1838~1922 明治・大正時代の軍人・政治家 陸軍大将・元帥。長州藩出身。
松下村塾に学び、奇兵隊を率い討幕運動で活躍。
明治維新後、兵部大輔・陸軍卿を歴任し、徴兵令の制定、参謀本部の設置、軍人勅諭発布など陸軍の基礎確立に尽力した。
第1次伊藤博文内閣の内相として地方自治制を制定。
日清戦争では第1軍司令官、日露戦争では参謀総長となる。
この間1889・’98年の2度にわたって内閣を組織し、藩閥・軍閥の巨頭として政党勢力進出を抑制した。
伊藤博文の死後は、元老として絶大な権力を握った。
山県有朋内閣 やまがたありともないかく
〔第1次〈1889.12~’91.5〉〕
条約改正失敗で倒れた黒田清隆内閣のあと組閣。’90年教育勅語
を発布。第1回帝国議会で、国境としての「主権線」とともに、朝鮮を含む国家の安全独立を保障する勢力範囲「利益線」防衛のため、陸海軍増強の必要性を説き、「民力休養」「経費節減」を主張する民党と対立したが、自由党切崩しでこれを乗りきった。
こう暗記! 帝国議会 一夜暮れ。 第一回帝国議会 1890年 第1次山県有朋内閣 |
〔第2次〈1898.11~1900.9〉〕
隈板内閣のあとを受け組閣。軍備拡張のため地租増徴案(3.3%となった)を成立させた。
’99年、文官任用令を改正して官吏の任用資格を厳しくし、翌年には軍部大臣現役武官制を確立し、治安警察法を制定するとともに、衆議院議員選挙法を改正して年選出議員の定員を増加し、有権者の納税資格を引き下げた(直接国税の制限額が10円となった)。
北清事変への参加を断行したのもこの内閣である。
伊藤博文の立憲政友会創立により総辞職。
行く俺たちは 現役や。
1900年 治安警察法
軍部大臣現役武官制
第2次山県有朋内閣