投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 3日(水)11時23分28秒
『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)に即して佐藤説を長々と紹介してきましたが、なにせ半世紀以上も前の書物ですから、全体的に古くなってしまっているのは仕方ないことです。
後醍醐・護良・尊氏の三者が三つ巴になって厳しく対立していた、という佐藤説の基本構図は既に崩れ去っており、後醍醐・尊氏の間はけっこう良好な関係だったことは明らかです。
ただ、護良の位置づけはまだ確定しておらず、呉座勇一氏あたりも「後醍醐天皇と護良親王の対立の核心」を熱く語っておられたりしますね。
「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158
私自身は、少なくとも元弘三年(1333)の間は、後醍醐と護良の間にも特に緊張関係はなかったのではないかと考えていて、これからその点を論じて行くつもりですが、三者間の人間関係に直接関係しない事項についても、現在の学説の到達点を一応確認しておかないと、次の議論が分かりにくくなりそうです。
そんなことを漠然と考えていたところ、たまたま昨日、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)を読んで、美川氏が建武政権の組織・法令について、近時の学説を簡潔に整理されているのを知りました。
これが非常に分かりやすいものだったので、少し引用させてもらうことにします。
なお、美川氏が引用されている市沢哲氏の見解については、私も多少の意見を持っているのですが、その点は後日、改めて検討するつもりです。
『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』/美川圭インタビュー
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/110604.html
ということで、まずは佐藤・黒田論争等の少し古い議論です。(p212以下)
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建武政権の代表的な訴訟機関である雑訴決断所の成立時期について、森茂暁は元弘三年(一三三三)九月十日と推定している。後醍醐天皇が帰京したのがこの年の六月五日とされているから、新政権樹立から三ヶ月後ということになる。一方記録所のほうは、六月頃に設置されたらしいから、かなり早い時期である。しかも越訴と庭中のシステムは整えられていたと考えられる。
実はこの三ヶ月をめぐって、佐藤進一と黒田俊雄の有名な論争がある。佐藤は、当初内乱の混乱を収束するために、後醍醐が幕府によって所領を奪われた者の旧領の回復を、綸旨を下して認めたとした。これは後醍醐の綸旨至上主義のあらわれであると指摘した。ところが、綸旨を求める訴人が京都に殺到するなどのさらなる混乱をまねいたため、朝敵以外の人々の所領の当知行を認める方針に転換したという。それに対し、黒田は佐藤とは異なり、政権の方針は当知行を認める方針で一貫していたとする。そのうえで、慣習にもとづき当初は綸旨で当知行を認めていたが、事務的な能力の限界から、いちいち綸旨を下すことをやめ、問題があれば国ごとに解決させることになったとする。
以上、二人はこのように見解を異にしているが、ともに途中で綸旨の個別発給は停止されたとしている。それに対し、小川信は国司の発給する国宣よりも綸旨は大量に発給され続けているとし、途中で申請者の希望で国衙からも安堵がなされるような綸旨万能主義の現実的な修正が行われただけなのだとした。いずれにせよ、三者ともに綸旨万能の体制が修正されていくという点では一致している。そのうえで、佐藤は雑訴決断所が独自の裁決権をもつ機関であり、その設置によって後醍醐の勅裁は後退したと論じた。また小川も、建武元年(一三三四)のあいだに濫妨停止、当知行安堵の綸旨が消滅し、雑訴決断所牒がこれに代わることから、勅断主義に修正が加えられたと考えた。すなわち、佐藤も小川も、綸旨万能主義による後醍醐の専制主義は、しだいに後退したとする。そして、そのことが雑訴決断所の設置にみられるとしたのである。
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巻末の「主要参考文献」によれば黒田俊雄説の出典は「建武政権の所領安堵政策─一同の法および徳政令の解釈を中心に─」(『黒田俊雄著作集』第七巻、法蔵館、一九九五所収)となっていますが、初出は『赤松俊秀教授退官記念国史論集』(赤松俊秀教授退官記念事業会、1972)ですね。
赤松俊秀教授退官記念事業会編『赤松俊秀教授退官記念国史論集』
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001222175-00
また、小川信説の出典は「南北朝内乱」(『岩波講座日本歴史 中世二』、1975)で、結局、これらは1970年代の議論です。
さて、では最近の議論はどうかというと、次のような状況です。(p213以下)
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しかし、雑訴決断所が、鎌倉後期の雑訴沙汰(雑訴評定と雑訴議定)と共通点が多いとすると、別の評価のしかたができるのである。市沢哲の説によると次のようになる。まず天皇帰京後も内乱状態が続いており、そこでは武士たちに味方につくよう要請する軍勢催促が行われ、味方になる限りは彼らの所領を認め、その防衛がなされるが、そうでなければ攻撃の対象にするとされた。そのような純然たる軍事行為としての命令が、後醍醐綸旨の発給によってなされたのである。
しかし、次の段階で、後醍醐の勝利が確定していくと、多くの訴人が京都に殺到する。これはかつていわれたような新政の混乱によるのものではなく、天皇の権力求心性が急速に高まった結果なのである。それらの訴人は、多くが軍勢催促に応じた武士なのだが、彼らが何を目的に京都に殺到するかといえば、幕府滅亡によって新たな主人となった後醍醐天皇、あるいは新たな武家の棟梁となりつつあった足利尊氏のもとに馳せ参じ、新たな主人との間に主従の関係を築くためであった。後醍醐の側は、朝敵と認定している者を除外し、それらの武士が実際に所有している土地の権利を認めることになった。これは後醍醐が帰京した六月五日から二ヶ月ほどたった、七月下旬の段階である。
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いったん、ここで切ります。
市沢説の出典は『中世日本公家政治史の研究』(校倉書房、2011)です。
『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)に即して佐藤説を長々と紹介してきましたが、なにせ半世紀以上も前の書物ですから、全体的に古くなってしまっているのは仕方ないことです。
後醍醐・護良・尊氏の三者が三つ巴になって厳しく対立していた、という佐藤説の基本構図は既に崩れ去っており、後醍醐・尊氏の間はけっこう良好な関係だったことは明らかです。
ただ、護良の位置づけはまだ確定しておらず、呉座勇一氏あたりも「後醍醐天皇と護良親王の対立の核心」を熱く語っておられたりしますね。
「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158
私自身は、少なくとも元弘三年(1333)の間は、後醍醐と護良の間にも特に緊張関係はなかったのではないかと考えていて、これからその点を論じて行くつもりですが、三者間の人間関係に直接関係しない事項についても、現在の学説の到達点を一応確認しておかないと、次の議論が分かりにくくなりそうです。
そんなことを漠然と考えていたところ、たまたま昨日、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)を読んで、美川氏が建武政権の組織・法令について、近時の学説を簡潔に整理されているのを知りました。
これが非常に分かりやすいものだったので、少し引用させてもらうことにします。
なお、美川氏が引用されている市沢哲氏の見解については、私も多少の意見を持っているのですが、その点は後日、改めて検討するつもりです。
『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』/美川圭インタビュー
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/110604.html
ということで、まずは佐藤・黒田論争等の少し古い議論です。(p212以下)
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建武政権の代表的な訴訟機関である雑訴決断所の成立時期について、森茂暁は元弘三年(一三三三)九月十日と推定している。後醍醐天皇が帰京したのがこの年の六月五日とされているから、新政権樹立から三ヶ月後ということになる。一方記録所のほうは、六月頃に設置されたらしいから、かなり早い時期である。しかも越訴と庭中のシステムは整えられていたと考えられる。
実はこの三ヶ月をめぐって、佐藤進一と黒田俊雄の有名な論争がある。佐藤は、当初内乱の混乱を収束するために、後醍醐が幕府によって所領を奪われた者の旧領の回復を、綸旨を下して認めたとした。これは後醍醐の綸旨至上主義のあらわれであると指摘した。ところが、綸旨を求める訴人が京都に殺到するなどのさらなる混乱をまねいたため、朝敵以外の人々の所領の当知行を認める方針に転換したという。それに対し、黒田は佐藤とは異なり、政権の方針は当知行を認める方針で一貫していたとする。そのうえで、慣習にもとづき当初は綸旨で当知行を認めていたが、事務的な能力の限界から、いちいち綸旨を下すことをやめ、問題があれば国ごとに解決させることになったとする。
以上、二人はこのように見解を異にしているが、ともに途中で綸旨の個別発給は停止されたとしている。それに対し、小川信は国司の発給する国宣よりも綸旨は大量に発給され続けているとし、途中で申請者の希望で国衙からも安堵がなされるような綸旨万能主義の現実的な修正が行われただけなのだとした。いずれにせよ、三者ともに綸旨万能の体制が修正されていくという点では一致している。そのうえで、佐藤は雑訴決断所が独自の裁決権をもつ機関であり、その設置によって後醍醐の勅裁は後退したと論じた。また小川も、建武元年(一三三四)のあいだに濫妨停止、当知行安堵の綸旨が消滅し、雑訴決断所牒がこれに代わることから、勅断主義に修正が加えられたと考えた。すなわち、佐藤も小川も、綸旨万能主義による後醍醐の専制主義は、しだいに後退したとする。そして、そのことが雑訴決断所の設置にみられるとしたのである。
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巻末の「主要参考文献」によれば黒田俊雄説の出典は「建武政権の所領安堵政策─一同の法および徳政令の解釈を中心に─」(『黒田俊雄著作集』第七巻、法蔵館、一九九五所収)となっていますが、初出は『赤松俊秀教授退官記念国史論集』(赤松俊秀教授退官記念事業会、1972)ですね。
赤松俊秀教授退官記念事業会編『赤松俊秀教授退官記念国史論集』
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001222175-00
また、小川信説の出典は「南北朝内乱」(『岩波講座日本歴史 中世二』、1975)で、結局、これらは1970年代の議論です。
さて、では最近の議論はどうかというと、次のような状況です。(p213以下)
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しかし、雑訴決断所が、鎌倉後期の雑訴沙汰(雑訴評定と雑訴議定)と共通点が多いとすると、別の評価のしかたができるのである。市沢哲の説によると次のようになる。まず天皇帰京後も内乱状態が続いており、そこでは武士たちに味方につくよう要請する軍勢催促が行われ、味方になる限りは彼らの所領を認め、その防衛がなされるが、そうでなければ攻撃の対象にするとされた。そのような純然たる軍事行為としての命令が、後醍醐綸旨の発給によってなされたのである。
しかし、次の段階で、後醍醐の勝利が確定していくと、多くの訴人が京都に殺到する。これはかつていわれたような新政の混乱によるのものではなく、天皇の権力求心性が急速に高まった結果なのである。それらの訴人は、多くが軍勢催促に応じた武士なのだが、彼らが何を目的に京都に殺到するかといえば、幕府滅亡によって新たな主人となった後醍醐天皇、あるいは新たな武家の棟梁となりつつあった足利尊氏のもとに馳せ参じ、新たな主人との間に主従の関係を築くためであった。後醍醐の側は、朝敵と認定している者を除外し、それらの武士が実際に所有している土地の権利を認めることになった。これは後醍醐が帰京した六月五日から二ヶ月ほどたった、七月下旬の段階である。
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いったん、ここで切ります。
市沢説の出典は『中世日本公家政治史の研究』(校倉書房、2011)です。