学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0125 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その5)

2024-07-21 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第125回配信です。


一、前回配信の補足

金沢貞顕の恐怖の記憶〔2014-06-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/096bb952f1ddd3d4d767277c56195f74

二、小川氏の推理の過程の問題点

(1)「うらへのかねよし」の現れる書状(金文二八〇一号)

「秘鈔口決」という聖教の紙背文書。
二百四十余点の書状群に含まれる。
「みょうにんの御房」とあるので、「剱阿の長老就任前、延慶元年十一月以前」
「復原された書状群の年代を考証すると、確実なもので最も遡るものは嘉元元年(一三〇三)二月二十六日、最も降るものは徳治二年(一三〇七)十月晦日」
「そしてこの二八〇一号氏名未詳書状も、ちょうどこの間、嘉元三年夏のものと考えられ」

(2)「こまちより」と署名する女性が「明忍の御房の御りやう」(=剱阿)に宛てた書状(金文二六一九+金文二七九八号)

これも「秘鈔口決」の紙背文書。
「あすはこ御てゝの正日」とあるが、実際に墓参りに行ったのは十五日。

p50以下
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「こ御てゝの正日」のすぐ後に、「此御一しゆき」と出て来るので混乱するが、これは剱阿と関係の深い、別人の一周忌である。当時、剱阿がこれを修すべき人物といえば、前長老の審海しか考えられない。審海の一周忌は嘉元三年六月十二日だが、五月に鎌倉で騒動(嘉元の乱)が起き、市中は混乱の極みにあったから、その余波で延引され、八月と定められていたのであろう。したがってこの書状は嘉元三年六月か七月となる。二八〇一号もその直前と定まる。
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本来の命日の近辺には「さすけのれん花寺に如法経」があったので、当時籠っていた自分もそれを聴聞し、「おほやけの中のわたくしなる心地」がしたとのことなので、本来の命日は月の前半か。
前長老・審海の一周忌をずらすとしても、十二日は動かさないだろうから、六月ないし七月十二日ということか。
とすると、「こ御てゝの正日」も十二日くらいだが、そこに別件の仏事が入ったので、十五日に墓参りに行ったということか。
その場合、(3)で「廿二日」に「故黄門上人位」の仏事が行われていることとのズレがあるのではないか。

(3)倉栖兼雄の書状(金文五〇三号)

兼雄は在京中なので、嘉元三年(1305)夏ではありえない。
『金沢北条氏編年資料集』でも、嘉元3年4月28日付け「六浦瀬戸橋造営棟別銭注文土代」の紙背なので嘉元2年以前と推定して嘉元2年の年末雑載に収録」とのこと。

永井晋・角田朋彦・野村朋弘編『金沢北条氏編年資料集』(八木書店、2013)
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1679

結局、小川氏は(2)が嘉元三年(1305)に特定できるとして、(1)(3)も嘉元三年と判断されたのではないか。
(1)(3)は七回忌であることは明確だが、(2)は別と考えることもできるのではないか。
仮に(3)が嘉元二年(1304)ならば「故黄門上人位」の没年も一年遡ることとなる。
コメント (4)
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