投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月14日(月)13時30分15秒
公卿勅使が「経任大納言」なのに「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」だ、というのは『増鏡』を通読した人なら誰でも不審に思う奇妙な記述ですが、この記述が何かを示唆しているのではないかと疑って、改めてこの時の公卿勅使について諸記録を調べてみると、公卿勅使に選ばれたのは間違いなく中御門経任であって、二条為氏ではありません。
ただ、公卿勅使の中御門経任が伊勢に向かって出発したのは弘安四年(1281)閏七月二日です。
ところが、「七月一日(閏脱カ)おびたゞしき大風吹きて、異国の船六万艘、兵のりて筑紫へよりたる、みな吹き破られぬれば、あるは水にしづみ、おのづから残れるもなくなく本国へ帰りにけり」ということで、中御門経任が伊勢に出発する前日に、既に客観的には決着が付いてしまっていました。
もちろん情報伝達のタイムラグがあって、大風により敵軍が相当な打撃を受けたという鎮西からの知らせは閏七月九日に最初に京都に到達し、ついで十一日に続報があって大勝確実となり、諸人が大喜びしたのだそうです(『弘安四年日記抄』)。
他方、中御門経任は初報と続報の間、十日という微妙な時点で京都に戻って来ます(『勘仲記』)。
とすると、戦勝に興奮冷めやらぬ期間はともかくとして、少し時間が経過して諸人が落ち着きを取り戻した後になると、中御門経任が公卿勅使として果たした役割について若干の疑問を抱く人も出てきたはずです。
なにより中御門経任自身が、古くからの公卿勅使の慣例に従って天皇に拝謁して宣命を拝受し、勅語を賜り、諸人の期待を背負って勇躍伊勢に向い、神前で宣命を奏申する大役を恙なく果たした後、京都に戻ってみたら、既に自分が出発する前日に勝負が決まっていたというニュースを知って、ハラホロヒレハレという脱力感を味わったかもしれません。
まあ、中御門経任には気の毒ですが、結果的に些かコミカルな展開になったことは否めません。
そうだとすると、前回投稿で書いたような事情でもともと中御門経任に好意を持っていなかった『増鏡』作者は、「勅としていのるしるしの神風によせくる浪ぞかつくだけつる」という歌の作者を、公卿勅使でも何でもなかった二条為氏に代えることによって、経任ってホントに役立たずだったよね、経任が行く前に「神風」は吹いてしまっていたのだからね、というシニカルな評価を下したのではないかと私は考えます。
また、そもそもこの歌は『増鏡』以外にどこにも記録されていないので、私はこの歌の作者は中御門経任でも二条為氏でもなく、『増鏡』作者が勝手に作った歌だろうと考えます。
なお、中御門経任が公卿勅使として出発する前に既に「神風」が吹いてしまっていることは「弘安の御願」論争に参加した全ての人が分かっていたはずですが、誰も触れていません。
唯一、「愛国百人一首」の関係で「弘安の御願」論争の周辺にいた川田順のみが、
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○勘仲記によれば中御門經任等公卿勅使は弘安四年閏七月二日京都を出發し、同十一日に帰京せられたのであつた。すなはち勅使發向の前日すでに豪古勢は神風によつて覆滅してゐたのであるが、當時の通信方法迅速ならざりし為め朝廷には二日か三日か、しばらくの間は大捷利を御承知なかつたのである、公卿勅使も伊勢への旅行の往還いづれかで初めて聞知されたものなることは、明らかだ。依而、為氏の一首も「のぼる道より」帰洛の途中よりとしてある。
http://web.archive.org/web/20151001010914/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kawata-jun-aikoku-hyakunin-isshu.htm
と書いていますが、まあ、誰でも気づくことであって、論争参加者は議論の格調が下がるのを避けるために敢えて触れなかったのだろうと思います。
細かいことを言うと、川田順の「當時の通信方法迅速ならざりし為め朝廷には二日か三日か、しばらくの間は大捷利を御承知なかつた」という記述のうち、「二日か三日か」は性急に過ぎて、閏七月一日の大風の翌二日に使者が鎮西を出たとしても、京都への到着は九日ですから一週間かかっていますね。
また、更に細かい話ですが、公卿勅使の中御門経任が帰京したのは十一日ではなく十日です。
『勘仲記』の閏七月十一日条に「晴、公卿勅使昨夕帰路、今日参内、殿下御参内、仙洞評定」とあり、経任は十日に帰って十一日に参内しています。
さて、以上の私見は旧サイトでも概ね同内容で書いていたのですが、論争の中心である「弘安の御願」の主体が誰か、後宇多天皇なのか亀山上皇なのかについては特に検討していませんでした。
この点は今回改めて考えたことがありますので、次の投稿で書きたいと思います。
私の考え方(2002年暫定版)「第二章 『増鏡』の作者」
http://web.archive.org/web/20150831071838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/2002-zantei02.htm
公卿勅使が「経任大納言」なのに「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」だ、というのは『増鏡』を通読した人なら誰でも不審に思う奇妙な記述ですが、この記述が何かを示唆しているのではないかと疑って、改めてこの時の公卿勅使について諸記録を調べてみると、公卿勅使に選ばれたのは間違いなく中御門経任であって、二条為氏ではありません。
ただ、公卿勅使の中御門経任が伊勢に向かって出発したのは弘安四年(1281)閏七月二日です。
ところが、「七月一日(閏脱カ)おびたゞしき大風吹きて、異国の船六万艘、兵のりて筑紫へよりたる、みな吹き破られぬれば、あるは水にしづみ、おのづから残れるもなくなく本国へ帰りにけり」ということで、中御門経任が伊勢に出発する前日に、既に客観的には決着が付いてしまっていました。
もちろん情報伝達のタイムラグがあって、大風により敵軍が相当な打撃を受けたという鎮西からの知らせは閏七月九日に最初に京都に到達し、ついで十一日に続報があって大勝確実となり、諸人が大喜びしたのだそうです(『弘安四年日記抄』)。
他方、中御門経任は初報と続報の間、十日という微妙な時点で京都に戻って来ます(『勘仲記』)。
とすると、戦勝に興奮冷めやらぬ期間はともかくとして、少し時間が経過して諸人が落ち着きを取り戻した後になると、中御門経任が公卿勅使として果たした役割について若干の疑問を抱く人も出てきたはずです。
なにより中御門経任自身が、古くからの公卿勅使の慣例に従って天皇に拝謁して宣命を拝受し、勅語を賜り、諸人の期待を背負って勇躍伊勢に向い、神前で宣命を奏申する大役を恙なく果たした後、京都に戻ってみたら、既に自分が出発する前日に勝負が決まっていたというニュースを知って、ハラホロヒレハレという脱力感を味わったかもしれません。
まあ、中御門経任には気の毒ですが、結果的に些かコミカルな展開になったことは否めません。
そうだとすると、前回投稿で書いたような事情でもともと中御門経任に好意を持っていなかった『増鏡』作者は、「勅としていのるしるしの神風によせくる浪ぞかつくだけつる」という歌の作者を、公卿勅使でも何でもなかった二条為氏に代えることによって、経任ってホントに役立たずだったよね、経任が行く前に「神風」は吹いてしまっていたのだからね、というシニカルな評価を下したのではないかと私は考えます。
また、そもそもこの歌は『増鏡』以外にどこにも記録されていないので、私はこの歌の作者は中御門経任でも二条為氏でもなく、『増鏡』作者が勝手に作った歌だろうと考えます。
なお、中御門経任が公卿勅使として出発する前に既に「神風」が吹いてしまっていることは「弘安の御願」論争に参加した全ての人が分かっていたはずですが、誰も触れていません。
唯一、「愛国百人一首」の関係で「弘安の御願」論争の周辺にいた川田順のみが、
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○勘仲記によれば中御門經任等公卿勅使は弘安四年閏七月二日京都を出發し、同十一日に帰京せられたのであつた。すなはち勅使發向の前日すでに豪古勢は神風によつて覆滅してゐたのであるが、當時の通信方法迅速ならざりし為め朝廷には二日か三日か、しばらくの間は大捷利を御承知なかつたのである、公卿勅使も伊勢への旅行の往還いづれかで初めて聞知されたものなることは、明らかだ。依而、為氏の一首も「のぼる道より」帰洛の途中よりとしてある。
http://web.archive.org/web/20151001010914/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kawata-jun-aikoku-hyakunin-isshu.htm
と書いていますが、まあ、誰でも気づくことであって、論争参加者は議論の格調が下がるのを避けるために敢えて触れなかったのだろうと思います。
細かいことを言うと、川田順の「當時の通信方法迅速ならざりし為め朝廷には二日か三日か、しばらくの間は大捷利を御承知なかつた」という記述のうち、「二日か三日か」は性急に過ぎて、閏七月一日の大風の翌二日に使者が鎮西を出たとしても、京都への到着は九日ですから一週間かかっていますね。
また、更に細かい話ですが、公卿勅使の中御門経任が帰京したのは十一日ではなく十日です。
『勘仲記』の閏七月十一日条に「晴、公卿勅使昨夕帰路、今日参内、殿下御参内、仙洞評定」とあり、経任は十日に帰って十一日に参内しています。
さて、以上の私見は旧サイトでも概ね同内容で書いていたのですが、論争の中心である「弘安の御願」の主体が誰か、後宇多天皇なのか亀山上皇なのかについては特に検討していませんでした。
この点は今回改めて考えたことがありますので、次の投稿で書きたいと思います。
私の考え方(2002年暫定版)「第二章 『増鏡』の作者」
http://web.archive.org/web/20150831071838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/2002-zantei02.htm