チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

戦争当時、サマールに駐屯されていたOさんから台風被害についての電話

2013年11月17日 | サマール日記

 今回のフィリピンの深刻な台風被害への救援活動は、なかなか進んでいないようです。先日のブログに現地支援先の一覧などを掲載しましたが、どうぞ皆さんのご支援をよろしくお願いします。

 ところで、レイテ・タクロバンの壊滅した街を見ると、どうしても第2次大戦当時のことが頭に浮かびます。当時、日本軍は、あのタクロバンの街を焦土としましたが、今回、タクロバンの街は再び壊滅的な被害を受けました。諸外国に比べて日本からの援助は遅れていますが、日本こそ、今回のレイテ・サマールの台風被害に対して、最大の援助をしなければなりません。

 そんなことを考えていると、11月17日(日)、京都のOさんから突然、電話が入りました。Oさんは第2次大戦当時、フィリピン・サマールに駐屯し、8ケ月ほども密林を飢餓の行軍され、奇跡的に生還された方です。直接、お話するのは、何年ぶりでしょうか。

 Oさんは、今回のレイテ・サマールの台風被害のことを心配され、サマールの人たちの支援をしたいと私に電話をしてこられたのです。Oさんは、もう92歳になられたとのことですが、驚くほどお元気でした。

 Oさんに初めてお会いしたのは、1994年のことです。当時、私は初めてフィリピン・サマールを訪問し、多くのお年寄りたちから、戦争当時の凄惨な被害体験を聞かせてもらいました。それが新聞で大きく報道され、Oさんは、その記事を読んで私を訪ねて来られました。そして、戦争当時のサマールの様子を詳しく話していただいたのです。

 Oさんは、戦争当時、陸軍第16師団の一員としてサマールのカルバヨグに駐屯されていました。1945年1月、レイテに上陸したアメリカ軍に追われ、やむなく密林に逃げ込み、それから8ケ月間も、原生林の中を「飢餓の行軍」を続けられたのです。途中、飢餓とアメーバ赤痢などの病気、そしてゲリラの攻撃などで多くの兵士が死んでいきました。当初、1000名ほどの兵士が山に逃げ込んだのですが、9月下旬、サマール東北部で米軍に投降したときはわずか300名ほどになってしまっていたそうです。米軍への投降後、Oさんたちは、レイテ・タクロバンにあった捕虜収容所に収容されました。サマール、レイテは、Oさんにとって、決して忘れることのできない土地なのです。

 私は、Oさんから聞かせていただいた話を、拙著『フィリピン・幸せの島 サマール』(明石書店)の中で紹介しました。そこでは、戦争当時、日本軍によるサマールやレイテでの加害のことなども書いたのですが、Oさんは、その後も、私のサマールでのNGO活動への支援を続けてくださいました。

 そんなOさんが、サマールやレイテの人々の台風被害を心配して電話をしてこられたのです。92歳で相変わらずお元気なこと、そして、今も、サマールの人々に優しい思いを持ち続けられていることなどが分かり、嬉しい電話でした。

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