気ままに自転車ツーリング♪

70代になり60代からの散歩が中心となりました。50代は健康維持のため何かスポーツをと、消去法でサイクリングでした。

社会に対する鬱憤

2016-06-09 22:07:19 | 心象風景・身辺雑記
普通に仕事。でも長く感じた。仕事内容に余裕があったんだろうな。
すべきことが山積していれば時間はいくらああても足りないと感じるはず。
たまにはそういうことでもいいか。単調よりは緩急があったほうがいい。

さっきは酔いに任せてネットニュースで目に留まったものにかみついた。
ひとり床屋談義なものか。

きのう見た「ぼっちゃん」のように爆発してはいかん。

何事も表現するのは自由の範疇だが、それに感化されるのは個人の資質の問題だ。
世の中その「資質」が問われる。
他人がやっているから自分だって、は容認されない。
その辺があいまいになり無自覚無思慮になると問題だ。
表現された映像や文字で自己満足しているうちは趣味娯楽に留まっていられる。
中にはそれを現実にやってしまうのがいるから表現の自由が云々される。

世の中反社会的な表現を許さない、そうすることで社会の安寧秩序が保たれる。
そのことでサスペンスやバイオレンスやそういう日常破壊的な表現が許されないなら結果として安寧秩序は確保できるだろうか。
そんなわけはない。
人の情念なんて励起されることはあっても普遍的に人の中に潜在している。
きっかけなんていくらでもある。

テレビで放映される番組をある事件をきっかけに自粛する。
変なところでテレビの影響力を自認する。
これもおかしな話だ。
東京12chのように何があろうと予定の番組放送を流し続けるのもひとつの姿勢だ。

垂線。
右に傾いているか、左に傾いているかを判断する基準。
簡単なこと。
重力と言う普遍的な作用を信じて重り(錘)を垂らして傾きの有無を判別する。
人の言説の成否を判断するには自らの垂線で測るしかない。
自分の垂線を信じるしかない。
信じられるかな?

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