投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月23日(土)22時40分23秒
>筆綾丸さん
上横手雅敬氏の『日本中世国家史論攷』(塙書房、1994)は近隣の図書館に見当たらないのですが、「鎌倉・室町幕府と朝廷」の初出は『日本の社会史第3巻 権威と支配』(岩波書店、1987)のようなので、これであれば明日にも確認できそうです。
>諸史料によれば、後鳥羽院は義時朝臣を追討せよ、と命じているだけであって、幕府を倒せ、とは言っていないので、幕府は追討の対象ではありません。
義時追討説は近時の極めて有力な説で、私も例えば近藤成一氏の次のような説明に納得していました。
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承久三年(一二二一)五月十五日、後鳥羽は京都守護伊賀光季を討つとともに、義時の追討を五畿七道に対して命ずる宣旨を出させた。いわゆる「承久の乱」のはじまりである。宣旨が命じているのは義時の追討であって、討幕ではない。討幕が目的であれば、追討の対象は将軍のはずである。実朝の後嗣三寅は元服前だしまだ征夷大将軍に任ぜられていないけれども、宣旨のなかでは「将軍の名を帯す」と認められている。三寅は「将軍の名を帯す」るけれどもまだ幼齢であり、それをいいことに義時が専権を振るっていることが謀反と断じられて、義時の追討が命じられているのである。三寅は追討の対象ではない。
しかも義時追討に立ち上がることが求められているのは諸国の守護人、荘園の地頭である。そもそも諸国の守護人が国衙に結集する武士を動員して王朝を警固する体制は、鎌倉幕府成立以前にさかのぼるものであり、鎌倉幕府はその体制を一元的に掌握することにより御家人体制を構築したのであるが、後鳥羽はその諸国守護人とさらには地頭に対して直接呼びかけ、自己のもとに直接再編成しようとしているのである。
ただ、最近、義時追討説を詳しく論じた坂井孝一氏の『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書、2018)と、討幕説を維持する本郷和人氏の『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書、2019)を読み比べてみて、義時追討説にも若干の疑問を感じるようになりました。
それは仮に後鳥羽が戦闘に勝利したら一体何をやりたかったのだろう、武士との間にどのような関係を構築しようとしたのだろう、という戦後構想の問題です。
義時追討説を文字通りに理解したら、義時だけを排除して幕府機構は温存、三寅の地位も温存ということになりますが、では「尼将軍」政子もそのままでよいのか。
慈光寺本承久記によれば、後鳥羽は藤原光親を奉者とする北条義時追討の院宣を武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村の八人に充てて下したとのことで、これはそれなりに真実味がありますが、では、これらの者が義時に反抗して勝利し、例えば北条時房を首班とする守護・地頭を統括する機構が鎌倉にできそうになったとして、後鳥羽はそれに満足するのか。
義時の弟である時房だったら義時と五十歩百歩であり、元の木阿弥、何のために戦ったのかも分からなくなりそうです。
では、例えば三浦だったらよいのか。
北条を中心とする幕府機構が三浦を中心とする幕府機構に変ったら、後鳥羽は満足だったのか。
義時追討説を説く論者も、後鳥羽勝利後の戦後構想についてはあまり論じていないようで、坂井氏などは本当に義時排除だけで良かったように思っているのかもしれないですが、それもあまりに無邪気ではなかろうかと感じます。
後鳥羽が院宣と官宣旨に書いた文章はあくまで義時追討ですが、それは幕府内部の対立を誘発させるための手段であって、後鳥羽の本来の意図は別だと考えることは充分に可能であり、「尼将軍」政子や大江広元らは決して後鳥羽の命令をすり替えたのではなく、むしろ後鳥羽の真の意図を正確に読み取ったのだ、そして院宣の宛先であった八人を含む御家人も、政子らの解釈に納得したのだ、と解することも充分に可能なのではないかと思います。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
追記 2020/05/21(木) 17:22:13
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/122105.html
諸史料によれば、後鳥羽院は義時朝臣を追討せよ、と命じているだけであって、幕府を倒せ、とは言っていないので、幕府は追討の対象ではありません。
従って、法理論的には(屁理屈としては)、「公的な要素」の意味は不明ながらも、幕府に公的な要素はあった、と考えられるのではあるまいか。
補遺
幕府の公的な要素とは、後鳥羽院を以てしても否定しえない幕府の legitimacy (合法性・正当性)のことかな、という気もしますね。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/122105.html
諸史料によれば、後鳥羽院は義時朝臣を追討せよ、と命じているだけであって、幕府を倒せ、とは言っていないので、幕府は追討の対象ではありません。
従って、法理論的には(屁理屈としては)、「公的な要素」の意味は不明ながらも、幕府に公的な要素はあった、と考えられるのではあるまいか。
補遺
幕府の公的な要素とは、後鳥羽院を以てしても否定しえない幕府の legitimacy (合法性・正当性)のことかな、という気もしますね。