投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月21日(木)09時22分18秒
>筆綾丸さん
ご指摘の部分、私もちょっと引っかかったのですが、野口氏は「幕府に公的な要素がなかったからであるが」に付された注(18)と、「武士社会の慣例が躊躇無く適用されたともいえるのである」に付された注(19)において、
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(18) 上横手雅敬「鎌倉・室町幕府と朝廷」(同『日本中世国家史論攷』塙書房、一九九四年。初出は一九八七年)
(19) 上横手雅敬「「建永の法難」について」(同編『鎌倉時代の権力と制度』思文閣出版、二〇〇八年)。なお、中世前期における死刑や天皇・貴族の武装については、同「講演 天皇と京都」(『ミネルヴァ日本評伝選通信』36・37、二〇〇七年)を参照(坂口太郎氏の御教示による)。
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と書かれています。
『鎌倉時代の権力と制度』は以前読みましたが、関係部分の内容は忘れてしまったので、後で確認してみます。
「上横手のじっちゃんと11人の孫たち」
「徳大寺公継」
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
疑問 2020/05/20(水) 18:30:24
小太郎さん
ご引用の野口氏の記述の内、
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乱後、公家法の伝統によれば文官であるがゆえに死罪にされないはずの彼らが処刑されたのは、理論的には朝廷から追討の対象とされた幕府に公的な要素がなかったからであるが、実際、彼らは武装して戦ったのであるから、武士社会の慣例が躊躇無く適用されたともいえるのである。
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は理解しにくい文で、幕府の「公的な要素」とは何を意味するのか、権門体制論から導出される概念なのかな、とも思いますが、わかりません。
小太郎さん
ご引用の野口氏の記述の内、
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乱後、公家法の伝統によれば文官であるがゆえに死罪にされないはずの彼らが処刑されたのは、理論的には朝廷から追討の対象とされた幕府に公的な要素がなかったからであるが、実際、彼らは武装して戦ったのであるから、武士社会の慣例が躊躇無く適用されたともいえるのである。
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は理解しにくい文で、幕府の「公的な要素」とは何を意味するのか、権門体制論から導出される概念なのかな、とも思いますが、わかりません。