投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月27日(土)13時18分5秒
無着の上洛時期について金沢貞顕の六波羅探題就任との関連があるのでは、と書きましたが、無着以外でも貞顕周辺の女性たちはかなり上洛していますね。
小川剛生氏の『兼好法師』(中公新書、2017)によれば、次のような状況です。(p34以下)
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京鎌間を往復する人々
【中略】
さて金沢文庫古文書に見える氏名未詳の仮名書状のうち、かなりの数がこの時期の当主や一門に仕える女房のものらしい(女性は原則署名しない)。ところで金沢流北条氏の僧侶・女性は、貞顕の在京を好機に上洛する者があり、寺社参詣や遊山を楽しんでいる。剱阿も嘉元元年(一三〇三)九月から半年余り在京し、貞顕夫妻の歓待を受けた。実時の娘で、貞顕には叔母かつ養母でもあった谷殿永忍〔やつどのえいにん〕は、一門女性の中心的存在であった。この谷殿が嘉元三年から翌年にかけて上洛、貞顕の妻妾らをも率いて畿内を巡礼している。貞顕は剱阿に「さてもやつどのの御のぼり候て、たうとき所々へも御まいり候」(金文四七四号)と言い遣るが、女性たちの書状ではもちきりの話題で、「さても御ものまうで〔物詣〕、いまはそのご〔期〕なき御事にて候やらん」(金文二九八三号)、「なら〔奈良〕うちはのこりなくをが〔拝〕みて候し、きやう〔京〕にはとりあつめ四五日候しほどに、ゆめ〔夢〕をみたるやうにてこそ候へ」(金文二八五一号)といった具合である。なお奈良下向では谷殿が「御あつらへものゝ日記」(金文二七四九号)を忘れず携えたことを報告しているが、留守の人たちが希望した土産物リストらしい(かつての海外旅行を髣髴とさせる)。周囲含めて賑やかな女性であるが、谷殿の話題が目立つのは、彼女宛ての書状が多数剱阿にもたらされたからである。さらに倉栖兼雄の「母儀尼」も上洛して来た(金文五六一号)。当時の上層の人々、女性も意外に行動的であった。
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無学祖元の弟子という無着の立場は同時代の女性の中でもかなり特殊なので、その出家の時期や出家の動機については、必ずしも当時の女性の一般的な出家と同列に扱うことはできません。
出家すれば世間的な規範からは自由になれますから上洛も可能ですが、しかし、安達泰盛の娘である以上、平禅門の乱までは不自由な生活を強いられたでしょうし、娘(釈迦堂殿)と足利貞氏の結婚や高義の出産などにも無関係という訳にはいかなかったでしょうから、やはりその上洛は貞顕の六波羅探題就任後と考えるのが自然ですね。
もちろん無着の上洛の理由は、谷殿永忍などとは違って物見遊山ではありませんが、貞顕が六波羅探題という要職にあったことは無着の在京生活にも多大な恩恵を与えたでしょうね。
資寿院の創建にも貞顕の物心両面での援助があったのではないかと私は想像します。
なお、「貞顕夫妻の歓待を受けた」「貞顕の妻妾らをも率いて畿内を巡礼」とありますが、この「妻」は貞顕の正室である北条時村の娘ではなく、在京中の夫人「薬師堂殿」ですね。
「薬師堂殿」は勧修寺流吉田家の人らしく、永井晋氏は貞顕の男子の一人・貞冬の「冬」は吉田定房の弟冬方の偏諱で、貞冬の母が「薬師堂殿」ではないかと推定されています。(『人物叢書 金沢貞顕』、p19)。
ついでながら吉田定房の正室は四条隆顕の娘で、『徒然草』の社会圏と『とはずがたり』の社会圏がかなり近いことについては以前触れたことがあります。
また、谷殿の物見遊山の旅には案内役として後深草院二条がいても不思議ではないですね。
昔はそんなことを言うと小説の世界になってしまうな、と思っていたのですが、早歌関係の史料を見れば「白拍子三条」と金沢貞顕に直接の面識があったことは明らかです。
「西禅寺長老」宛ての文保二年三月十二日付の大仏貞直書状は西禅寺の外護者であった小串範秀を間接的な名宛人としているのではないかと思われますが、小串範秀も早歌の世界ではなかなかの有名人で、ここでも後深草院二条との接点がありそうです。
四条隆顕の女子は吉田定房室
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/018001665f2510c0b5e3f3363a6afb19
四条隆顕室は吉田経長の従姉妹
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25a8703d016d35481d7f649f76bf941c
五味文彦氏『「徒然草」の歴史学』再読
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ad095c508bdc2589e396484540913d33
無着の上洛時期について金沢貞顕の六波羅探題就任との関連があるのでは、と書きましたが、無着以外でも貞顕周辺の女性たちはかなり上洛していますね。
小川剛生氏の『兼好法師』(中公新書、2017)によれば、次のような状況です。(p34以下)
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京鎌間を往復する人々
【中略】
さて金沢文庫古文書に見える氏名未詳の仮名書状のうち、かなりの数がこの時期の当主や一門に仕える女房のものらしい(女性は原則署名しない)。ところで金沢流北条氏の僧侶・女性は、貞顕の在京を好機に上洛する者があり、寺社参詣や遊山を楽しんでいる。剱阿も嘉元元年(一三〇三)九月から半年余り在京し、貞顕夫妻の歓待を受けた。実時の娘で、貞顕には叔母かつ養母でもあった谷殿永忍〔やつどのえいにん〕は、一門女性の中心的存在であった。この谷殿が嘉元三年から翌年にかけて上洛、貞顕の妻妾らをも率いて畿内を巡礼している。貞顕は剱阿に「さてもやつどのの御のぼり候て、たうとき所々へも御まいり候」(金文四七四号)と言い遣るが、女性たちの書状ではもちきりの話題で、「さても御ものまうで〔物詣〕、いまはそのご〔期〕なき御事にて候やらん」(金文二九八三号)、「なら〔奈良〕うちはのこりなくをが〔拝〕みて候し、きやう〔京〕にはとりあつめ四五日候しほどに、ゆめ〔夢〕をみたるやうにてこそ候へ」(金文二八五一号)といった具合である。なお奈良下向では谷殿が「御あつらへものゝ日記」(金文二七四九号)を忘れず携えたことを報告しているが、留守の人たちが希望した土産物リストらしい(かつての海外旅行を髣髴とさせる)。周囲含めて賑やかな女性であるが、谷殿の話題が目立つのは、彼女宛ての書状が多数剱阿にもたらされたからである。さらに倉栖兼雄の「母儀尼」も上洛して来た(金文五六一号)。当時の上層の人々、女性も意外に行動的であった。
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無学祖元の弟子という無着の立場は同時代の女性の中でもかなり特殊なので、その出家の時期や出家の動機については、必ずしも当時の女性の一般的な出家と同列に扱うことはできません。
出家すれば世間的な規範からは自由になれますから上洛も可能ですが、しかし、安達泰盛の娘である以上、平禅門の乱までは不自由な生活を強いられたでしょうし、娘(釈迦堂殿)と足利貞氏の結婚や高義の出産などにも無関係という訳にはいかなかったでしょうから、やはりその上洛は貞顕の六波羅探題就任後と考えるのが自然ですね。
もちろん無着の上洛の理由は、谷殿永忍などとは違って物見遊山ではありませんが、貞顕が六波羅探題という要職にあったことは無着の在京生活にも多大な恩恵を与えたでしょうね。
資寿院の創建にも貞顕の物心両面での援助があったのではないかと私は想像します。
なお、「貞顕夫妻の歓待を受けた」「貞顕の妻妾らをも率いて畿内を巡礼」とありますが、この「妻」は貞顕の正室である北条時村の娘ではなく、在京中の夫人「薬師堂殿」ですね。
「薬師堂殿」は勧修寺流吉田家の人らしく、永井晋氏は貞顕の男子の一人・貞冬の「冬」は吉田定房の弟冬方の偏諱で、貞冬の母が「薬師堂殿」ではないかと推定されています。(『人物叢書 金沢貞顕』、p19)。
ついでながら吉田定房の正室は四条隆顕の娘で、『徒然草』の社会圏と『とはずがたり』の社会圏がかなり近いことについては以前触れたことがあります。
また、谷殿の物見遊山の旅には案内役として後深草院二条がいても不思議ではないですね。
昔はそんなことを言うと小説の世界になってしまうな、と思っていたのですが、早歌関係の史料を見れば「白拍子三条」と金沢貞顕に直接の面識があったことは明らかです。
「西禅寺長老」宛ての文保二年三月十二日付の大仏貞直書状は西禅寺の外護者であった小串範秀を間接的な名宛人としているのではないかと思われますが、小串範秀も早歌の世界ではなかなかの有名人で、ここでも後深草院二条との接点がありそうです。
四条隆顕の女子は吉田定房室
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/018001665f2510c0b5e3f3363a6afb19
四条隆顕室は吉田経長の従姉妹
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25a8703d016d35481d7f649f76bf941c
五味文彦氏『「徒然草」の歴史学』再読
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ad095c508bdc2589e396484540913d33