投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月28日(月)00時58分29秒
小松茂美氏は1925年生まれとのことで、けっこうなお年ですね。
2006年に出した『天皇の書』も、相変わらずの元気一杯・気力充実ぶりで、独特の良い味を出してますね。
細かいことを言うと、
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翌文永五年の八月、兄の後深草上皇に四歳の皇子(後の伏見天皇)がいるにもかかわらず、わずか二歳の幼児にすぎないこの新皇子(世仁親王=後宇多)を皇太子とした。わが家系から皇位のチャンスを失った後深草上皇が、失意のあまり深い怨みを抱いたとしても不思議ではない。絶望の果てに、落飾入道を決意する。驚いた関東申次(鎌倉幕府取次役)の権中納言西園寺実兼(20歳)が、幕府の執権時宗(18歳)に愁訴した。結果、後宇多天皇(世仁親王)の皇太子には後深草上皇の皇子(煕仁親王=伏見天皇)が立つことになった。以後、家系紛糾の激化を避けるため、交互の皇位継承を定める両統(大覚寺統と持明院統)迭立(かわるがわる即位する)が成立したことは、周知のとおり。(157p)
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となっていますが、煕仁親王の立太子は文永五年(1268)ではなく、建治元年(1275)で、7年間ほどずれてますね。
また、
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(伏見天皇は)以後、十年間の東宮時代を経る。やがて、「アシザマナル事サエイデキテ践祚」(『神皇正統記』)の運びとなった。が、これは幕府の前執権北条時宗の計らいであった。退位した後宇多天皇(大覚寺統)は二十一歳、代わって即位した伏見天皇(持明院統)は二十三歳であった。(170p)
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とのことですが、時宗は伏見天皇が即位した弘安十年(1287)の3年前に死んでいますので、時宗の計らいということはなかったでしょうね。
この「アシザマナル事サエイデキテ践祚」の事情は今まで謎だったのですが、細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力』の第五章「飯沼大夫判官資宗-平頼綱政権の再検討-」で、非常に説得的な説明がなされていますので、小松茂美氏にも教えてあげたいところですが、ま、昔から細かいことは気にしない豪快な方みたいですから、大きなお世話でしょうね。
私がブチブチ書いたこと以外にも歴史的事実に間違いは多いでしょうが、少なくとも書の分析にはあまり関係しないはずなので、決して『天皇の書』の価値と魅力を損なうものではないと思います。たぶん。
>筆綾丸さん
>後宇多法皇の梵名
「梵名」というのも、変な響きですね。
しかし、後宇多の書の見事さには、正直、圧倒されます。
>NAO4@吟遊詩人さん
>勘返状
まさにメールのやりとりと同じですね。
小松茂美氏は1925年生まれとのことで、けっこうなお年ですね。
2006年に出した『天皇の書』も、相変わらずの元気一杯・気力充実ぶりで、独特の良い味を出してますね。
細かいことを言うと、
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翌文永五年の八月、兄の後深草上皇に四歳の皇子(後の伏見天皇)がいるにもかかわらず、わずか二歳の幼児にすぎないこの新皇子(世仁親王=後宇多)を皇太子とした。わが家系から皇位のチャンスを失った後深草上皇が、失意のあまり深い怨みを抱いたとしても不思議ではない。絶望の果てに、落飾入道を決意する。驚いた関東申次(鎌倉幕府取次役)の権中納言西園寺実兼(20歳)が、幕府の執権時宗(18歳)に愁訴した。結果、後宇多天皇(世仁親王)の皇太子には後深草上皇の皇子(煕仁親王=伏見天皇)が立つことになった。以後、家系紛糾の激化を避けるため、交互の皇位継承を定める両統(大覚寺統と持明院統)迭立(かわるがわる即位する)が成立したことは、周知のとおり。(157p)
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となっていますが、煕仁親王の立太子は文永五年(1268)ではなく、建治元年(1275)で、7年間ほどずれてますね。
また、
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(伏見天皇は)以後、十年間の東宮時代を経る。やがて、「アシザマナル事サエイデキテ践祚」(『神皇正統記』)の運びとなった。が、これは幕府の前執権北条時宗の計らいであった。退位した後宇多天皇(大覚寺統)は二十一歳、代わって即位した伏見天皇(持明院統)は二十三歳であった。(170p)
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とのことですが、時宗は伏見天皇が即位した弘安十年(1287)の3年前に死んでいますので、時宗の計らいということはなかったでしょうね。
この「アシザマナル事サエイデキテ践祚」の事情は今まで謎だったのですが、細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力』の第五章「飯沼大夫判官資宗-平頼綱政権の再検討-」で、非常に説得的な説明がなされていますので、小松茂美氏にも教えてあげたいところですが、ま、昔から細かいことは気にしない豪快な方みたいですから、大きなお世話でしょうね。
私がブチブチ書いたこと以外にも歴史的事実に間違いは多いでしょうが、少なくとも書の分析にはあまり関係しないはずなので、決して『天皇の書』の価値と魅力を損なうものではないと思います。たぶん。
>筆綾丸さん
>後宇多法皇の梵名
「梵名」というのも、変な響きですね。
しかし、後宇多の書の見事さには、正直、圧倒されます。
>NAO4@吟遊詩人さん
>勘返状
まさにメールのやりとりと同じですね。