夕刊の記事だが、おっ!スクープかと思った。
秀吉の栄華描いた屏風見つかる 聚楽第行幸を忠実に
でも、8月末には上越市役所のHPに既に掲載されていた。
今になって夕刊の社会面にだいたいてきに載せる意味って?
いずれにせよ上越の近郷近在から一目歴史的発見の屏風を
見ようと行列をなすかな?
五智国分寺から谷浜方面に行く途中に屏風谷という場所がある。
今は、単なるカーブに過ぎないが昔は道も狭く眼下に見える
崖下と波頭に心を細くしたものだ。
--------以下朝日新聞からの引用---------------------
聚楽第を出る秀吉の行列(左の屏風)
御所から聚楽第に向かう後陽成天皇の行列(右の屏風)=新潟県上越市立総合博物館提供
2009年9月11日19時42分
豊臣秀吉が贅(ぜい)を尽くして京都に建てた「聚楽第(じゅらくだい)」に、後陽成(ごようぜい)天皇が行幸する光景と、御所へ出迎える秀吉の行列を描いた2枚1組の「御所参内・聚楽第行幸図屏風(びょうぶ)」が、新潟県上越市で発見され、市が11日、公開した。秀吉の私邸で政務の場でもあった聚楽第を描いた屏風は、これまで3例知られているが、秀吉の御所参内と、行幸の光景がそろっているのは初めてという。専門家は、完成から8年で破壊され、謎が多い聚楽第に関する「第一級の資料」と注目している。
屏風は、それぞれ幅3.6メートル、高さ1.5メートル。左は聚楽第を出た牛車(ぎっしゃ)を中心とした行列が右側の御所に向かう様子。牛車には秀吉の桐(きり)の紋がある。一方、右は御所を出て聚楽第に向かう天皇を乗せた輿(こし)と行列だ。
保存状態も極めていい。行列の人々の顔まで見てとれ、通りの店や見物人、トンボを捕まえて遊ぶ子どもなど当時の京のまちの様子が生き生きと描かれている。
後陽成天皇の聚楽第行幸は天正16(1588)年4月14日。この屏風を調査し、上越市で会見した狩野博幸・同志社大教授は「史実に沿って描かれており、秀吉を語る際に今後は欠かせない。歴史の教科書に載る絵画だ」と高く評価する。
制作は、画風などから秀吉死去(1598年)後の慶長年間とみられ、まだ、行幸からさほどたっていないことから、作者(絵師)は行幸を見た可能性もあるという。
上越市には、秀吉を支えた五大老の一人、上杉景勝の居城・春日山城があったが、上杉家は秀吉が亡くなる直前、会津に移っている。見つかった屏風は、民間で取引が繰り返されたとみられ、同市内の所有者が昨年11月、市に調査を依頼し、歴史的な価値が確認された。
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