10月19日は日曜日だったので辺野古の海上行動もお休み。私も午前中は、孫の世話の傍ら溜まった事務仕事に追われていた。そんな時に、辺野古の安次富さんから電話が入った。まさか、大型スパッド台船が来たのかと驚いて電話をとったが、安次富さんの話も途切れとぎれで話の内容がよく分からない。聞き取れたのは、「水難事故、---染谷さんが亡くなった」ということだけだった。ともかく、「すぐ行きます」とだけ言って車に飛び乗った。
午後1時半頃、辺野古の座り込みテントについた。皆、沈痛な面持ちで黙り込んでいる。船長たちも次々と集まってきた。今朝、染谷さんと一緒にいたAさんが、声を詰まらせながら経緯を説明された。
(右側が染谷さんの「なずき丸」(事故当日の夕刻))
日曜日は普通、海上行動はお休みだが、19日は50名ほどの支援者が辺野古に来るというので、「平和丸」と「なずき丸」が辺野古の海を案内することとなっていた。「平和丸」が先に汀間漁港を出港し、「なずき丸」の船長・染谷さんが、Aさんと出港準備をしていた時に事故が発生した。(事故の詳細については、まだ不明な点も多い。もう少し関係者への聞き取りを重ね、事故の全容をまとめなければならないと思っている。二度とこのような悲劇を繰り返さないためにも不可欠な作業だ。)
事故の発生は午前8時半過ぎ。そして行方不明になっていた染谷さんが瀬嵩の浜沖で発見されたのは午前11時頃だった。すぐに救急車も来たが、一刻を争うということでドクターヘリにお願いして病院に収容されたが、正午前には息を引き取られたという。
Aさんの話を聞きながら、思わず涙があふれた。前日、私は「平和丸」に乗り、「なずき丸」の染谷さんと声を掛け合いながら海に出ていたばかりだった。それ以前も、2人で一緒に船に乗ったことも多い。そんな時はいつも議論が盛り上がった。長く国会議員の政策秘書をされていただけあって、日米地位協定の問題等にも詳しく、船に乗りながらいろいろと教えてもらったことを思い出す。何故、こんな事態になってしまったのかと無念でならない。
染谷さんは、自分で船を持っているほどのベテランだ。それが、こんな事故であっけなく命を落とされてしまった。つくづく海は怖いと改めて思い知らされる。
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20日(月)、今日は喪に服する意味もあって海上行動は中止。早朝7時半、いつものカヌー隊と船長たちとのミーティングで黙祷を捧げた後、事故の経過を話し合って問題点を反省するために午前中は皆で会議を持った。一人ひとりが今回の事故についての思いと、反省点を出し合った。いくつかの問題が話し合われ、海上での安全確保のために、すぐに取り組むべきいくつかの点も確認された。
染谷さんの死は決して個人的な事故ではなく、あくまでも辺野古新基地建設反対運動の中で発生した事故だ。染谷さんを追悼し、そして埋立を絶対に許さないという彼の思いを、海に出ている皆で確認するためにも、船長たちは明日から喪章をつけて海に出る。
20日、カヌー隊も船団も、喪に服して海上行動を中止している間に、防衛局はコソコソとシュワブ浜のフロートの再設置作業を進めていた。