2016年10月6日、乙巳の変の舞台となった伝 飛鳥板蓋宮跡と無念の
最期を遂げた蘇我入鹿の首塚を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。
上の4枚の写真が乙巳の変の舞台となった伝 飛鳥板蓋宮跡
現在地表にあるのは飛鳥浄御原宮の復元であり、実際の遺構は地下約1mに
そのまま保存されています。
1番上の写真は井戸跡と言われています。
2007年に「飛鳥・藤原の宮都とその関連遺産群」として世界文化遺産
国内暫定リストに登録されています。
上の写真は現地の説明板です。
ここで飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)について簡単に説明します。
Wikipediayori引用(一部加筆)
642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、
同年9月19日(10月17日)、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに
建設するよう命じた。これにより完成したのが板蓋宮である。
643年(皇極天皇2年)4月、遷る。板蓋宮は、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)
に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。
この日、皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺される
という凶行がなされ、翌日(6/13)蘇我入鹿の父蘇我蝦夷が自邸に火をつけて
自害したことで蘇我氏宗家は滅亡した。ここから「大化の改新」と呼ばれる
政治改革が始まることになる。これにより皇極天皇は同月12日(14日)退位し、
事件の真の首謀者と目される軽皇子が即位することとなった(孝徳天皇)。
孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた
(難波長柄豊碕宮)。孝徳天皇と対立していた中大兄皇子(後の天智天皇)は
最初は難波宮に移ったが孝徳天皇を置いて飛鳥に戻ってしまう。孝徳天皇は
失意のうちに654年(白雉5年)10月、難波宮で崩御すると
翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。
この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。
上の写真は飛鳥板蓋宮とその周囲の様子を表したものです。
明日香村発行の「飛鳥京絵図」より(部分)
上の写真は飛鳥板蓋宮跡の北西側にあった飛鳥京苑池跡の展示パネルからの地図
飛鳥板蓋宮は飛鳥京跡内郭に相当
飛鳥京は現在までの発掘調査で宮の歴史は解明されており古い順に次の
ように整理できる。
Ⅰ期、舒明天皇の飛鳥岡本宮(629-636年)の遺構である。
Ⅱ期 その焼け跡に築かれたのが、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643-645年)
645年に難波宮に遷都後も板蓋宮はそのまま残っており、孝徳天皇が
654年に崩御すると、皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明天皇となり、
以前住んだ板蓋宮をそのまま宮とした。しかし、その宮も重祚した年の
冬に出火で焼けてしまい、板蓋宮の遺構が中間層として残った。
Ⅲ期 斉明天皇が翌656年に新たに営んだ後飛鳥岡本宮(656-660年)
Ⅳ期 後飛鳥岡本宮は天武・持統天皇にそのまま引き継がれ、拡張されて
飛鳥浄御原宮(672-694年)と呼ばれた。
現地には上の2枚の写真のようなクイズ形式の歴史を考えさせるパネルがあります
上の写真は多武峰縁起絵巻の蘇我入鹿暗殺の場面と首以外の胴体の遺骸が
運び出される場面です。
上の写真は入鹿を迎えた飛鳥板蓋宮の様子(出展:多武峰縁起絵巻)
上の3枚の写真は飛鳥寺の西側にある蘇我入鹿の首塚です。
上の写真は多武峰縁起絵巻の蘇我入鹿暗殺の場面の蘇我入鹿の首の拡大図です。
蘇我入鹿の首が首塚まで飛んできて、力尽きたと言われている。
上の写真は飛鳥寺西門跡の発掘現場の説明板です。
首塚のさらに西側には中大兄皇子と中臣鎌足が大きなケヤキの木の下で
蹴鞠をしたと伝わる槻の木の広場の発掘調査も実施されています。
(飛鳥寺西方遺跡)
中臣鎌足(後の藤原鎌足)が中大兄皇子(天智天皇)と知り合うきっかけは、
飛鳥寺の西の槻の木の広場での蹴鞠の催しだったことは、良く知られている。
皇子が鞠を力一杯蹴ったら、皮鞋(かわぐつ)が脱げて見学していた鎌足の
前に落ちた。鎌足はそれを拾って両手に捧げて進み、ひざまづいて恭しく
奉った。これに対して、皇子もひざまづいて恭しく受け取ったという。
こうして主従の契りを結ぶきっかけを掴んだ二人は、それ以後請安塾の
行き帰りに蘇我氏妥当の策を練ったという。一目をはばかるため、
多武峰に登って打ち合わせをしたというエピソードまで残っている。
上の写真は多武峰(とうのみね)で蘇我本宗家打倒を画策する二人
(出展:多武峰縁起絵巻)
多武峰縁起絵巻は奈良女子大学附属図書館の下記サイトで詳細を見れます
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y06/tounomine/
多武峰談山神社所蔵電子画像集
(多武峰縁起絵巻ほか)
最期を遂げた蘇我入鹿の首塚を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。
上の4枚の写真が乙巳の変の舞台となった伝 飛鳥板蓋宮跡
現在地表にあるのは飛鳥浄御原宮の復元であり、実際の遺構は地下約1mに
そのまま保存されています。
1番上の写真は井戸跡と言われています。
2007年に「飛鳥・藤原の宮都とその関連遺産群」として世界文化遺産
国内暫定リストに登録されています。
上の写真は現地の説明板です。
ここで飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)について簡単に説明します。
Wikipediayori引用(一部加筆)
642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、
同年9月19日(10月17日)、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに
建設するよう命じた。これにより完成したのが板蓋宮である。
643年(皇極天皇2年)4月、遷る。板蓋宮は、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)
に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。
この日、皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺される
という凶行がなされ、翌日(6/13)蘇我入鹿の父蘇我蝦夷が自邸に火をつけて
自害したことで蘇我氏宗家は滅亡した。ここから「大化の改新」と呼ばれる
政治改革が始まることになる。これにより皇極天皇は同月12日(14日)退位し、
事件の真の首謀者と目される軽皇子が即位することとなった(孝徳天皇)。
孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた
(難波長柄豊碕宮)。孝徳天皇と対立していた中大兄皇子(後の天智天皇)は
最初は難波宮に移ったが孝徳天皇を置いて飛鳥に戻ってしまう。孝徳天皇は
失意のうちに654年(白雉5年)10月、難波宮で崩御すると
翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。
この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。
上の写真は飛鳥板蓋宮とその周囲の様子を表したものです。
明日香村発行の「飛鳥京絵図」より(部分)
上の写真は飛鳥板蓋宮跡の北西側にあった飛鳥京苑池跡の展示パネルからの地図
飛鳥板蓋宮は飛鳥京跡内郭に相当
飛鳥京は現在までの発掘調査で宮の歴史は解明されており古い順に次の
ように整理できる。
Ⅰ期、舒明天皇の飛鳥岡本宮(629-636年)の遺構である。
Ⅱ期 その焼け跡に築かれたのが、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643-645年)
645年に難波宮に遷都後も板蓋宮はそのまま残っており、孝徳天皇が
654年に崩御すると、皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明天皇となり、
以前住んだ板蓋宮をそのまま宮とした。しかし、その宮も重祚した年の
冬に出火で焼けてしまい、板蓋宮の遺構が中間層として残った。
Ⅲ期 斉明天皇が翌656年に新たに営んだ後飛鳥岡本宮(656-660年)
Ⅳ期 後飛鳥岡本宮は天武・持統天皇にそのまま引き継がれ、拡張されて
飛鳥浄御原宮(672-694年)と呼ばれた。
現地には上の2枚の写真のようなクイズ形式の歴史を考えさせるパネルがあります
上の写真は多武峰縁起絵巻の蘇我入鹿暗殺の場面と首以外の胴体の遺骸が
運び出される場面です。
上の写真は入鹿を迎えた飛鳥板蓋宮の様子(出展:多武峰縁起絵巻)
上の3枚の写真は飛鳥寺の西側にある蘇我入鹿の首塚です。
上の写真は多武峰縁起絵巻の蘇我入鹿暗殺の場面の蘇我入鹿の首の拡大図です。
蘇我入鹿の首が首塚まで飛んできて、力尽きたと言われている。
上の写真は飛鳥寺西門跡の発掘現場の説明板です。
首塚のさらに西側には中大兄皇子と中臣鎌足が大きなケヤキの木の下で
蹴鞠をしたと伝わる槻の木の広場の発掘調査も実施されています。
(飛鳥寺西方遺跡)
中臣鎌足(後の藤原鎌足)が中大兄皇子(天智天皇)と知り合うきっかけは、
飛鳥寺の西の槻の木の広場での蹴鞠の催しだったことは、良く知られている。
皇子が鞠を力一杯蹴ったら、皮鞋(かわぐつ)が脱げて見学していた鎌足の
前に落ちた。鎌足はそれを拾って両手に捧げて進み、ひざまづいて恭しく
奉った。これに対して、皇子もひざまづいて恭しく受け取ったという。
こうして主従の契りを結ぶきっかけを掴んだ二人は、それ以後請安塾の
行き帰りに蘇我氏妥当の策を練ったという。一目をはばかるため、
多武峰に登って打ち合わせをしたというエピソードまで残っている。
上の写真は多武峰(とうのみね)で蘇我本宗家打倒を画策する二人
(出展:多武峰縁起絵巻)
多武峰縁起絵巻は奈良女子大学附属図書館の下記サイトで詳細を見れます
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y06/tounomine/
多武峰談山神社所蔵電子画像集
(多武峰縁起絵巻ほか)