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ルイ14世の時代

2017-08-13 | 生物暗記法
用語リストへエ.ルイ14世の時代

■ポイント ルイ14世の政治の本質と、17世紀の国際政治の経緯を正確に捉える。

ルイ14世

A ルイ14世   

ルイ14世   1661年 宰相マザランが死去、親政を始める。
  •  太陽王  と呼ばれ、絶大な権力をふるう。b ボシュエ  の主張する、
     c 王権神授説  にもとづき、d 「朕は国家なり」  と述べる。(右図)
  • 財務総監 e コルベール  を登用しf 重商主義政策  を展開。(前出)
    • 1664年 g 東インド会社  再建。
       → インド植民地(シャンデルナゴルとポンディシェリを建設)。(後出)
    •  ヴェルサイユ宮殿  を建設。 → フランス絶対王政の全盛期を象徴。
    • 治安・交通・衛生などに積極的に取り組む。
    • 実態 i 貴族や都市自治体など特権団体  が大きな力を持ちっていた。
       → 王権による中央集権化の進み方はゆるやかだった。

解説

ルイ14世の統治は、絶対王政と言っても、国王から一定の特権を与えられたギルドのような職能団体や都市・村落などの地域共同体を媒介しての支配であり、中央集権的に直接国民を支配していたわけではなかった。そのような法人格を持った社会集団を中間団体または社団(corps)といっている。そのような観点から、この時代を「絶対王政」と規定せず、主権国家の形成期の一つの形態として「社団国家」と捉える見方も出されている。
  • ▲1682年 ラ=サール、北米大陸のミシシッピ流域を探検。j ルイジアナ  と命名。(後出)
侵略戦争   の展開。
  • 自然国境説を根拠としてライン川までの領有を主張。 → ハプスブルク家との対立深まる。
    •  南ネーデルラント継承戦争   1667~68 スペイン領ネーデルラントの継承権を主張して出兵。
    •  オランダ戦争   1672~78 南ネーデルラント継承戦争の際のオランダの妨害に対する報復。
    •  ファルツ戦争   1688~97 ファルツ選帝侯領(ライン川左岸)継承権を主張して出兵。
    • ▲同時にアメリカ植民地でd ウィリアム戦争  起こる。 → e 第2次英仏百年戦争  の開始。
       → いずれも大きな成果は無く、多額の戦費は税金でまかなわれたので、民衆の負担は増大した。

Text p.228

 絶対王政の強化   1672年 財務長官a コルベール  を遠ざける。
  • 1685年 カトリック国家の体制強化を図り、b ナントの勅令を廃止  する。
     → フランスにおける新教徒(c ユグノー  )の信仰が認められなくなる。
  • 影響:d ユグノーの商工業者が多数亡命したため、国内の産業発展が阻害された。   

解説

新教徒であるユグノーはフランスではすでに少数派となっていたが、ルイ14世は宗教的な国家統一を進める意味でナントの勅令廃止に踏み切ったと思われる。ユグノーは改宗を強要され、国外移住も許されなかったが、密かに多くのユグノーが外国に亡命、とくにオランダ、プロイセン、スイスなどに逃れた。ユグノーは商工業者に多く、優れた技術を持っていたものも多かったので、これによってフランスの産業は停滞し、亡命先の国々の産業が盛んになった(スイスの時計業など)と言われている。
スペイン継承戦争  
  • 1701年 スペイン=ハプスブルク家の断絶に乗じ、孫のa フェリペ5世  をスペイン王位につける。
    • 要因:b ルイ14世  がスペイン=ハプスブルク家の王位断絶に介入し領土拡大をはかったこと。
    • 対立:c フランス   対 d オーストリア・イギリス・オランダ・プロイセン   
    • 連動:新大陸での英仏植民地戦争=▲e アン女王戦争  が同時に起きる。
  • 1713年 f ユトレヒト条約  :ブルボン家のスペイン王位継承認められたが、イギリスは領土を拡大。
    • フランスとスペインの合併は永久に禁止される。
    • 新大陸のg ニューファンドランド  ・h アカディア  ・i ハドソン湾地方  をイギリスに割譲。
       (イギリスは他に、スペインからj ジブラルタル  ・k ミノルカ島  を獲得した。)
  • 1714年 l ラシュタット条約  でオーストリアに南ネーデルラントなどを割譲。
・フランスの劣勢、財政悪化が始まり、フランス革命の勃発につながる。 1715年 m ルイ15世  即位
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用語リストへオ.プロイセンとオーストリア

1.プロイセン

■ポイント 東方の小国から軍事大国化の歩みを理解し、それをめぐる西欧諸国の外交関係の変化に注目する。

プロイセン王国   三十年戦争後の17世紀後半 ドイツ諸侯の中で有力な領邦の一つとして台頭。
  • 1701年 a スペイン継承戦争  で神聖ローマ皇帝を助け、王国に昇格。
  • 18世紀前半 2代b フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世   
  •  財政・行政の整備、軍備の増強を進める。→ c
  絶対王政  
    の基礎を築く。
フリードリヒ2世   の統治
  • 1740年 オーストリアのa マリア=テレジア  がハプスブルク家領を相続することに異議を唱える。
     → b シュレジエン   (地下資源が豊かで工業が盛んな地域。現在はポーランド領)を占領。

Text p.229

  •  オーストリア継承戦争   1740~48年
    • 要因:プロイセンのB フリードリヒ2世  の領土拡張政策。
    • 対立:d プロイセン・フランス・バイエルン公国   対 e オーストリア・イギリス   
    • 連動:アメリカ大陸ではf イギリス  はg フランス  とh ジョージ王戦争  を開始。
       インドでは同じくi  カーナティック戦争  が戦われる(七年戦争の時まで継続)。
    • 結果:プロイセン側の勝利、1748年 j アーヘンの和約  でb シュレジェン  を領有。
  • オーストリアのa マリア=テレジア  、フランスと同盟。 = k 外交革命  (次項)。
  • 18世紀後半のヨーロッパ五大国体制 :l イギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシア    
     → それぞれの主権国家が、領土拡張の利害を調整しながら、外交関係を展開した。
七年戦争   1756~1763年
  •  フリードリヒ2世  がオーストリアを攻撃し、開戦。しかし孤立し、苦戦。
    • 要因:外交革命で孤立したプロイセンのa フリードリヒ2世  が起死回生のため起こす。
    • 対立:b オーストリア・フランス・ロシア   対 c プロイセン・イギリス   
    • 連動:植民地でのフランスとイギリスの戦争が並行して起こる。(後出)
         北米大陸でd フレンチ=インディアン戦争   インドでe プラッシーの戦い  が起こる。
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 フリードリヒ2世  
 ヴォルテール   
  • 1763年  講和条約のフベルトゥスベルク条約締結。
     → プロイセンはf シュレジエン  を確保。列強としての地位を高める。
  • 植民地戦争ではg パリ条約  が締結される。
     → 植民地ではイギリスが勝利。植民地帝国(大英帝国)の出現。
啓蒙専制主義  
  •  フリードリヒ2世(大王)  はb 「君主は国家第一の僕」  と称す。
  • フランスの啓蒙思想家c ヴォルテール  を招く。(右図)
  •  啓蒙専制君主  として、上からの改革を進める。
     = 信教の自由の承認、産業の育成、司法改革など国民の福祉向上を掲げる。
    • 基盤:e グーツヘルシャフト  で農民を使役するf ユンカー  階層。
       → 彼らが軍隊・官僚機構の支配的地位を占める体制であった。

解説

啓蒙専制君主とは、君主の権力を王権神授説に置くのではなく、法に基づく普遍的なものと捉え、国家の繁栄に責任を持つと考えることで、絶対王政の一つの変形である。フリードリヒ2世は宗教的寛容を表明し、産業の育成などを図るとともに、先進的な文化を採り入れる一方、国家の威信を前面に押しだして対外戦争を強行した。特にオーストリア継承戦争、七年戦争を勝利に導いたことによって「大王」と称賛されたが、国民に権利を与えたり、政治参加の自由を与えるものではなく、その支持基盤は封建的な地主層であるユンカーたちであった。
  • ポツダムにg サンスーシ宮殿  を造営。自らも作曲し、フルートを演奏。
  • 特徴:h 市民層の成長が十分でないため、君主が「上からの改革」を主導した。   
・国内のユンカー階級を基盤とした、軍事大国として、19世紀に強大化する。

2.オーストリア

■ポイント オーストリア=ハプスブルク帝国の大国化の過程と、多民族国家としての実態を知る。

Text p.230

オーストリア   の大国化
  • 1699年 a カルロヴィッツ条約  でオスマン帝国からハンガリーなどの領土を獲得。(後出)
     → 領土拡大と共にハンガリー人、チェック人、クロアティア人などを含むb 複合民族国家  となる。
  • 神聖ローマ皇帝位は従来のc ハプスブルク家  の継承が続く。
    • 1713年 カール6世、プラグマティッシェ=ザンクティオンにより家督相続原則を定める。
    • 1714年 d スペイン継承戦争  に参戦し、南ネーデルラント(後のe ベルギー  )・
             ミラノ・南イタリアなどの領有が認められる。
       → ヨーロッパの東西に領土を有する大国となるが、同時に多民族国家として困難深まる。
マリア=テレジア   カール6世の娘。ハプスブルク家の家督を継承。
  • 1740年 バイエルン公が反対を表明。プロイセンのa フリードリヒ2世  が同調。
  •  オーストリア継承戦争  となる。 1740~48年
    • 1745年 A マリア=テレジア  の夫フランツ1世が神聖ローマ皇帝位につく。
    • 1748年 アーヘンの和約で講和。プロイセンのc シュレジエン  占領を認める。
外交革命  
  • 1756年 オーストリアa マリア=テレジア  がフランスのb ルイ15世  と同盟を結ぶ。
     → プロイセンを孤立させ、シュレジェンの奪回を図った。
  • 意義 c ヨーロッパ国際関係の基軸であった、ハプスブルク家とフランス王家の対立が解消された。   
     → オーストリアはロシアとも接近し、プロイセンの孤立をはかる。

解説

外交革命とは、18世紀ヨーロッパの国際関係におけるフランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家という基本的な対立軸が崩れ、この二国(二家)が提携したことを指している。これによって、植民地でフランスと対立を続けていたイギリスと、オーストリアとドイツの主導権を巡って争っていたプロイセンとが提携するに至り、ヨーロッパはフランス=オーストリア対イギリス=プロイセンというブロック対立へと移行した。
  • 新たな対立軸 海外植民地におけるd フランス 対 イギリス  
           ドイツ語圏におけるe  プロイセン 対 オーストリア   (ドイツ統一の課題が残る)
  • 1756年 f 七年戦争   フランス・ロシアと結び、プロイセン・イギリスと戦う。
     → 1763年  フベルトゥスベルク条約 で講和。g シュレジエン  を失うが、帝位継承は承認される。
  • ▲フランスとの友好関係を続け、娘のh マリ=アントワネット  を後のルイ16世の后とする。
ヨーゼフ2世   1765~90 マリア=テレジアの子。母の政策を継承しプロイセンに対抗。
  • 啓蒙専制君主としてa 啓蒙専制主義  政策を実施。
     = b 宗教寛容令  、c 農奴解放令  、教育・医療の充実など、上からの近代化をはかる。
     → 中央集権を図ろうとしたが、貴族層や地域社会の抵抗で失敗。
  •  複合民族国家  の状況が続く。
     領土内にe チェック人  (ベーメン王国)、f マジャール人  (ハンガリー王国)、北イタリア地方、
     さらにベルギーなどが存在した。
・皇帝の画一的改革に対する反発が起こり、各民族の自治要求が強まる。
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用語リストへカ.北方戦争とロシア

■ポイント ロシアはどのように近代化を進めたか。また、その大国化はどのように行われたか。

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貴族の髭を切るA ピョートル1世  

ピョートル1世(大帝)    在位1682~1725 ロマノフ朝 全盛期となる。
  • 自ら西欧諸国を視察し、a 西欧化政策  を押し進め、領土拡張をめざした。
  • 東方への領土拡張  シベリア経営を推進 → 清王朝との国境紛争起こる。
    • 1689年 b ネルチンスク条約   清(c 康煕帝  )と国境を定める。
    • デンマーク人▲d ベーリング  にカムチャツカ探検を命じる。
    • 1728年 アメリカ大陸との間の海峡に到達。1741年  アラスカを領有。
  • 南方:広義のe ロシア=トルコ戦争   オスマン帝国を圧迫しアゾフ海に進出。

Text p.231

北方戦争   1700~21年
  • 当時、a スェーデン  がb バルト海  を支配。c カール12世  が統治。
    • 要因:ロシアのd ピョートル大帝  がb バルト海  進出をめざした。
    • 対立:e ロシア・ポーランド・デンマーク    対 a スウェーデン  
  • 1703年 f ペテルブルク  (後にレニングラードに改称、現在旧称に戻る)建設。
     → 1712年より 首都とされる。ロシアの西欧化の窓口として繁栄する。
  • 1721年  ニスタットの和約で講和。
     → ロシアがg バルト海の覇者  となり、ヨーロッパの大国としての地歩を固める。

解説

ペテルブルクの正式名称は「サンクト=ペテルブルク」で、ピョートル1世の守護聖人ペテロに由来するドイツ語風の表記である。1712年からロシア帝国の首都となった。第一次世界大戦が起こるとドイツ語表記をきらい、ロシア語のペテログラードに改称した。ロシア革命で首都はモスクワに移り、さらに1924年にロシア革命の指導者レーニンの名を冠してレニングラードとなった。ソ連崩壊後の1991年に現在のサンクト=ペテルブルクに戻った。
エカチェリーナ2世   在位1762~96 ドイツ生まれで、ピョートル3世の妃となる。
  • 積極的な領土拡張を図る。
    • 西方:1772~95年 a ポーランド分割  に加わり、領土を拡大。(次項)
    • 南方:1783年 b クリミア半島  のクリム=ハン国 を征服。 オスマン帝国を圧迫。
    • 東方:シベリア進出を進め、オホーツク海に進出。1792年 c ラクスマン  を日本に派遣。幕府、交渉拒否。
  • 初期にはd 啓蒙専制君主  として上からの改革をはかる。ヴォルテール、ディドロとも交遊。
  • 1773~75年 e プガチョフの反乱  が起こる。コサックが南ロシアの貧農と結んで起こした反乱。
     → 反乱鎮圧後、国王は貴族と妥協し、f 農奴制を強化  するなど、改革は後退する。
・バルト海、黒海、カスピ海、北海、オホーツク海に及ぶ大国になるが、国内には農奴制など古い社会が残存。
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用語リストへキ.ポーランドの分割

■ポイント 啓蒙専制君主を戴くヨーロッパの三強国によって分割されたことの意味を考える。

ポーランド   の状況
  • 15世紀 リトアニア=ポーランド王国 a ヤゲウォ朝  のもとで全盛となるが、特権的貴族層が実権握る。
  • 16世紀後半 a ヤゲウォ朝  が断絶、b 選挙王制  となる。
     → 隣接するa プロイセン・オーストリア・ロシア  の介入を招く。

解説

分割前のポーランド王国は、現在のポーランドに加え、その東方のラトビア・リトアニア・ベラルーシ・ウクライナのそれぞれ一部を含む広大な国土を有していた。しかし、ヤゲウォ朝が断絶した後、特権的な貴族(シュラフタと言われる)による選挙王制となり、国王選挙に外国の干渉を招くこととなった。選挙王制と言っても国民が選ぶのではなく貴族が選挙権を持ち、しかも国外からも国王が選出されることがあったことに注意すること。
  • 18世紀後半 三国による、三次にわたるd ポーランド分割  
    よって、主権国家としてのポーランドは消滅した。その経過は次の通り。
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左からf エカチェリーナ2世   ポーランド王
 ヨーゼフ2世   b フリードリヒ2世  

第1回分割   1772年
  • プロイセン王が提案し、それぞれ領土を奪う。(右図)
    •  プロイセン王国   = b フリードリヒ2世   
    •  オーストリア帝国   = d ヨーゼフ2世   
    •  ロシア帝国     = f エカチェリーナ2世   
  • ポーランドでは、国家を維持するために、憲法制定など近代化を試みる。
     → 貴族間の対立などにより、改革は不十分に終わる。
第2回分割   1793年
  •  フランス革命  が起こり、西欧諸国の関心がポーランドから離れる。
     → その間に、ロシア・プロイセン両国が分割を強行。
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 コシューシコ  
  •  コシューシコ  ら義勇兵を率いて戦うも、ロシア軍に敗れる。
第3回分割   1795年
  • プロイセン・オーストリア・ロシア三国がポーランドの残りの国土の分割。
     → ポーランド国家消滅する。
・ポーランドは、以後1世紀以上にわたり、外国支配のもとにおかれる。
 完全な独立の回復は123年後の第一次世界大戦後となる。

・ポーランド分割の経過図
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第9章 近世ヨーロッパ世界の展開 1節 重商主義と啓蒙専制主義

2017-08-13 | 生物暗記法

第9章 近世ヨーロッパ世界の展開

1節 重商主義と啓蒙専制主義

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Text p.223

ア.重商主義政策

■ポイント 西ヨーロッパに生まれた主権国家は、どのような経済政策をとったか理解しよう。

1. 重商主義政策   「17世紀の危機」をへて成立したb 主権国家  が採用した経済政策。
  • その意味:c 国家(王権)が経済に介入し、国を富ませるための経済政策。   
  • ▲国富の使途:d 官僚制  とe 常備軍  の維持、及び宮廷の運営、戦費に充てられた。
2.その諸形態 時期や国によって具体的な内容が異なっている。
    •  重金主義  :16世紀のb スペイン  にみられ、主に金銀の獲得をめざす政策。
    •  貿易差額主義  :輸入を抑制、輸出を促進して、国際収支をよくすることを目指す政策。
       → 16世紀後半から17世紀のd イギリス  、e オランダ  などに見られる。

Text p.224

  • ▲f 産業保護主義  :17世紀後半、国内産業を保護育成するため、輸出を促進し、輸入を制限する貿易政策。

解説

重商主義には、絶対王政のもとで宮廷(国王)が特権的な大商人を保護する宮廷的重商主義と、市民階級の進出に対応して自国の産業資本の保護育成を国家政策とする国民的重商主義の違いも見られる。前者は16世紀のスペインと17世紀のフランス、後者は18世紀のイギリスに典型的にみられる。
3.その典型的な例
    •  フランス   b ルイ14世  時代 :財務総監c コルベール  の経済政策に典型的に見られる。
       d 東インド会社  再建・e 特権マニュファクチュア  の創設などによる国内の商工業の育成。

解説

コルベールの重商主義政策は、具体的には従来の毛織物・絹織物・絨毯・ゴブラン織などの産業に加えて、兵器・ガラス・レース・陶器などの産業を起こし、国立工場を設立し、特権的なマニュファクチュアを育成したこと、北アメリカにはミシシッピ川流域に広大なルイジアナ植民地を開発した(ミシシッピ川は一時コルベール川といわれた)こと、インド経営のためにフランス東インド会社を再建したことなどがあげられる。しかし、それによって得られた国富は、ルイ14世の度重なる対外戦争や、ヴェルサイユ宮殿造営などで浪費されていった。
    •  イギリス   ピューリタン革命、名誉革命を経て商工業者の発言力強まる。(次項)
       → 国内産業の保護政策を国家に強く求める。

解説

イギリスの重商主義は長期にわたっており、また時期によってその性格が異なる。16世紀後半のエリザベス1世の時期は貿易差額主義が中心で宮廷によって展開された。17世紀には特権商人の利益独占に反発したジェントリ層がイギリス革命を行ったと言えるが、ピューリタン革命でのクロムウェルの航海法は、産業保護主義の性格が強い重商主義政策であり、それは基本的には18世紀のウォルポールの議会政治の時代に継承される。英蘭戦争はその現れであった。しかし、18世紀に並行して産業革命が始まると、成長したブルジョワジーは自由貿易主義を主張するようになり、穀物法や航海法が廃止されて重商主義の時代は終わる、と言う経過をたどる。
  • 重商主義政策をとるイギリス・フランスなど有力国は海外にg 植民地  の獲得をめざす。
     → そこからもたらされた富により、18世紀のヨーロッパは再び成長期となる。
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用語リストへイ.イギリス革命

■ポイント イギリス革命は、なぜ、どのように起こったか。また何をもたらし、その限界は何であったか。

スチュアート朝  の成立。
  • 1603年 テューダー朝が断絶。a スコットランド  王を迎えb ジェームズ1世  とする。
     → イングランドとスコットランドの 同君連合 。(国王は同一だが議会はそれぞれ存在した。)
  • 17世紀のイギリス社会
    •  ジェントリ(郷紳)  :土着した貴族として名望のある大地主。地方行政や議会で発言権を強めていた。
    • 都市部では商工業の発達に伴い、市民層が成長し自由な経済活動を要求する。
    • 農村では旧来の領主層は力を失い、d 独立自営農民(ヨーマン)  が成長。
       → 富農の一部は毛織物e マニュファクチュア  を経営。資本を蓄積していく。
絶対王政   の展開
  •  ジェームズ1世  (1603~25):b 王権神授説  をとなえ、専制政治を展開。
     =c 王権は神から授かったものであり人民に拘束されないという思想。   
    •  議会  を無視して新税をとりたて、王権を支える少数の大商人に独占権を与える。
    •  国教会  による宗教統制の強化。 → カルヴァン派=f ピューリタン  の不満強まる。
       = 議会を支持するg ジェントリ・ヨーマン・商工業者  に信者が多かった。
    • 1620年 弾圧を避けたf ピューリタン  が北アメリカへの移住を始める。(後述)
  •  チャールズ1世  (1625~49):対外戦争の戦費を得るために課税を強行、議会を無視。
    • ▲i  フィルマー  (王に仕えた政治思想家)の説くb 王権神授説  を根拠にする。
    • 1628年 議会がj 権利の請願  を可決。中心人物 エドワード=コーク。その内容は、
       ・k 議会の承認なしに課税しないこと  ・l 国民を法律によらず逮捕しないこと   など。 
       = マグナカルタ以来の国民の歴史的な権利を掲げ、国王の専制政治を批判した。
    • 1629年、国王はそれを無視し、議会を解散。
       → 1640年まで議会開催されず、国王の専制政治が続く。
C 王権と議会の対立激化
    • 1639年 a スコットランド  の反乱 国王の国教会強制に対して新教徒が反発し反乱を起こす。
    • 1640年 国王が戦費調達のため議会を召集したが、課税に反対したのですぐ解散=b 短期議会  
       → 再度議会を召集。議会が国王を非難し対立深まる。1653年まで解散されずc 長期議会  となる。
    • ▲1641年 議会、国王の国教会強要に対し 大抗議文 を出し、その宗教政策を批判。
       背景  宗教各派の対立 d 国王は国教会を強制し、カトリック・ピューリタン・長老派を弾圧した。   

解説

エリザベス1世の時に国教会の体制は確立したがカトリックの勢力もまだ強かった。国教会はローマ教皇の権威を否定しているので広く言えばプロテスタントであるが、その教義や儀式にはカトリック的な要素を強く残しており、国王を頂点とする主教制度を採っていた。それに対して厳格な聖書中心の信仰に徹するべきであるとするピューリタンは国教会に反発し、主教制度を否定した。しかし、ピューリタンの中にも主教制度を完全に否定して教会の独立を主張する独立派と、長老という指導者による教会組織が必要と考える長老派の違いがあった。前者はイングランドに多く、狭い意味でピューリタンと言われることもある。後者はスコットランドに多くプレスビテリアンと言われる。国教会信徒以外のプロテスタントをまとめて「非国教徒」ともいう。
ピューリタン革命   1642年 a 王党派  とb 議会派  の内乱始まる。
    •  王党派  =聖職者・特権的大商人・貴族・大地主などの国教会信徒。北西部に多い。拠点はヨーク。
    •  議会派  =ピューリタンを中心とした勢力。東南部に多く、拠点はロンドン。次第に二派に分裂。
      •  独立派  :国王との戦いの徹底、教会の独立を主張。ジェントリ・独立自営農民・新興商人に多い。
      •  長老派  :王権に妥協的で立憲王政と長老による教会運営を主張。大商人・保守的ジェントリに多い。

Text p.225

    •  オリヴァ=クロムウェル   c 独立派  を指導。
クロムウェル

 クロムウェル   

    •  ジェントリ出身で熱心なピューリタン  。g 鉄騎隊  を組織。
       = ジェントリ・ヨーマンを中心とし、ピューリタン信仰によって結束した軍隊。
    • さらに、▲h 新型軍  (New Model Army)を編成。
  • 1645年 ▲i ネースビーの戦い   新型軍が活躍して、王党派軍を破る。
  • 議会からd 長老派  を追放。独裁的な権力をにぎりる。
  • 1647年 国王j チャールズ1世  を捕らえる。
共和政   の実現
  • 1649年 国王a チャールズ1世  を処刑。
     = b 共和政   =▲c コモンウェルス  といわれる。議会は一院制となる。
  • 1660年までの約10年、イギリスの歴史上、唯一の王のいない時期となった。
クロムウェル   の政治(1649~58年)
  • 中産階級を保護(王党派の土地を没収し地主に与える)、貧農や労働者の要求は抑圧。
     → 土地の均分、普通選挙を要求するa 水平派  を厳しく弾圧。
  • 1649年 b アイルランド  とc スコットランド  を王党派の拠点であるとして征服した。
     特にb アイルランド  では、大規模な土地の没収を強行し、植民地化を進めた。
     →b アイルランド  問題
イギリス=オランダ(英蘭)戦争   17世紀後半 3次にわたる海上貿易の利害をめぐる両国の戦争。
  • 1651年 a 航海法  制定(~1849年) = b 重商主義政策  の推進
     内容:c 本国および植民地の輸入品は、イギリスか産出国の船のみで輸送すること。   
     → 中継貿易に依存するd オランダ  に打撃を与える。
  • 1652年~54年(第1次) イギリス海軍がオランダ海軍を破り、制海権を獲得。
  • ▲1655年 カリブ海のスペイン領e ジャマイカ  を占領し、殖民地とする。
  • クロムウェル死後の王政復古期も戦争続く。
    • 1664年 イギリスがオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し、f ニューヨーク  と改称。
    • 1665~67 年(第2次) 1672~74年(第3次) オランダ領のほとんどがイギリスに奪われる。
  • 結果:g イギリスの優勢のうちに終わり、その大西洋上の海上覇権が確立することとなった。  
イギリス革命   の意義
※1688年のa 名誉革命  まで含め、あわせてH イギリス革命  という。
  • 絶対王政を終わらせ、議会による立法を基にしたb 議会政治の確立  をもたらした。
  • 特権商人の独占権を廃止するなど、市民層の要求を実現しc 資本主義経済の成立 の素地ができた。
  • その限界 d 市民の平等(参政権)・経済活動の自由などは実現しておらず、完全な市民革命とは言えない。 
     → 市民社会は、18世紀後半のアメリカ独立革命、フランス革命をへて実現する。
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用語リストへウ.イギリス議会政治の確立

■ポイント イギリスの議会政治と政党政治はどのようにしてうみだされたか。またその意義は何か。

クロムウェルの独裁  
  • 1653年 a 護国卿  に就任、長期議会を解散させる。軍事的独裁体制をしき、国民の不満強まる。
  • 1658年 死去、その子リチャードが嗣ぐが、8ヶ月で辞職。
王政復古  
  • 1660年 a チャールズ2世  が即位。(先王の子。スチュアート朝の復活。在位~85年。)
     ← 議会派の中の長老派が王党派と妥協し、議会の尊重を条件に王政復古を認める。
  • 国王、再びb カトリック  を擁護し、ピューリタン弾圧を強化したので、議会が反発する。
  • 議会による王権制限のための立法
    • 1673年 c 審査法  :官吏を国教会信者に限定し非国教徒が公職に就くことを禁止。
    • 1679年 d 人身保護法  :法によらぬ逮捕・裁判を禁止し市民的自由を保障。

Text p.226

政党の成立   1670年代末 議会内に二つの派が生まれる。
ウィリアム3世とメアリ2世

 ウィリアム3世  とf メアリ2世   

  •  トーリ党  :国王の権威を重んじ、王権と国教会を支持。
     =貴族・ジェントリーを中心にb 国教徒と地主階級  が多い。
  •  ホイッグ党  :議会の権利を重んじ、王権の制限を主張。
     =貴族・ジェントリーと共にd 非国教徒と商工業者  が多い。
名誉革命  
    • 1685年 a ジェームズ2世  即位。カトリックの復活を図る。
    • 1688年 議会のトーリ、ホイッグ両党が共同し、国王追放を議決。
       オランダ総督オラニエ公ウィレム3世  を迎える。
       = 新教徒である国王の長女c メアリ  の夫でやはり新教徒。
    • 1689年 議会、d 権利の宣言    Declaration of Rights を決議。両国王が承認し、
       ウィリアム3世  ・f メアリ2世  として共同統治にあたることとなる。
    • 戦闘も流血もなく、権力の交替が行われたので、D 名誉革命  と言われる。

解説

オランダのウィレムは、当時、フランスのルイ14世の侵攻に苦しんでいたため、イギリスと同君連合となることで形勢を逆転させる好機ととらえた。ウィレムは海陸の大軍を率いてイギリスに上陸した。イギリス国内にも反国王の軍事的動きが強まったため、ジェームズは反撃をあきらめ、カトリック国フランスに亡命した。ウィレムは妻メアリと共にイギリス国王ウィリアム3世となったが、同時にオランダ総督(実質的国王)ウィレム3世なのであり、イギリスとオランダが同君連合になったことに注意すること。なお、後にウイリアムの死により、同君連合は解消された。
  • 同年12月 議会、権利の宣言を成文化し、g 権利の章典  制定。
     ※意義:h 国民の生命・財産の保護などと共に、議会主権を明文化して立憲君主政を確立させた。   
     → 現在もマグナカルタなどとならんでi イギリスの憲法の一部  を構成している。
  • ただし、j 選挙権  は貴族やジェントリなど資産を持つものに限られていた。(制限選挙制)
ウィリアム3世   の統治
  • 1689年 a 寛容法  の制定  国教徒以外のプロテスタントの信仰の自由認められる。
  • ▲1689年からフランスとのb 植民地抗争  (第2次英仏百年戦争)始まる。(後出)
  • 1694年 c イングランド銀行  の創設・d 国債制度  の整備により対外戦争遂行能力を高める。
大ブリテン王国(グレートブリテン)   の成立
  • 1707年 a アン女王  の時、b スコットランド  と合同して成立。

    解説

    イングランド王国とスコットランド王国が、それまでの二つの王国が共通の一人の王をいただく同君連合の体制から、共通の議会を持ち一人の国王をいただく連合王国という、より緊密な関係を結んだ。これはイングランド王国による実質的なスコットランド併合であり、スコットランドは、長老派教会主義や独自の法律、裁判制度などを保ったが、政治的、経済的にはイングランドに従属することとなった。
     → 従来の同君連合からc 連合王国  の形態となり、一つの議会に統合される。
  • 1713年 d スペイン継承戦争  で勝利し、e ユトレヒト条約  で海外領土を拡大。(次項)
  • 1714年 ステュアート朝が断絶、議会の立法によりドイツから迎えたf ジョージ1世  が即位。
     = g ハノーヴァー朝  成立。新国王は英語をほとんど話せず、政務を大臣に任せる 。
  •  内閣  の成立:議会の多数をしめる政党によって組織されるようになる。

Text p.227

責任内閣制   の成立 17世紀末~18世紀初め
  • 1721年 ホイッグ党のa ウォルポール  が首相(初代首相)となる。~42年 
     =b 内閣は国王ではなく、議会に対して責任を負う という制度。   
  •  ”国王は君臨すれども統治せず”   というイギリス立憲王政の原則が確立。
・政治制度、財政制度の整備が進んだ18世紀後半、イギリスは産業革命の時代を迎える。
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自由民権運動の展開

2017-08-13 | ベック式!日本史用語集

権利おあいこ 前進座。
 民撰議院設立の建白書 立志社結成 大阪会議・愛国社 漸次(ぜんじ)立憲政体樹立の詔・新聞紙条例・讒謗律

[point]

1.士族民権期の事件・法令等は、愛国公党が民撰議院設立の建白書提出→立志社結成→大阪会議愛国社結成→漸次立憲政体樹立の詔新聞紙条例讒謗律、と続いた。

[解説]
1.征韓論に破れて下野した板垣退助後藤象二郎副島種臣江藤新平の下野参議4人は由利公正らとはかって、1874(明治7)年1月、東京で愛国公党(日本最初の政党)を結成。民撰議院設立の建白書左院に提出した。このことをきっかけに、自由民権論は急速に高まった。愛国公党は、日本最初の政党で天賦人権論を唱え社会に衝撃を与えた。建白書は、民衆によって選出された議院の即時開設を非征韓派の大久保政府に要求。ここに社会の上層、士族中心の民権運動(士族民権)がはじまった。

2.愛国公党は自然消滅し、1874年4月、板垣は郷里の土佐に帰って片岡健吉らの同志を集めて立志社をおこした。この動きに呼応して、全国各地に同種の政社が結成された。


3.板垣らの呼びかけで、全国の政社の中央組織、愛国社大阪に結成(1875年2月)された。


4.大久保政府は、農民一揆、自由民権運動の高まりに危機感を抱いた。そこで1875(明治8)年2月11日、当時実業界にあった井上馨(かおる)の斡旋により、大久保利通と、台湾出兵に反対して下野していた木戸孝允、それに板垣退助の三者が大阪で会談がもたれた(大阪会議)。大久保は木戸の主張を入れて漸進的な国会開設方針を決定した。この結果、木戸・板垣はいったん政府に参議として復帰すことになった。


5.政府側も、ようやく、大阪会議での妥協として1875(明治8)年4月に漸次立憲政体樹立の詔を出すとともに、立法諮問機関である元老院、最高裁判所にあたる大審院、府知事・県令からなる地方官会議を設置した。元老院では翌1876(明治9)年から憲法草案の起草がはじめられた。これは政府による反政府運動への懐柔策(アメの政策)だが、立憲政体への方向が打ち出されたことは画期的。


6.一方、民権運動家たちが新聞や雑誌で活発に政府を攻撃するのに対し、政府は1875年6月、讒謗律新聞紙条例などを制定して、これをきびしく弾圧した。(いやなご愛顧斬新じゃ。)(1875新聞紙条例・讒謗律)

7.木戸らの期待に反し大久保の独裁は止(や)まず、1875年10月板垣が、翌年3月木戸が参議を辞任。一方自由民権運動は士族反乱の高まりに押され、西南戦争(1877/(まさかの敗戦に)そんなバナナ/と西郷さん)の勝敗がどちらに傾くかを見守ることになり一時停滞していく。

2017慶大・経済:「
 征韓派旧参議らが民選議院設立の建白書を左院に提出したことを契機に、A.自由民権運動が展開された。新政府の下で安定的地位をえられない士族たちが運動を支えていたが、都市の商工業者に、さらには地方の豪農層等にも運動は広がっていった。

問2 下線部A自由民権運動が展開されたに関連して、次のa~cの時期を、下の年表の空欄1~6から選びなさい。.


a.讒謗律・新聞紙条例が制定される

b.内閣制度が発足する
c.立憲改進党が結成される
 
  [  1  ]

愛国社が大阪に設立される
   [  2  ]
国会期成同盟が結成される
   [  3  ]
自由党が結成される
   [  4  ]
秩父事件が起こる
   [  5  ]
三大事件建白運動が起こる
   [  6  ]

(答:a2、b5、c4)〉


2016同志社大・全学部

 以上のように近代化政策が強力に推し進められる一方で、士族を中心として政府の専制的な姿勢への批判も高まりつつあった。その動きはケ武力による反抗という形だけではなく、国会開設の要求としても現れた。1874年、板垣退助・コ後藤象二郎らが民撰議院設立の建白書を( 1 )に提出すると。それは世論に大きな影響を与え、自由民権運動が各地に広まる契機となった。こうした動きを受けて政府側からも1875年には漸次立憲政体樹立の詔が出され、立法上の諮問機関である元老院と地方官会議、最高の司法機関としての( サ )が設けられることとなった。しかし同年には自由民権運動をとりしまるための讒謗律と( シ )が公布され、言論活動には大きな制限が加えられたのである。

【設問ケ】新政府に不満を持った士族が起こした以下の反乱のうち、蜂起した年が最も早いものはどれか。1つ選べ。


 1.佐賀の乱 2.神風連の乱

 3.秋月の乱 4.萩の乱

【設問コ】後藤象二郎の出身藩の名を次のうちから1つ選べ。


 1.薩摩藩 2.長州藩

 3.土佐藩 4.肥前藩

[設問1]空欄1には、1871年に三院の1つとして設置された機関で、1875年に元老院が設けられるまで立法上の諮間機関として機能したものが入る。あてはまる語句を漢字で記せ。


【設問サ】空欄サに入る語句を次のうちから1つ選べ。


 1.集議院 2.枢密院

 3.貴族院 4.大審院

【設問シ】空欄シに入る語句を次のうちから1つ選べ。


 1.治安維持法 2.治罪法

 3.集会条例  4.新聞紙条例

(答:設問ケ.1 ※1874年、設問コ3、設問1左院、設問サ4、設問シ4)〉


2013中大・法

 1874年、[ 1 ]専制を批判した1民撰議院設立建白書が提出されると、大きな反響をよんだ。民権運動が活発化すると、大阪会議がひらかれ、[ 2 ]ならびに[ 3 ]の復職と立憲政体をめざすことが決まった。これを受けて、2漸次立憲政体樹立の詔が出された。他方で、政府は讒謗律・新聞紙条例等を制定して言論統制を強めた結果、民権運動は一時衰退した。

問1 文中の空欄[1~3]に入るもっとも適切な語・人名を漢字で答えなさい。


問2 下線部1民撰議院設立建白書に関連する説明文について正誤を判断しなさい。

 
a 民撰議院設立建白書の主張は、「上流の民権」論とよばれた。

 b 民撰議院設立建白書は、行政上の諮問機関である右院に提出された。
 c 民撰議院設立連白書の提出が、自由民権運動の始まりとされている。

問3 下線部2漸次立憲政体樹立の詔に関連する説明文について正誤を判断しなさい。


 a この詔に基づき1890年に国会を開設することになった。

 b この詔に基づき、大審院・元老院・地方官会議が設置された。
 c 大阪会議を主宰したのは、内閣総理大臣大久保利通だった。」

(答:問1→1有司、2&3板垣退助、木戸孝允、問2a〇、b×※右院→左院、c〇、問3a×※漠然と立憲政体への移行方針を示したもので、まして国会の開設などの時期は明示されてない、b〇、c×※内閣制度が始まるのは1885年、大久保は1878年に暗殺されている)

立件規制集住し。

立志白)(国会成同)(会条例)(明治十四年の政変)



[point]

1.豪農民権期の事件・法令等は、立志社建白国会期成同盟結成→集会条例明治十四年の政変、と続いた。

[解説]

1.士族反乱の失敗後、立志社建白がでて、再び運動が国民的な運動が社会の上層(士族)のみならず中層(豪農層)まで(豪農民権)に発展。これが国会期成同盟結成にいたる。

2.立志社建白(1877.6)は、片岡健吉らが天皇宛てた建白(却下される)。国会開設条約改正に加え、農民の願いである地租軽減を要求。政府の富国強兵策を鋭く批判し国民の切実な不満を明示。民権運動が国民的な運動(豪農民権)に発展する契機となる。


3.国会期成同盟結成(大阪)(1880.3)。愛国社第3回大会で国会開設をめざして全国各地の政社を結集するために、愛国社を新組織に改組した。


4.伊藤博文中心の藩閥政府は、集会条例(1880.4)を出し、集会・結社の自由を制限して民権運動を抑圧。(集会に/やはり臨席警官が)(集会条例/1880


5.国会期成同盟第2回大会(東京)(1880.11)は、各代表が全国累計約13万5千人の国会開設要求署名を持参し集まる。次回までに憲法見込案(私擬憲法)を各社が持参することを決める。


6.明治十四年の政変がおこる(1884.10)。発端は(1)開拓使長官黒田清隆が1490万円投下の官有物を同じ薩摩出身の政商五代友厚に38万円無利息30年賦で払い下げようとし(開拓使官有物払下事件)、世論の批判を浴びたこと。(2)政府のこの危機に、伊藤博文の政府主流派は以下を断行。(ⅰ)開拓使官有物払下を中止。(ⅱ)国会即時開設を画策する参議大蔵卿大隈重信一派を政府から排除。(ⅲ)国会開設の勅諭を出し、国会開設を公約。ただし開設の明治23年は10年後なので、この間これ以上騒ぐと公約は守らないという脅しでもあった。


7.立志社の国会開設建白が再び運動に火をつけ、国会期成同盟結成で民権運動が国民的な運動(豪農民権)に発展する。これに対し伊藤政府は、集会条例で弾圧をはかる一方、明治十四年の政変で政府権力の再構築をおこなった。

 

2017関西大・全学部

(D)1877年に、立志社社長【ア片岡健吉 イ板垣退助 ウ後藤象二郎】が中心となって、政府の失政8ヵ条をあげ、国会開設・地租軽減・条約改正を要求した意見書、すなわち立志社建白を天皇に提出しようとしたが、政府に却下された。」

(答:ア)〉


2017同志社大・全学部

【設問e】下線部eに関して、1880年に起こった出来事として適切なものはどれか、次のうちから1つ選び、その番号を解答欄Ⅲ-Bに記入せよ。

 1.第1回帝国議会が開かれた。

 2.愛国社が国会期成同盟に改称された。
 3.西南戦争が終結した。  
 4.讒謗律が公布された。」

(答:2)〉


2016早大・教育

 明治維新の終期については諸説があるが、その第1は、廃藩置県が実施された1871年。第2は、学制・徴兵制・地租改正などの主要政策が実施され、[ 2 ]をめぐって政府が真っ二つに分裂した1873年。第3は、最後の士族反乱が鎮圧され内乱の時代が終わった1877年。第4は、軍隊と警察を動員して沖縄県設置が強行された1879年。第5は、明治14年の政変が起こった1881年である。明治14年の政変において[ 3 ]らは、大隈重信を政府から追放し、開拓使官有物払下げを中止するとともに、国会開設の勅諭を出して1890年の国会開設を公約した。こうした対処が明治憲法体制形成に向けての出発点となり、以後、国会開設に備えて憲法起草に取り組むことと並行して、d支配体制を固めるための諸施策が実行されたのである。

問2 空欄[ 2 ]に該当する歴史用語を漢字三字で記せ。


問3 空欄[ 3 ]に該当する人物2人を選べ。         


 ア板垣退助 イ伊藤博文 ウ井上毅

 エ尾崎行雄 オ木戸孝允

問7 下線部dの諸施策のうち、明治14年政変後から大日本帝国憲法発布までの間に実施されたものをすべて選べ。

 
 ア 天皇直属の参謀本部が設けられ、政府から独立して軍令を管掌することになった。

 イ 広大な山林や有価証券などが皇室財産に編入され、天皇家は日本最大の財産所有者となった。
 ウ 中学校以上の男子校で軍事教練が開始された。
 エ 華族令が制定され、旧大名・公卿のほかに、士族の勲功者が新たに華族に加えられた。
 オ 小学校教科書は、文部省が著作権を有するものに限ることとした。」

(答:2征韓論、問3イ、ウ、問7イ、エ)〉


2016明大・政経:「

問1 史料Aは大日本帝国憲法の上諭であり、天皇が自らの約束を実行して憲法を制定したと説明している。その約束である下線部(ア)明治十四年十月十二日ノ詔命は何を指すか。適切な語句を解答欄に書きなさい。」

(答:国会開設の勅諭)


2013中大・中大・法(国際企業関係法):「

 下線部3立志社建白書を提出したのをきっかけに民権運動は再びもりあがりをみせ、1878年には愛国社も再興されたに関連する説明文について正誤を判断せよ。

 a 片岡健吉らは、立志社設立後、大阪で愛国社を設立した。

 b 愛国社は、国会期成同盟に改称された。
 c 立志社建白書は、自由民権運動の三大要求、すなわち国会開設、地租軽減、条約改正を含んでいた。

(答:a〇、b〇、c〇)

義父福タグか 次回父。

(岐阜事件(難(そうなん))(福事件・田事件)(群事件・加波山(かばさん)事件)(自党・父(ちちぶ)事件)



[point]

1.激化諸事件前半は、板垣遭難福島事件高田事件群馬事件加波山事件自由党解党秩父事件と推移。

[解説]

1.板垣退助遭難(1882(明治15).4)。党勢拡大で全国を遊説中、岐阜で遭難負傷した(岐阜事件)。

2.福島事件(1882.11)。県令三島通庸(みしまみちつね)は県民に強制労働による三方道路(さんぽうどうろ)の建設を課し、さらに反対する県会議長河野広中(こうのひろなか)ら同県自由党員を挑発して弾圧した。


3.高田事件(1883(明治12).3)。


4.群馬事件(1884(明治13).5)。


5.加波山事件(1884.9)。


6.自由党解党(1884.10)。松方デフレ下で激化事件が頻発、これに恐れをなした自由党中央は、加波山事件の翌月に解党。


7.秩父事件(1884.10)。埼玉県秩父地方で、松方デフレで没落した農民が武装蜂起した。困民党を称する約3000の農民が急増する負債の減免を求めて立ち上がり、多数の民衆を加えて高利貸・警察・郡役所などを襲撃したのに対し、政府はその鎮圧に軍隊まで派遣した。

 

 〈2016慶大・経済

問7 下線部Fに関して、下の年表は自由民権運動に関する事項を年代の古いものから順に並べたものである。次のa~cの出来事が起きた時期を、下の年表中の空欄1~8の中からそれぞれ選びなさい。(重複使用不可)

 a.国会開設の勅諭が出される

 b.漸次立憲政体樹立の詔が出される
 c.保安条例が公布される

 

  [  1  ]
板垣退助らが左院に民撰議院設立建白書を提出する
  [  2  ]
愛国社の再興大会が大阪で開催ぎれる
  [  3  ]
国会期成同盟が結成される
  [  4  ]
立憲改進党が結成される
  [  5  ]
福島事件で河野広中が逮捕される
  [  6  ]
加波山事件が起きる
  [  7  ]
三大事件建白運動が起きる
  [  8  ]

(答:問7a4、b2、c8※1887年 一派離さんなお保安。)〉

 

 〈2014明大・情報コミュ:「
 下線部カ自由民権運動に関する説明として、もっとも正しいものを次の1~4のうちから1つ選べ。

 1 江藤新平らは有司専制を批判する建白書を政府正院に提出し、反政府運動を開始した。

 2 西南戦争が勃発すると、これに関連して、土佐では板垣退助を中心に立志社が設立された。
 3 松方デフレの中、激化事件を起こした自由党は秩父事件を契機に解党してしまった。
 4 国会開設時期が近づくと、民権派は運動の立て直しをはかり、後藤象二郎を中心に大同団結運動を起こした。」

(答:4 ※1×左院に提出、2×立志社は1874年結成で、1877年の立志社建白との混同をねらった問題、3×解党は秩父事件の前)〉


2013慶大・法:「

 松方財政が引きおこしたデフレは、生活が窮乏した農民らと手を結んだ自由党員らによる激化事件を頻発させたが、政府はこれに対して徹底的な弾圧を行う。自由党は[ 39 ]の翌月に解党し、また立憲改進党も大隈らの離党によって、事実上の解党状態に陥る。政府系の政党であった立憲帝政党も政府からの保護が得られなくなったため、1883年には解党する。」

(答:加波山事件 ※原問には選択肢80あり)


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