亜万神殿の中心になるのは、ネパールの首都カトマンズに所在する
スワヤンブナート寺院を模倣した建物で2015年4月25日に起きたネパール大震災
からの復興を願いネパール大震災復興祈念堂と名付けられました。
その周囲には回廊があり中山流石氏から寄贈されたインド、カンボジア他
アジア各地から収集された神仏の石像が並べられています。


上の写真は亜細亜万神殿の建立に協力された方々の名前が記された銘板です。







上の3枚の写真はネパール大震災復興祈念堂


上の写真はお詣りの仕方を解説した説明パネル


上の写真はネパール大震災復興祈念堂の周囲に設置されているマニ車






上の3枚の写真は祈りの回廊のアジアの神仏
ネパール大震災復興祈念堂の対面には「輪宝」が配置されています。

輪宝は古代インドの投擲用武器。仏教に取り入られてから仏の説法が心の
煩悩を破ることの譬えに用いられ、説法を転法輪とも称するように説法の
象徴とされるようになった。密教では大壇上に置き、潅頂時にも用いる。
外輪に八鋒を備えた八鋒輪と、八鋒を作らず八角外輪の外面に刃をつけた
八角輪宝がある。


上の写真は輪宝の説明パネル


上の写真は須磨寺の小池管長宛てに贈られたネパールのLama Rigzin氏
からの感謝状

15年前に須磨寺がネパールの学校建設に援助していただけたこと2015年
4月25日のネパール大震災復興に対する援助さらにネパール式の寺院建立
に対して感謝の意を表されたいます。

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山田岸松氏の銅像 in 2016-10-12

2016年10月16日 05時53分39秒 | 神戸情報
2016年10月12日、寳ノ海神社=宝ノ海神社に隣接する地に設置されて
いる山田岸松氏の銅像の写真を撮ってきましたので紹介します。

故山田岸松氏(明治42年(1909)~平成2年(1990))は神戸市西部漁業
協同組合の初代組合長で垂水漁港の整備、海苔の養殖を事業化など県の
水産業発展に尽力された方です。
現在の神戸市漁業協同組合の代表理事組合長の山田 隆義氏のお父様にあたる
方です。






上の3枚の写真は山田岸松氏の銅像と設置場所の遠景です。
昭和62年(1987)4月吉日に建立されました。


上の写真は山田岸松氏銅像建立発起人会で尽力された方々の名碑です。
貝原知事、宮崎市長の時代です。


上の写真は銅像の裏側の説明書きで山田岸松氏の経歴や業績が書かれています


上の写真は海の幸供養碑


上の写真は昭和34年(1959)9月神戸港以西の7漁協が合併して神戸西
漁業協同組合として発足してから10周年を記念して昭和44年(1969)
4月に建立された石碑。


上の写真は漁港修築の記念碑 揮毫は原口忠次郎12代神戸市長
神戸市漁協の中核となっている垂水漁港は昭和38年(1963)2月に修築工事
が着工11年の歳月と11億6千5百万円余で昭和49年(1974)4月、宮崎辰夫
13代神戸市長の時代に竣工しました。


「漁村をそだてる」と書かれた石碑


上の写真は漁協の発展の経緯が書かれた説明板。
昭和49年(1974)11月吉日に書かれたもの山田岸松の名が見える

字がかすれて判読が難しいが
「昭和34年(1959)9月神戸港以西の7漁協が合併して神戸西
             漁業協同組合として発足
   合併前に1億円余であったのが7組合が合併により17億円余になった

 昭和43年(1968) 垂水漁港が第1種漁港から第2種漁港に昇格

 昭和49年(1974) 垂水漁港が昭和38年着工以来11年余で竣工
           建設費:11億6千5百万円


上記の内容などが記載されています。




上の2枚の写真は敷地内の石碑


1990年に山田岸松氏が亡くなられた後、1992年3月に下記書籍が刊行
書名: 漁業一筋あすを求めて 副題: 山田岸松さんを偲ぶ
著者: 「山田岸松さん追悼集」刊行発起人会事務局編






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寳ノ海神社=宝ノ海神社と海神社の鳥居  on 2016-10-12

2016年10月15日 06時33分07秒 | 神戸情報
2016年10月12日、海神社秋祭りの海上渡御を観るために海神社の周辺に
居た。その時に海神社の大鳥居の東側にある寳ノ海神社=宝ノ海神社にお詣り
に行きましたので写真紹介します。

宝の海神社の基本情報
住所:神戸市垂水区平磯3丁目7
御祭神:金刀比羅大権現、恵美須大神、大黒天大神
建立時期:昭和53年(1978)5月吉日



上の写真は寳ノ海神社=宝ノ海神社の遠景です。


上の写真は鳥居の扁額です。御祭神の名前が記載されています。
中央に金刀比羅大権現、右に恵美須大神、左に大黒天大神と書かれています。


上の写真は寳ノ海神社=宝ノ海神社建立の記念碑


鳥居の左手には「漁業操業安全」の石碑が立っています。


鳥居の右手には「平和豊漁繁栄」と書かれた石碑が立っています。


上の写真は寳ノ海神社=宝ノ海神社の鳥居付近の近景。
鳥居は神戸市長田区北町1丁目の(株)岩根神社工芸によって製作されました


上の写真は御祭神が納められた本殿


上の写真は手水鉢


上の写真は赤鳥居の近景


上の写真は鳥居右手の玉垣


上の写真は鳥居左手の玉垣


上の写真は海神社の大鳥居を入れた寳ノ海神社=宝ノ海神社の遠景です。
海神社の大鳥居は明神式3柱の立派な鳥居です。




上の2枚の写真は海神社の大鳥居。扁額は南面が海神社、北面が綿津見神社と
書かれています。

神戸市では約250名の漁業者が漁船漁業や海苔養殖、観光漁業などの漁業を
営んでいます。平成23年度で約25億円の売り上げがあります。
イワシ、イカナゴ、須磨のり、ちりめんがメインアイテムです。

垂水、塩屋、舞子の3つの漁港と須磨浦、須磨東、長田、兵庫の4箇所の
漁船だまりがあり漁船が係留されています。

平磯には栽培漁業の拠点がありヒラメ、マダイ、オニオコゼ、クルマエビの
種苗生産と中間育成が行われています。

神戸市漁協の益々の発展を願っています。

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明日香村の飛鳥稲淵宮殿跡 on 2016-10-7

2016年10月13日 06時10分17秒 | 奈良情報
2016年10月7日、明日香村の飛鳥稲淵宮殿跡の写真を撮ってきましたので
紹介します。

まずWikipediaの飛鳥稲淵宮殿跡に関する解説を引用させていただきます。

本宮殿跡の宮名については、『日本書紀』孝徳天皇の653年(白雉4年)、
中大兄皇子(後の天智天皇)が難波宮から飛鳥宮に帰り、一時期過ごした
「飛鳥川辺行宮」(あすかかわべのかりみや)にあてる説があるが、
なお、今後の検討が必要とされている。
国営飛鳥歴史公園祝戸地区の駐車場建設予定地とされたことから発掘調査が実施
され、極めて計画性・規格性に富んだ整然とした建築遺構であることが判明、
この遺跡が7世紀後半に営まれた宮殿跡であるという推定のもとに、国の史跡
として1979年(昭和54年)3月20日に発掘部分のみが指定され、その周辺が
1981年(昭和56年)5月に追加指定された。
発掘調査は、1976年(昭和51年)と1977年(昭和52年)の両年に、
奈良国立文化財研究所によって行われ、遺跡は南北約170メートル、
東西約60メートルの広さであることが判明した。主な遺構は、東西棟2軒、
南北棟2軒の計4軒の掘立柱建物と建物の間に敷き詰められた石敷きである。
東西棟は発掘地の中央に位置し、東西5間以上、南北4間以上という大規模な
建物である。東に約4メートル離れて、南北に2軒が並ぶ南北棟を配している。
これら建物は、相互に柱筋を揃えるなどの規格性に優れ、建物を等間隔で
配置するなど、きわめて計画的に建てられていることが分かる。
これらの規格性・計画性を考慮に入れて建物の規模や配置を復元すると、
中央の建物は桁行9間(東西総長24.6m)、梁行4間(南北総長10.2m)の
四面廂付の建物になり、北にある東西棟は桁行14間(総長24.6メートル)、
梁行4間(8.8メートル)の南片廂つき建物になる。東の2軒の南北棟は、
梁行き4間(8.8メートル)桁行15間(26.4メートル)の西片廂付建物になる。
この復元により、西側にも東側の2軒と同様な南北棟があったと推測でき、
中央の四面廂付建物を正殿とし、その北の建物を後殿、東西の南北棟を脇殿と
すると、東西対称の整然とした建物配置が考えられる。
建物の年代は、出土土器などから7世紀中頃に造営され、同世紀末に火災に
より焼失したことが分かる。



発掘現場の現在駐車場となっている場所には上の写真の石碑が建てられています


上の写真は現地の説明板です。
石敷きの宮殿であったことが確認されています。


上の写真は宮殿のイメージ図(明日香村発行 飛鳥京絵図より)


上の写真は駐車場の所在地を示しました


上の写真はGoogleの地図による飛鳥稲淵宮殿跡です。
マラ石から祝戸荘に向かう途中の駐車場です。


上の写真は祝戸荘に向かう途中の坂から撮った飛鳥稲淵宮殿跡の遠景です。


万葉集の歌碑もありました(上の写真)
「明日香川 七瀬の淀に 住む鳥も  心あれこそ 波立てざらめ」
 (万葉集巻7-1366)
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明日香村祝戸地区にあるマラ石 on 2016-10-7

2016年10月12日 04時09分26秒 | 奈良情報
2016年10月7日、明日香村祝戸地区にあるマラ石の写真を撮って
きましたので紹介します。

マラとは「男性器」のこと。マラ石とは男根型の石のことです。
上の説明をしているサイトがありましたがMaraは「 サンスクリット語で
Sanskrit: māraと書かれ中国語では 魔を意味する言葉であることから
その役目は祝戸集落を守ってくれるシンボルであると考えられます。
勿論、日本には女性器と併せ陰陽石として子孫繁栄や五穀豊穣を願う
役目も担っていると思います。




上の2枚の写真がマラ石です。

Wikipediaよりマラ石の解説を引用させていただきます。

国営飛鳥歴史公園祝戸地区への入口付近にあり、男性の陰茎を思わせる石が
斜めに突き立っている。仏教考古学者の石田茂作によりマラ石と命名された。
宮域を示すための標石、橋脚として利用されたなどの説が出されているが
確かな用途は不明である。


対岸にある丘陵を「フグリ山」と呼び、フグリとは男性の陰嚢を意味し
マラ石と一対と考える説もあるそうです。

所在地の住所は奈良県高市郡明日香村祝戸192-2

上の写真はGoogleの地図に表示されたマラ石です。


上の写真は現地にあった地図に示されたマラ石の位置図です。


上の写真は現地の説明板です。

奈良に住んでみましたさんのサイトにマラ石を含めて
夫婦和合の奇祭「おんだ祭」『飛鳥坐神社』についても紹介されています。
リンクさせていただきます。
 http://small-life.com/archives/13/09/0520.php
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飛鳥川の飛び石(石橋) on 2016-10-7

2016年10月11日 09時08分36秒 | 奈良情報
2016年10月7日、万葉集にも詠まれた飛鳥川の「石橋」の写真を撮って
きましたので紹介します。






上の写真が万葉集にも詠まれた飛鳥川の「飛び石(石橋)」です。




上の写真は平成7年9月吉日 明日香村によって建立された歌碑です

「明日香川 明日も渡らむ 石橋(いははし)の 遠き心は 思ほえぬかも」  
  作者は不詳

意訳
明日香川の名のごとく明日も渡っていこう。石橋のように間遠な心は
考えられないことよ。


揮毫:大阪大学名誉教授 犬養孝


上の写真は石橋の所在地を示した地図です。
奥飛鳥と呼ばれる地区で棚田で有名な稲渕の集落にあります。


上の写真は稲渕の集落に植えてあったコスモス。


上の写真は飛び石のすぐ近くにあった栗の木




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明日香村 稲渕地区にある男綱 on 2016-10-7

2016年10月09日 06時34分48秒 | 奈良情報
2016年10月7日、奈良県高市郡明日香村稲渕地区にある男綱の写真を
撮ってきましたので紹介します。




上の2枚の写真が飛鳥川に架けられた男綱です。

綱掛神事は五穀豊穣、子孫繁栄を祈り、飛鳥川をつたい疫病が入りこまない
ようにするための神事である。

男綱は石舞台など明日香中心部からの悪疫を防ぐ役目を担っています。


道路沿いには上の写真のような目印があります。


上の写真は現地の説明板。

「綱掛神事は、稲渕(いなぶち)と栢森(かやのもり)両大字に伝わる神事で、
 毎年1月に行われる。カンジョ掛神事ともいう。
 子孫繁栄(しそんはんえい)と五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈るとともに
 悪疫(あくえき)などがこの道と川を通って侵入するものを押しとめ、
 住民を守護するため神事といわれている。
 稲渕大字の神事の特徴は、全体を神式で行うことである。飛鳥川の上に
 陽物(ようぶつ)をかたどった「男綱(おづな)」を掛け渡し、
 神所橋(かんじょばし)と呼ばれる橋に祭壇を設け、神職が御祓(おはら)い
 をする。一方、飛鳥川上流の栢森大字の神事は仏式で行うことが特徴で、
 「女綱(めづな)」を飛鳥川に掛け渡しをする。」


神事を司るのは飛鳥川上座宇須多伎比売命神社の神主さんが行われています。
当日現地に行けなかったのでGoogleのストリートビューより写真紹介します。


男綱の網掛けは成人の日にあたる連休の日曜日に女綱の網掛けは1月11日に
行われるようです。

ホタルの時期にはホタルが観察できるのか?下の写真のような説明板も
ありました。


次に訪問する機会があれば女綱の写真も撮ってきたいと思っています。


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明日香村の稲渕地区の棚田 on 2016-10-7

2016年10月08日 05時16分25秒 | 奈良情報
「日本の棚田百選」などにも選ばれている、奈良県明日香村の稲渕地区
この周辺の棚田の風景を写真紹介します。

撮影日:2016年10月7日












上の写真は稲渕地区の棚田

写真好きの方が大阪から写真を撮られていました。






上の3枚の写真は祝戸(いわいど)荘付近の道路から撮った風景







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