曰く大きい 不屈やな。
(岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文)(福地源一郎・津田梅子・山川捨松・中江兆民
[ポイント]
1.岩倉使節団のおもなメンバーは岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文、その他一等書記官福地源一郎、留学生の中江兆民・津田梅子。
[解説]
1.1871(明治4)年、廃藩置県を断行して国内統一を達成した新政府は、同年中に、岩倉具視ら多くの政府首脳をふくむ大規模な使節団(岩倉使節団)を米欧諸国に派遣した。一行は、岩倉具視を大使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳(肥前)を副使。随行員の中には福地源一郎(立憲帝政党結成、東京日々新聞社長、歌舞伎脚本家および歌舞伎座創設)も。
2.条約改正の予備交渉を兼ねる。条約改正の提議つまり本交渉は、条約上、明治7(1872)年5月以降と規定されていたため予備交渉。まずアメリカ、ついでヨーロッパを巡遊。制度・文物を視察し、1873年帰国。
3.なお、外遊中は三条実美太政大臣と西郷隆盛・大隈重信・板垣退助参議らが政府を預る。西郷隆盛を中心とする留守政府は、以後1873(明治6)年まで、学制・徴兵制の実施や地租改正などの大規模な内政改革を精力的に推進した。
4.岩倉使節団には留学生数人も随行。その中に中江兆民や、山川捨松(すてまつ)(大山巌妻)・津田梅子(津田英学塾創設)ら5人の女子留学生もいた。彼女たちは10~11年間留学して帰国した。
〈2017慶大・商:「
1871年に、右大臣岩倉具視を全権大使とする(ア)使節団が欧米に派遣され、近代国家の法律や政治・経済の仕組みを視察して[ 21 ]年に帰国した。
問3 下線部(ア)について、使節団に同行し、後に女子英学塾を設立した人物の名前を漢字で書きなさい。」
(答:津田梅子、21→1873)〉
〈2016早大・国際教養
明治政府は幕府が結んだ条約の改正を最重要政策の一つに掲げ、1871年、[ A ]を特命全権大使とする使節団を米欧に派遣した。この使節団はアメリカとの間で条約改正の予備交渉を行ったが、条約締結国全体が同意しなければ無理だと判明して、最初の改正交渉は失敗した。
問3 [ A ]に該当する人名を漢字で記述解答用紙に記入せよ。」
(答:岩倉具視)〉
〈2016法大・済(国ビジ)社(政策メディ)現福:「
1871年、b[ ア ]を大使とする使節団が海外に派遣され、まず[ あ ]と交渉したが目的を達成することはできなかった。
問5 下線部bについて、下記のa~jの中で、この使節団に同行していた人物は誰か。あてはまる人物を二人選べ。
a山川捨松 b与謝野晶子 c管野スガ
d樋口一葉 e柳原白蓮 f市川房江
g新島八重 h平塚らいてう
i津田梅子 j景山英子」
(答:ア岩倉具視、あアメリカ、問5a・i)〉
〈2016立教大・現心コミュ福観光営:「
問1 下線部1岩倉具視を全権大使とする使節団がアメリカ・ヨーロッパに向けて出発したの使節団とともに渡欧した人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。
a.植木枝盛 b、江藤新平
c.中江兆民 d.前原一誠」
(答:c)
〈2012立大・文学部:「
この使節(遣米欧使節団)に加わらなかった人物は誰か。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.伊藤博文 b.大久保利通
c.木戸孝允 d.西郷隆盛)」
(答:d)〉