フィリピンの戦時性暴力被害者 ロラ・ピラールさんが9月26日に亡くなったという知らせが入った。享年86歳。フィリピンの戦時性暴力被害者の中でも、特に、親しくさせていただいた方だけに、残念でならない。
(2007年11月、ピラールさんらを京都にお招きした。歓迎パーティで歌うピラールさん。)
ロラ・ピラールさんと初めてお会いしたのは、2005年8月だった。その頃私は、サマール島でバイオガスを利用した公衆トイレ普及事業に従事していたが、マニラの日本大使館前でフィリピンの戦時性暴力被害者たちが抗議集会を開くというので、参加させてもらったのだ。集会の後、ロラズハウスにもお伺いしてピラールさんからもお話を伺った。
(2005年8月 マニラの日本大使館前で。右がロラ・ピラールさん)
彼女は第2次大戦当時、15歳のときに日本兵から暴行を受けた。村にやってきた日本軍に捕まり、頬に火のついたタバコを何度も押し付けられて火傷し、鼻をナイフで切られて血だらけになったという。そんな状態のままレイプされる。
その後、他の3人の女性らと腰ヒモでつながれたまま、日本軍に連行された。米軍によって解放されるまで、夜は、日本兵に暴行され、昼は、洗濯などの仕事を強いられる毎日が続いたという。
彼女の頬には今も日本兵から受けた火傷の後があり、鼻の傷もそのまま残っている。毎日、鏡を見るたびに、当時の体験が蘇えってきて身震いするという。
その後、私は、サマールへの行き帰りにマニラのロラズハウスを訪ねるようになった。ロラ・ピラールさんは、よくロラズハウスに来ておられた。サマールの名物であるティナパ(魚の燻製)をお土産に持っていくと、特に喜こばれた。2005年には、京都にお招きして証言集会を開催。2006年には、京都の仲間たちと一緒に、マニラのロラズハウスを訪ねた後、マニラ東部・アンティポロのピラールさんのお宅にも伺ったことがある。そして、2007年にも、再度、証言集会のために京都にお招きした。
(今は、大勢の家族に囲まれ幸せそうなロラ・ピラールさん。アンティポロの自宅で)
(前列中央がロラ・ピラールさん)
京都にお招きした際は、一軒家を借りて、1週間ほどゆっくりと滞在してもらった。歌が大好きなロラ・ピラールさんたちと、皆で歌合戦になったこともある。
(岩倉の円通寺で)
(花が大好きだったロラ・ピラールさん(左)。右はナルシサさん。(植物園で))
日本政府による謝罪と補償も受けることができないまま、また、戦時性暴力被害者のお一人が亡くなってしまった。もう、私たちに残された時間はほとんどない。