学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0126 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その6)

2024-07-22 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第126回配信です。


一、前回配信の補足

(2)「こまちより」と署名する女性が「明忍の御房の御りやう」(=剱阿)に宛てた書状(金文二六一九+金文二七九八号)

これが七回忌であるならば、この女性は日程について、(1)の「うらへのかねよし」(四郎太郎)や(3)の倉栖兼雄と調整を図らねばならず、その調整がついていることを剱阿に伝えなければならないはず。
しかし、彼女は自分の都合のみを記し、自分独自の判断で「はかなどへもまいりたく」と言っている。
従って、(2)は七回忌ではない。

小川氏は嘉元の乱との関係から、(2)について、「したがってこの書状は嘉元三年六月か七月となる。二八〇一号もその直前と定まる」とされるが、少なくとも後者は誤り。
七回忌がいつ行われたかは確定できない。
従って、「故黄門上人位」の没年も確定できない。

二、倉栖兼雄について

永井晋『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33581.html

p161以下
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三 倉栖兼雄

 倉栖氏は、下総国豊田郡来栖院(茨城県結城郡八千代町)を苗字の地とした一族と思われる。【中略】
 倉栖兼雄の母随了は、諷誦文の中で兼雄を次のように述べる。
  (前略)父の業を継いで以て父を添〔はずか〕しめず、文才を左にして
  政務を論じ、武略を右にして令申を布く、二代の賢太守に仕えて一家の
  管領の仁に当り、重々の切勲を策て、度々の使節を遂ぐ、(後略)
 この諷誦文は、兼雄が父の跡を継いで金沢家に仕え、顕時・貞顕の二代に仕えたと伝える。金沢家は実時の代から下河辺庄を領地としていたので、倉栖氏は実時ないし顕時の時代に金沢家の被官となったとみてよいだろう。
 倉栖兼雄の初見は、正安四年(一三〇二)四月三日付の金沢貞顕書状(『金文』一〇二号+四号)である。この書状は右筆書の貞顕書状のなかで最も年代が遡るもので、倉栖兼雄は貞顕が家督を継いだ頃から右筆として側近く仕えたことを推測させる。また、右筆倉栖兼雄の手になる貞顕書状が数多く残るのは、貞顕が六波羅探題南方を勤めていた時期である。この時期の金沢貞顕書状に見える世尊寺流のなめらかな筆跡は、倉栖兼雄の筆である。
【中略】
 このように、倉栖兼雄は貞顕の右筆として書状を作成し、また使節や奉行人としてさまざまな仕事をこなしていった。倉栖兼雄は文保三年(一三一九)五月三日に亡くなったが、その諷誦文は不惑をわずかに超えたと伝える。兼雄は弘安三年(一二八〇)から数えて一二年前に誕生したと推測することが可能なので、弘安元年生の貞顕とほぼ同世代である。このことが、二人の交流をさらに親密にしたことは推測にかたくない。

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その1)~(その3)〔2022-07-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a127e55d7ba12584dae6f1729e85e0f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfef6c92f27660acfc5a871d76b993d7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39a92a06f94ed59f7d6d9b9e2da4f333
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