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イスラーム世界の成立

2017-08-04 | ベック式!世界史用語集
イ.イスラーム世界の成立
■ポイント 正統カリフ時代からウマイヤ朝に変化した理由と、宗派の対立はなぜ起こったかを理解する。
 正統力リフ時代 
・632年 ムハンマド没。信者の共同体の中から後継者(a 力リフ )を選出。
・初代 b アブー=バクル  ムハンマドの妻の父。大規模な征服活動をc 聖戦(ジハード) として行う。
・▲2代 d ウマル   637年、 カーディシーヤの戦い での勝利に続き、
 642年 e ニハーヴァンドの戦い でf ササン朝ペルシア を破る。イラン人のイスラーム化が始まる。
 → さらにg ビザンツ帝国 からシリアエジプトを奪い西アジアの穀倉地帯を支配。
※イスラーム国家 : カリフを宗教的・政治的権力者としてイスラーム教の信仰によって結びついた、
アラブ人を主体として多くの民族を含む世界帝国が成立。(サラセン帝国)ともいう。
・征服地に軍営都市(i ミスル )を建設。アラブ人が家族を伴い移住。イラクのクーファ 、 イラクのバスラ 、 エジプトのフスタート など。
ミスルスタート クーファバス(西から東へ)。
ミスル  フスタート  クーファ  バスラ 
・▲3代  j ウスマーン  ウマイヤ家出身。(シーア派はカリフと認めない)
 → 征服地の分配、力リフの選出などをめぐり、イスラーム共同体の内紛起こる。
・4代 k アリー 、ムハンマドの従弟で、娘ファーティマの夫。
 → シリア総督のウマイヤ家のl ムアーウィヤ と争う。
 661年 暗殺される(ハワーリジュ派による)。 → シーア派は初代m イマーム とする。

解説

アリーはムハンマドと同じくメッカのハーシム家の出で、ムハンマドの娘ファーティマの夫となった。大変勇敢な指導者として「アッラーの獅子(アサドッラーク)」と言われた。656年、ウマイヤ家出身のカリフ・ウスマーンが暗殺された後、ムハンマドに最も近い人物と言うことでカリフに選出されたが、ウマイヤ家の統領であるシリア総督ムアーウィヤはアリーがウスマーン殺害の背後にあるとみなして対立し、660年ダマスクスでカリフを称して離反した。両者の争いは決着がつかず、アリーはムアーウィヤの提案を入れて戦闘を中止した。それに反発した過激派(ハワーリジュ派)の刺客が両者を暗殺する計画をたて、661年、クーファでアリーの暗殺に成功した。ただ一人カリフとして残ったダマスクスのムアーウィヤがイスラーム世界の統治者となったが、それを認めずにアリーの子孫のみをイスラームの指導者(イマーム)であるとするシーア派が出現することとなる。
 ウマイヤ朝  の成立
・661年 シリア総督a ムアーウィヤ がカリフとなり、以後世襲される。b ダマスクス を都とする。
 680年 カルバラーの戦い ウマイヤ朝軍、シーア派イマームのフサインを殺害。
・第5代カリフ ▲c アブド=アルマリク (在位685~705) 統一政策と外征を進める。
 695年 d アラビア語 を公用語とする。
  同 年 統一貨幣(ディーナール金貨ディルハム銀貨)を鋳造。

Text p.103

・領土の拡大
 東方 704年 中央アジアのe ソグディアナ に進出。中央アジアへのイスラーム教拡張。
    711年 インドのインダス下流に進出。ヒンドゥー教徒との抗争続く。
 西方 北アフリカのチュニスを制圧、ベルベル人のイスラーム化が進む。
  → ▲f ビザンツ帝国 との抗争 コンスタンティノープルを攻撃、 シチリア島にも進出。
 711年 タンジール からジブラルタルを越えてg イベリア半島 に進出、h 西ゴート王国 を滅ぼす。
・732年 i フランク王国 に侵入。j トゥール・ポワティエ間の戦い で敗れる。
 → キリスト教世界を守ったカロリング家の宮宰カール=マルテルがカロリング朝を開く。(次章で説明)
 アラブ帝国  の形成
・a ウマイヤ朝 のもとで、征服者であるアラブ人が絶対的優位に立つ。同時にカリフの権限はさらに強大になった。
・帝国の国家財政 征服地の先住民にb 地租(ハラージュ)  とc 人頭税(ジズヤ) を課す。
 → d 征服地の異民族(非アラブ人)は、租税を納めることで信仰は認めたが、改宗しても課税された。 
 ※イスラーム教は、異教徒に対して改宗を強制したのではなかったことに注意する。
・このような特色を持つウマイヤ朝時代をC アラブ帝国 ともいう。
 イスラーム教の分裂 
・a ウマイヤ朝 の成立に伴い、イスラーム教団がカリフの地位をめぐって分裂。
・b スンナ派 :ウマイヤ朝のカリフを認めた多数派。
  主張:c ムハンマドの言行(スンナ)を生活の規範とし、共同体の統一を重視する。 
・d シーア派 :ウマイヤ朝のカリフを認めず、独自の指導者( イマーム )をたてた少数派。
  主張:e 4代目カリフのアリーの子孫のみを正当な指導者とする。 
  = “アリーを支持する”という意味の“シーア・アリー”からきた。イスラーム教徒の約1割。
・両派の対立は現在のイスラーム世界でも続いており、世界の不安定要因の一つとなっている。
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用語リストへウ.イスラーム帝国の形成
■ポイント 「アラブ帝国」から「イスラーム帝国」への変化の意味を理解する。
・ウマイヤ朝に対するイスラームに改宗した非アラブ人(a マワーリー )の不満が強まり、
 またスンナ派とシーア派の対立も始まる。ムハンマドの叔父の子孫 b アッバース家 の勢力が強まる。
 → ホラーサーン地方を拠点にウマイヤ朝に抵抗続ける

Text p.104

 アッバース朝 
バグダード・750年 アブー=アルアッバース、力リフを称す。
 a シーア派、アラブ以外のイスラーム教徒 
 が協力し、b アッバース革命 を成功させる。
 751年 中央アジアに進出し、唐と戦う。
 = c タラス河畔の戦い (前出)
・第2代 d マンスール 
 首都e バグダード を建設。
 円形の都市計画。円城から四方に道路が延び、
 運河などの交通網が発達していた。 (右図)
・f イラン人 などの改宗者を要職に登用、
 官僚制度を整える。 
 → 権力を握ってからはスンナ派を保護し、
 シーア派は弾圧。
 イスラーム帝国 の成立  アッバース朝での諸改革
税制改革 イスラーム教徒であれば、アラブ人以外でもa 人頭税(ジズヤ)を免除。 
      アラブ人でも征服地に土地を所有すればb 地租(ハラージュ) を課す。
 意義:c イスラーム教徒であれば、アラブ・非アラブの区別を無くし、平等にした。 

解説

ウマイヤ朝までとアッバース朝以降のイスラーム帝国の税制の違いを概略を示す。×は課税されないことを示し、○は課税されることを示す。非アラブ人のマワーリーとはイスラーム改宗者、ズィンミーとは非改宗者で被保護者の意味。

王     朝 ウマイヤ朝まで アッバース朝から
税     制 ハラージュ ジズヤ ハラージュ ジズヤ
ア ラ ブ 人 × × ×
非アラブ人 マワーリー ×
ズィンミー
・d イスラーム法(シャリーア) :民族差別を無くしたカリフのによる統一的な支配の根拠とされる。
 アッバース朝の意義:e 「アラブ人の国家」から「イスラーム教徒の国家=イスラーム帝国」に変質した。 
 ただし、公用語は依然としてf アラビア語 とされた。
・イスラーム圏 西アジアから東はイラン、中央アジア、インドへ、西は北アフリカからイベリア半島まで広がる。

地図 イスラーム世界の拡大

イスラーム帝国の拡大 

  a ムハンマド時代    b 正統カリフ時代    c アッバース朝    d ビザンツ帝国 

 重要地名 1 メッカ   2 メディナ   3 ダマスクス  イェルサレム 
      5 バグダード   6 アレクサンドリア   7 コルドバ   8 グラナダ 
      9 トゥール   10 ポワティエ   11 ローマ   12 コンスタンティノープル 
      13 ニハーヴァンドの戦い   14 トゥール=ポワティエ間の戦い   15 タラス河畔の戦い 

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用語リストへエ.イスラーム帝国の分裂
■ポイント 隆盛を誇ったイスラーム帝国が、三カリフに分かれ、分裂した事情とその後の各地域の動きを知る。
 後ウマイヤ朝 の成立
・756年 ウマイヤ朝の一族、a イベリア半島 に逃れ建国。アッバース朝カリフから自立しアミールと称す。
 首都b コルドバ  → バグダードの文化を吸収、高度なイスラーム文明を生みだす。
・ ▲8世紀末 c カール大帝 時代のフランク王国の侵入を撃退した。
 = ヨーロッパの一部のイベリア半島に、キリスト教国と隣接してイスラーム国家が存在したことに注意。
 → 半島の北部に残ったキリスト教徒が、イスラーム教徒からの国土回復運動を開始する(後出)。
 10世紀、d カリフ を称す。 → 1031年滅亡 小国に分裂、キリスト教勢力の攻勢強まる。
→ その後もコルドバはヨーロッパがアラビアの先進的な文化を受け入れる窓口となった(後出)。

Text p.105

 アッバース朝 の全盛期8世紀末~9世紀
・5代カリフ a ハールーン=アッラシード (在位786~809年)の時、全盛期となる。 
 学問、芸術を保護し、イスラーム文化の黄金時代と言われる。
 → b バグダード の繁栄。人口100万を超える。
 ギリシア語の文献の収集と翻訳が行われる。(第7代カリフのマームーンも継承)

解説

ハールーン=アッラシードがカリフとなった時代はヨーロッパではフランク王国のカール大帝と同時期であり、フランク側の記録では贈り物の交換をしている。フランクとアッバース朝は、ビザンツ帝国と後ウマイヤ朝という共通の敵を持っていたので、友好関係を持ったことは考えられる。ただし、両者の力関係は、圧倒的にアッバース朝ハールーン=アッラシードが上であった。彼はまた文芸や芸術を好み、多くの芸術家を保護し、バグダードの繁栄をもたらした。彼がバグダードに建設した知恵の館は、アレクサンドリアのムセイオンに伝えられていたギリシア語文献を、アラビア語に翻訳する学術センターとして機能した。しかし、その死後、広大なアッバース朝イスラーム帝国の各地に、地方政権が自立し、分裂の時代がやってくる。
・9世紀から、トルコ系軍人奴隷(c マムルーク )を中央アジアから購入し、親衛隊とする。(後出)
 イスラーム帝国 の分裂
・アッバース朝のカリフ a ハールーン=アッラシード の死後、カリフの権威が次第に弱まる。
 → 軍隊の地方司令官が、独立して▲b アミール を称し、地方政権を各地につくる。
・8~9世紀 地方政権の自立
 北アフリカ ▲モロッコ イドリース朝(789-926)が成立。最初のシーア派国家。
       エジプト c トゥールーン朝 (868~905) アッバース朝のトルコ系軍人が自立。
 イラン  ▲東部にターヒル朝(821-873)、次いでサッファール朝(867-963)が成立。
 西トルキスタン d サーマーン朝 (875~999)イラン系。都ブハラ。東部イランに進出。
   = トルコ人を軍人奴隷(マムルーク)とする。 → トルコ人のイスラーム化すすむ。
・アッバース朝の弱体化 : 現在のイラク、バグダード周辺だけ位を支配するのみとなる。
 869~883年 ▲ザンジュの乱 :イラク南部のバスラを中心とした黒人奴隷の反乱が起きる。
 ファーティマ朝 の成立 
・909年 北アフリカ(マグリブ地方)のチュニジアに成立した王朝。
  a シーア派 の中の急進派(▲b イスマイール派 を信奉。
  = アリーとムハンマドの娘のファーディマの子孫であると称する。
 → カリフを称し、アッバース朝のカリフの権威を否定。 
・969年 c エジプト を征服し、首都b カイロ を建設。
 3カリフ時代 
・10世紀 後ウマイヤ朝のa アブド=アッラフマーン3世 、力リフを称す。
 → b バグダード のアッバース朝、c コルドバ の後ウマイヤ朝、d カイロ のファーティマ朝が分立。
 = 3人のカリフが並び立つ分裂状態となる。

Text p.106

 ブワイフ朝 の成立
・ 946年、a イラン人 の軍事政権 b バグダード に入城。穏健なシーア派を信奉。
  b 大アミール に任命され、スンア派の力リフを保護する代わりに、
  c イスラーム法 を施行する権限を与えられる。

解説

ブワイフ朝は、イランに成立したイスラーム地方政権の一つでシーア派の穏健派十二イマーム派を信奉していた。アッバース朝の弱体化につけ込んでバグダードに入城し、軍事政権を建てたが、アッバース朝を滅ぼしたわけではなく、そのカリフを保護する代わりに、イスラーム法の執行権、つまり政治権力をあたえられ大アミールという地位に就いた。日本で言えば、天皇と鎌倉幕府の関係に似ている。このブワイフ朝では、イクター制度が始まることが重要(後出)。
・アッバース朝のカリフは名目上の存在としてバグダードに存続する。
 
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地租改正反対一揆

2017-08-04 | ベック式!日本史用語集

非は南無魔界 意義浅み。

(1876年 真壁(まかべ)暴動・城県)(重県・阜県・(さかい)県・知県・伊勢暴動)



[point]

1.おもな地租正反対一揆は、真壁暴動茨城)と伊勢暴動三重岐阜愛知)。

[解説]

1.地租改正反対一揆は農民一揆。特に1876年の茨城県真壁・那珂両郡での茨城大一揆(真壁暴動)や、ついで三重愛知岐阜の4県にまたがる三重の大一揆(伊勢暴動)が代表的。

2.これら一揆勢力と折からの士族反乱が結びつくことを恐れた大久保利通政府は、1877年(西南戦争の直前)に税率を2.5%に譲歩軽減した。このため農民はこれを誇って“竹槍でドンとつき出す二分五厘”とうたった。

2016法大・済(済)社(社)スポーツ

A 明治維新以後、財政の安定化という課題に直面する新政府は、土地制度と税制の改革に着手した。新政府は、1871年に田畑勝手作りを許可し、翌年には[ 1 ]を解いて、土地の私的所有権を認める[ 2 ]を地主と自作農に与えた。そして1873年に地租改正条例を公布して、a地租改正を実施した。しかし、b地租改正反対一揆が日本各地で起き、1877年政府は税率を引き下げた。

 このころ、政府は西南戦争の戦費を調達するために、不換紙幣を増発していた。同時に、国立銀行も不換銀行券を発行していたため、激しいインフレーションが起こり、銀貨に対する紙幣の価値が下落した。その結果、地租を中心とする政府の歳入は実質的に減少して、大きな財政困難を招いた。1881年に大蔵卿に就任した[ 3 ]は、大規模c財政改革に取り組んだ。改革のあとも、農民の負担は重く、多くの自作農が土地を手放して小作農に没落した。他方、自らは農業経営をせず、小作人に貸し付けて高額の現物小作料に依存する[ 4 ]が急成長して、農村で貧富の差が進んだ。


 政府が軍備拡張を続けたため、軍事費は削減されず、政府の歳入は緊迫したままだった。1898年に発足した第3次伊藤博文内閣は、地租増徴などの増税案を議会に提出したが、否決された。同年、[ 5 ]を首班とする内閣はd.憲政党の支持を得て、地租を2.5%から3.3%に上げる増徴案を実現した。

問1 [ 1 ]にあてはまるもっとも適切な語句を下記のア~エから一つ選べ。

 ア 田畑永代売買の禁止令
 イ 分地制限令

 ウ 相対済し令
 エ 寺請制度


問2 [ 2 ]にあてはまるもっとも適切な語句を下記のア~エから一つ選べ。


 ア 金禄公債証書 イ 戸籍

 ウ 計帳     エ 地券

問3 下線部a地租改正の説明として誤っているものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 課税基準を収穫高から地価の3%に変更した。

 イ 納入方法を物納から金納に改めた。
 ウ 納税者を土地所有者に定めた。
 エ 収穫の豊凶に応じて税率を増減させた。

問4 下線部b地租改正反対一揆が起こった理由として誤っているものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 米価が高騰したから。

 イ 山林や原野などの入会地のうち、所有権の立証できないものが官有地に編入されたから。
 ウ 旧来の歳入を減らさないようにするため、地租が高額のまま維持されたから。
 エ 永小作の特権がはく奪されたから。

問5 下線部b地租改正反対一揆の事例として正しいものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 茨城県では、真壁騒動が起こった。

 イ 山口県では、萩の乱が起こった。
 ウ 酒田県では、ワッパ騒動が起こった。
 エ 埼玉県では、秩父事件が起こった。

問6 [ 3 ]にあてはまるもっとも適切な人物を下記のア~エから一つ選べ。


 ア 板垣退助 イ 植木枝盛
 ウ 大隈重信 エ 松方正義


問7 下線部c財政改革に関連して誤っているものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 日本銀行を設立して、銀兌換の銀行券を発行した。

 イ エ場建設などを中心に官営事業を推進した。
 ウ 軍事費以外の歳出を抑制し、歳入の余剰で不換紙幣を処分した。
 エ 厳しい財政緊縮の結果、米や繭など物価が大きく下落し、深刻な不況が訪れた。

問8 [ 4 ]にあてはまるもっとも適切な語句を下記のア~エから一つ選べ。


 ア 寄生地主
 イ 財閥  ウ 名主
 エ おとな(乙名・長)


問9 [ 5 ]にあてはまるもっとも適切な人物を下記のア~エから一つ選べ。


 ア 西園寺公望 イ 桂太郎

 ウ 大隈重信  エ 山県有朋

問10 下線部d憲政党の説明として誤っているものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 1898年に自由党と立憲改進党が合同して結成された。

 イ 結党後、はじめての政党内閣である隈板内閣を組織した。
 ウ 党内対立が激化した結果、憲政党と憲政本党に分裂した。
 エ 1900年に解党して、伊藤博文派の官僚とともに立憲政友会を結成した。」

(答:問1ア、問2エ、問3エ、問4ア、問5ア、問6エ、問7イ、問8ア、問9エ、問10ア※自由党と進歩党 飛躍は自信 憲政を。)〉


2014立大・済コミュ福観光

 明治政府の安定にとっての課題の1つは、財政的基盤をいかに作るかという点であった。そこで行われた改革が、4)地租改正である。これとともに、財政負担となっていた秩禄を処分するために、1876年に( ホ )証書を交付し秩禄の廃止を定めた。これらの政策により明治政府の財政は安定したが、農村における実質的な負担は従来の年貢と変わらない場合が多かった。

問4.これに関する出来事について、もっとも古いものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.地券交付の開始→地租改正条例の公布→地租率を2.5%に修正→伊勢暴動の発生

 b.地券交付の開始→地租改正条例の公布→伊勢暴動の発生→地租率を2.5%に修正
 c.地租改正条例の公布→地券交付の開始→地租率を2.5%に修正→伊勢暴動の発生
 d.地租改正条例の公布→地券交付の開始→伊勢暴動の発生→地租率を2.5%に修正

(答:ホ金禄公債、問4.b※伊勢暴動は1876
年12月)
2013学習院大学・経済:「

 幕藩体制が行き詰まって、最終的に明治新政府が成立するが、新政府は諸藩から引き継いだ債務を切り捨て、かつ財源を安定するために土地制度・租税制度の改革を行う必要があった。新政府は1872年、
16)〔イ)棄捐令 ロ)田畑永代売賀の禁令 ハ)身分解放令 ニ)秩禄奉還の法 ホ)身分統制令〕を解くとともに、地券を発行して土地の所有権利を認めた。さらに、翌年には地租改正条例を公布して、地租改正事業に着手した。これによって近代的な租税の形式が整備された。一方、地租改正は従来の年貢による収入を滅らさない方針で進められたので、1876年には伊勢暴動と呼ばれる地租改正反対一揆が
17)〔イ)広島県 ロ)茨城県 ハ)山口県 ニ)三重県 ホ)岡山県〕などで起こった。そのため、翌年には地租の税率を引き下げざるをえなかったのである。」


(答:16ロ、17ニ)〉

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