投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月13日(日)13時26分3秒
それでは『とはずがたり』と『増鏡』の作者を同一人物、即ち後深草院二条と考える私の立場から「弘安の御願」の場面を検討したいと思います。
後深草院二条(1258-?)が亀山院(1249-1305)と直接の面識があることは『とはずがたり』に詳しく、『増鏡』の「持明院殿蹴鞠」の場面でも「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」として登場する後深草院二条と亀山院の交流が『増鏡』より少し上品に描かれています。
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御かはらけなど良き程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、また上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀の御杯、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9da95b5daaaca1845c2e80637a4ee1d1
また、後深草院二条は大宮院(1225-92)とも直接の面識があり、『とはずがたり』の前斎宮エピソードでは、
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「まことにいかが御覽じはなち候ふべき。宮仕ひはまた、しなれたる人こそしばしも候はぬは、たよりなきことにてこそ」など申させ給ひて、「何ごとも心おかず、われにこそ」など情あるさまに承るも、いつまで草のとのみおぼゆ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1676461dba8de5ff30afeac5e7b9326a
という具合に、三十三歳上の大宮院が暖かく声をかけてくれた言葉に、十七歳の後深草院二条は「いつまで草の」などとシニカルな感想を述べたりしています。
更に中御門経任(1233-97)は、
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さるほどに、四月の祭の御桟敷の事、兵部卿用意して、両院御幸なすなどひしめくよしも、耳のよそに伝へ聞きしほどに、同じ四月の頃にや、内・春宮の御元服に、大納言の年のたけたるがいるべきに、前官わろしとて、あまりの奉公の忠のよしにや、善勝寺が大納言を、一日借りわたして参るべきよし申す。神妙なりとて、参りて振舞ひまゐりて、返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、ひきちがへ経任になされぬ。さるほどに善勝寺の大納言、故なくはがれぬること、さながら父の大納言がしごとやと思ひて、深く恨む。当腹隆良の中将に、宰相を申すころなれば、この大納言を参らせ上げて、われを超越せさせんとすると思ひて、同宿も詮なしとて、北の方が父九条中納言家に、籠居しぬるよしを聞く。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25a8703d016d35481d7f649f76bf941c
という具合に、耄碌した四条隆親(1203-79)を使嗾して四条隆顕(1243-?)の大納言の職を奪い、ちゃっかりその後釜を占めた悪辣な陰謀家として『とはずがたり』に登場します。
従って、後深草院二条が『増鏡』の作者であれば、『増鏡』作者は弘安の役当時の公家社会の動向を自らの経験として知っているのみならず、「弘安の御願」場面の主要登場人物も個人的に熟知していることになります。
そうであれば、この場面において、『増鏡』作者に記憶の混乱だとか、まして「経任」をうっかり「為氏」と書き間違えたなどというケアレスミスは一切なく、『増鏡』作者は、その曖昧な記述に読者が混乱するであろうことを承知の上で、完全に意図的にこの場面を構成していることになります。
そして、『増鏡』作者は決して自己の意図を隠しているのではなく、むしろ読者に非常に親切なヒントを与えて、私がこの場面で本当に言いたいことを想像してごらんなさいよ、と謎かけをして楽しんでいるのではないかと思います。
そのヒントがこの場面の最後に出てくる、
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かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。
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という一文ですね。
「弘安の御願」論争の参加者は全員がこの一文を無視していますが、確かに「かの異国の御門」、即ち元の皇帝フビライ(1215-94)が「日本の帝王」に生まれ変わって日本を滅ぼす身となりたいと願って自ら食事を断ち、死んでしまいました、などという話はあまりに荒唐無稽、あまりに莫迦莫迦しく、真面目に受け取ることはできません。
「まことにやありけん」(本当なのでしょうか)と聞かれたら、「ホントのはずがないでしょう」としか答えようがありません。
では何故、この奇妙なエピソードが「まことにやありけん」という老尼の感想とともにここに置かれているのか。
そもそも『増鏡』の「序」に登場する語り手の老尼が現われる場面は、「巻十一 さしぐし」で「久我大納言雅忠の女」が「三条」という名前で登場する場面を始めとして、非常に奇妙な記述が多く、私はこれを『増鏡』作者が、表面的な記述の背後にある何かを読者に伝えたいと考えていることのサインだと思っています。
『増鏡』序
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3fa1e30b4a776483854c53ea7e6f9aca
『増鏡』序─補遺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9323efa6ef04bb9fc49ec314813ddc23
「弘安の御願」の場面でも、『増鏡』作者は形式的には「かの異国の御門」のエピソードのみを対象としている「まことにやありけん」を、別の話題にも掛けているように思います。
その第一は公卿勅使となったのは「経任大納言」であるのに、「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」となっている点です。
果たしてこれは「まことにやありけん」。