例題
中世における戦乱と復興について述べた【A】・【B】の文章を読み、あとの問いに答えなさい。
【A】 治承・寿永の乱の最中、平氏によって焼打ちされた東大寺とその大仏の復興の中心となったのは( ア )という僧侶であり、各地をまわって人々から寄付を集めて、東大寺再建にあたった。後白河法皇と源頼朝が協力し、復興事業には(a)多くの御家人が動員された。(b)平氏が滅亡した1185年には大仏の開眼供養、1195年には大仏殿の落慶供養がおこなわれ、後者には(c)後鳥羽天皇と源頼朝夫妻が臨席するなど、戦乱の終結と復興を象徴する大イベントになった。このときの東大寺再建には(d)宋風の建築様式が取り入れられており、美術史・建築史上の意義も大きなものであったが、戦国時代にその多くが焼失し、現在では南大門などごく一部が残っているにすぎない。
問1 空欄( ア )にあてはまる人名として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
- 栄西
- 陳和卿
- 重源
- 叡尊
問2 下線部(a)に関連して、鎌倉時代の御家人について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
- 謀叛人・殺害人の逮捕、京都大番役の催促を職務とする地頭に任じられた。
- 将軍への奉公として戦時には軍役を、平時には京都大番役などを勤めた。
- 先祖伝来の所領の支配を幕府から安堵された。
- 平家没官領など新たな所領を将軍から恩賞として与えられた。
問3 下線部(b)に関連して、平氏が滅亡した地点を含む国名として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
- 摂津
- 安芸
- 長門
- 讃岐
問4 下線部(c)の人物について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
- 九条兼実が失脚したのち、院政をしいた。
- 藤原定家らに命じて『新古今和歌集』を編纂させた。
- 『金槐和歌集』の作者である源実朝と親しく交流を結んだ。
- 院の武力増強を目的として北面の武士を新たに設置した。
問5 下線部(d)に関連して、このとき再建された東大寺南大門などに取り入れられた宋風の建築様式の呼称として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
- 禅宗様
- 大仏様
- 折衷様
- 今様
【B】 中世という時代には、非業の死を遂げた人間の霊魂は怨霊となり、世の中に災いをなすと考えられていた。このため敵方の人物の怨霊を鎮めることが重視され、鎮魂を通じて平和が願われた。そのもっとも有名な例として、(e)南北朝の動乱の最中、( イ )の勧めによって足利尊氏・直義兄弟がおこなった二つの事業があげられる。第一の事業は、(f)後醍醐天皇の菩提を弔うために( ウ )を建立することであった。その建立資金調達のために中国に貿易船が派遣されることになった。第二の事業は、全国66国2島にそれぞれ一寺一塔ずつ安国寺と利生塔を建立すると定めたことである。これは、後醍醐天皇をはじめとする( エ )以来の戦死者を供養し、国土安穏を祈願することを目的としていた。
問6 下線部(e)に関連して、この時代の文化について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
- 北畠親房は『神皇正統記』を著し、北朝の立場から皇位継承の道理を説いた。
- 武家の立場から足利氏の政権獲得の過程を叙述した『梅松論』が著された。
- 集団で楽しむ文化が発達し、茶寄合が各地で催された。
- 新興武士たちの、派手で新しいものを好む気質は「バサラ」の名で呼ばれた。
問7 空欄( イ )にあてはまる人名を、漢字4字で記せ。
問8 下線部(f)に関連して、この天皇の政治について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
- 土地所有権の確認は、天皇の指令書である綸旨を唯一の根拠とする方針がとられた。
- 建武式目17ヵ条を定めて、当面する政治の基本方針を明示した。
- 守護と国司を併置し、陸奥と鎌倉に親王を派遣して将軍府をおいた。
- 新田義貞のような鎌倉幕府の御家人以外に、楠木正成のような畿内の新興武士を登用した。
問9 空欄( ウ )にあてはまる寺院名として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
- 南禅寺
- 建長寺
- 天竜寺
- 相国寺
問10 空欄( エ )には鎌倉幕府が滅亡した年の年号がはいる。この年号として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.観応
2.元弘
3.正中
4.建武
鎌倉幕府滅亡は元弘3(1333)年。翌年、建武(④)に改元された。正中(③)年間には後醍醐天皇の最初の倒幕計画が発覚し(1324年、正中の変)、観応(①)年間には北朝側が分裂・衝突して激しい観応の擾乱が発生した(1350~52年)。