(安田の米軍実弾射撃演習阻止闘争を報じる当時の沖縄タイムス(1971.1.1、1.3)。500名の村民らが演習場に突入、米兵との乱闘の末、演習を中止に追い込んだ。)
東村・高江では、ヘリパッド基地建設反対運動が続いているが、戦後、やんばる各地では、米軍の演習阻止闘争や基地建設反対運動が熾烈に闘われ、住民らの身体をはった阻止行動により勝利してきた歴史がある。特に、高江の北に隣接する国頭村安波(あは)や安田(あだ)の闘いの歴史を学ぶことは、高江の運動の勝利に向けて不可欠だろう。まず、安田の米軍実弾射撃演習阻止闘争を振り返ってみる。
7月14日、高江に駆けつけた際、防衛局の動きが無さそうなので、安波から安田の米軍実弾射撃演習阻止闘争記念碑を見にいった。高江からはわずか15分ほどだ。
やんばるの北部・国頭村に、標高は低いが富士山のような秀麗な山がある。周辺の人たちが「伊部富士」と呼ぶ伊部岳(354m)だ。周辺は鬱蒼としたイタジイの森に囲まれている。
1970年2月、米軍はいっさい事前通告なく、突然、ヘリコプターでこの山の頂上に資材を降ろし、さらに周辺を爆破して平坦地を作った。その後、周辺でも山肌が削られていった。米軍は、当初、その目的を明らかにしなかったが、12月22日、第3海兵師団は琉球政府に対して、この一帯650ヘクタールを実弾射撃場とし、31日から演習を行うと通告してきた。
国頭村議会は即時に抗議決議を採択し、演習阻止を宣言。麓の安田、安波、楚洲の3区では、小中学生も交えた住民ぐるみの阻止行動の体制をつくりあげた。
31日の演習予定日。「国頭村の各には、夜明け前の午前5時から闘いのサイレンや鐘が鳴り響いた。楚洲では、午前6時から小中学校の生徒たちが公民館に集まった。S君(中2)の司会のもと、27人の中学生らが、「全体で阻止するということだから僕たちも参加させてほしい。」と訴えて闘いに参加した。」、「ともかく歩ける状態の者は全員参加しようと中学生、主婦も全員カマ、ノコギリを持参。小雨ふる山の中で枯れ木を燃やし暖を取りながら演習阻止に立ちあがった。」(沖縄タイムス 1971.1.3)
早朝から、冷雨の中、村長を先頭に村民、支援者ら600人が発射地点近くに結集した。そして、決死隊が演習場に突入する。「基地内では警備兵を増強、阻止団と対決。木の枝を持った阻止団とシャベルを持った米兵があちこちで殴り合い、木の枝、土を投げて必死に抵抗する群衆に米兵は後ずさりをするだけ。勢いに乗った阻止団は午前11時5分頃完全に鉄条網を突破した。群衆は約500人。---土嚢に押し掛けた群衆が砲座目がけて進もうとし阻止する米兵と激しく殴り合う。11時半ごろまでには4人が米軍に逮捕され、早大生H君が日の丸を掲げるため木によじ登ったところオノを持った米兵が5人がかりで木を伐り倒したため隣木に胸を挟まれた後、約8m下に転落、胸部打撲の重傷を負い米軍陸軍病院に運ばれたのをはじめ10人が怪我をした。---一方、安田を中心とする70人の精鋭部隊は、午前7時半には伊部岳頂上の監視塔を占拠、腰掛を燃やしのろしをあげた。その後5ケ所に別れ、白旗やのろしをあげてゲリラ戦術に出たが、わずかにヘリコプターが旋回するだけでトラブルはなかった。」(沖縄タイムス 1971.1.3)
こうした激しい村民の抵抗に米軍もついに演習中止に追い込まれ、午後にはヘリコプターで、機材を現地から運び出さざるを得なかった。上の沖縄タイムスの右上の写真は、日の丸を振りかざして、「ついにやったぞ! 米軍に勝った」と喜ぶ人たち。
こうして、ついに米軍は伊部岳での実弾演習の中止を発表する。沖縄の戦後の基地闘争の中でも、この安田の闘いは、輝かしい勝利の記録として今も語られている。
国頭村は、2009年になって、「伊部岳闘争」を称えようと、安田地区に「闘争の碑」を建てた。除幕式で宮城村長は、「先輩たちの身体を張った阻止行動をしっかり継承していきたい。」と挨拶したという。
(2011年7月14日撮影)