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明治14年の政変

2017-10-19 | 生物暗記法

□近現485-2◇A

1881(明治14)年 明治14年の政変

批判排除し国会を。

1881年 明治14年の政変伊藤博文国会開設の勅諭  五代友厚大隈重信罷免



[point]

1.1881明治14五代友厚への開拓使官有物払下げ事件が発覚し世論が激高、伊藤政府は、世論側に立つ大隈重信罷免するとともに、国会開設の勅諭をだし世論の鎮静化をはかった。

[解説]
1 藩閥政府は、最高実力者であった大久保利通内務卿が暗殺されてから強力な指導者を欠いていた。自由民権運動の高まりを前にした、1881(明治14)年に内紛がおこった。大隈重信(1838~1922)はイギリス流の議院内閣制の早期導入を主張し、右大臣岩倉具視伊藤博文(1841~1909)と激しく対立したのである。

2 たまたま同年、開拓使官有物払下げ事件が発生。これは北海道の開拓使所属の官有物を払い下げるにあたり、旧薩摩藩出身の開拓長官黒田清隆は、同藩出身の政商五代友厚らが関係する関西貿易社に不当に安い価格で払い下げようとして問題化した。これが新聞記事となり、世論が激高し、政府はピンチに陥った。

3 政府主流派の伊藤博文は、世論の動きは、大隈が内部情報を新聞にリークした結果と見て、政府内の反主流派の大隈および大隈派官僚を罷免し、払下げを中止した。

4.さらに欽定憲法制定の基本方針を決定し、国会開設の勅諭を出して、10年後の1890年に国会を開設すると公約し、世論を鎮めようとした。

5.この一連の明治十四年の政変によって、伊藤博文らを中心とする薩長藩閥の政権が確立し、君主権の強い立憲君主制の樹立に向けて準備がはじめられた。

2017立命館大・全学部

 1881年、参議大隈重信を罷免した政変とともに[ A ]の勅諭が下ると、来るべき[ A ]に備え、相次いで政党が組織された。」

(答:A国会開設)〉


2017同志社大・全学部

(2)明治新政府は北方の開発のため、1869年に蝦夷地を北海道と改称し、h)開拓使をおいた。北海道の開拓民の保護や士族授産などの目的のために1875年に配置した( i )は、平時は農業に従事しながらも戦時には軍隊として活勤することが求められた。開拓使の廃止を目前にした1881年には、j)開拓使の官有物を官吏や政商に払い下げようとしたが、世論の激しい批判を受け中止に追い込まれた。

【設問h】下線部hに関して、開拓使の初代長官に就任した人物名を次のうちから1つ選び、その番号を解答欄Ⅲ-Bに記入せよ。この人物は藩主時代に日本で最初にオランダから学んで反射炉を築造したことで知られており、隠居して閑叟と名乗った。


 1.島津久光 2.伊達宗城 3.鍋島直正 4.松平慶永


【設問i】空欄( i )に入る適切な語句を漢字で記せ。


【設問j】下線部jに示された出来事は開拓使官有物払下げ事件と言われている。払下げを求めたのは開拓使の官吏たちであったが、その背後には関西貿易社を営む( ア )がいて、この時の開拓長官であった( イ )とは同じ薩摩藩出身であったために、この払い下げは政府の高官と政商の藩閥的な結託とみなされ、厳しい批判を受けた。空欄の( ア )( イ )に入る適切な人物を次のうちからそれぞれ1つ選べ。


 1.黒田清隆 2.西郷従道

 3.松方正義 4.山本権兵衛
 5.五代友厚 6.寺島宗則」

(答:問h3、問i屯田兵、問jア五代友厚・イ黒田清隆)


2016早大・教育

 明治維新の終期については諸説があるが、その第1は、廃藩置県が実施された1871年。第2は、学制・徴兵制・地租改正などの主要政策が実施され、[ 2 ]をめぐって政府が真っ二つに分裂した1873年。第3は、最後の士族反乱が鎮圧され内乱の時代が終わった1877年。第4は、軍隊と警察を動員して沖縄県設置が強行された1879年。第5は、明治14年の政変が起こった1881年である。明治14年の政変において[ 3 ]らは、大隈重信を政府から追放し、開拓使官有物払下げを中止するとともに、国会開設の勅諭を出して1890年の国会開設を公約した。こうした対処が明治憲法体制形成に向けての出発点となり、以後、国会開設に備えて憲法起草に取り組むことと並行して、支配体制を固めるための諸施策が実行されたのである。

問2 空欄[ 2 ]に該当する歴史用語を漢字三字で記せ。


問3 空欄[ 3 ]に該当する人物2人を選べ。         


 ア板垣退助 イ伊藤博文 ウ井上毅

 エ尾崎行雄 オ木戸孝允」

(答:問2征韓論、問3イ・ウ)

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アジア諸国

2017-10-19 | 生物暗記法

第7章 アジア諸地域の繁栄

4節 ムガル帝国の興隆と東南アジア交易の発展

用語リストへ

Text p.197

ア.ムガル帝国の成立とインド=イスラーム文化の開花

■ポイント イスラーム王朝であるムガル帝国によるインド統治の特徴と、その変遷の大筋を抑える。

ムガル帝国  の成立。ティムールの子孫a バーブル  (母方がモンゴル系)が自立。

解説

 バーブル(1483~1530)自身はティムール5代の後裔でトルコ系であるが、母方の先祖はチンギス=ハンと称した。ティムール朝の地方領主であったが、ウズベク人のシャイバニ朝が成立したため、アフガニスタンのカーブルに移った。ティムール帝国の再興をめざし、サマルカンドを占領したが、シャイバニに敗れ、北インドに方向転換し、1526年、パーニーパットの戦いでロディ朝を破った。その日記風の自伝『バーブル=ナーマ』はトルコ語で書かれたが、彼自身はペルシア語・アラビア語に通じるイスラーム教徒であった。
  • アフガニスタンのカーブルを拠点にサマルカンド奪還を図るも失敗し、反転して北インドに進出。
  • 1526年 b パーニーパットの戦い  でc ロディー朝  を破る。
    アクバル
    ガンジス川を渡るB アクバル   
     d ムガル帝国  (モンゴル人の国家の意味)を創始。都はデリー。
  • スンナ派イスラーム教を信奉。支配は北インドの一部にとどまる。
  • ▲第2代 フマーユーン アフガン人勢力にデリーを奪われる。
     → 一時、スール朝が成立。サファヴィー朝の支援でデリーを奪回する。
アクバル   第3代 1556年 即位。
 帝国の実質的な基礎を築く。
    • 官僚制の整備 a マンサブダール制  
      すべての官吏の位階ごとに維持すべき騎兵・騎馬数(禄位=マンサブ)を定め、それに応じた給与を与える制度。
    • 給与は土地からの徴税権(封土=ジャーギール)として与えられた。
      = b イスラーム諸王朝のイクター制を継承した制度。   

解説

 文武の官僚の功績に応じて禄位(マンサブ)が与えられる制度。マンサブは位階ごとに10騎から5000騎に及び、それをあたえらる官僚をマンサブダールと言った。また、給与は土地そのものではなく、徴税権(ジャーギール)として与えられた。その点で、セルジューク朝などイスラーム教国に共通するイクター制と類似している。
  • 中央集権の整備 全国を州-県-郡に分け、全国土を測量し、徴税する制度を導入。首都をc アグラ  に移す。
  • ▲さらに1569年に新都ファテープル=シークリーを造営。後、さらにラホールに移る。
  • インド西部のヒンドゥー教勢力d ラージプート  諸侯を1576年までに従え、北インドの大半を支配。
 地図 ムガル帝国とその拡大
地図 ムガル帝国とその拡大 1 バーブル の時の領土
 2 アクバル の時の領土
 3 アウラングゼーブ の時の領土
重要地名
 a カーブル     b デリー 
 c アグラ      d ボンベイ(ムンバイ) 
 e ゴア      f カリカット 
 g ポンディシェリ    h マドラス(チェンナイ)
 i カルカッタ(コルカタ)   j シャンデルナゴル
主な反ムガル勢力
 A シク教徒 
 B ラージプート諸侯 
 C マラーター同盟 
※ヨーロッパ各国の進出については9章2節で詳述。

 


イスラーム教とヒンドゥー教の融合   15~16世紀

Text p.198

    •  カビール   ヒンドゥー教のバクティ信仰とイスラーム教のスーフィズムの融合を説く。
         → 人類は平等であると主張して、不可触民への差別を否定した。
    •  ナーナク   aの影響を受け、愛と献身によりカーストの区別無く解脱できると説く。c シク教  の成立。
       = イスラームの影響を受けたヒンドゥー教の改革派。パンジャーブ地方にひろがる。
    •  アクバル  帝の基本政策 e ヒンドゥー教徒との融和をはかり、ムガル帝国の安定を図った。   
        自らもヒンドゥー教徒(f ラージプート  )の女性と結婚、官吏にヒンドゥー教徒を登用。

解説

 アクバルはヒンドゥー教徒との融和を図ることで支配を安定させた。その治世(1556年~1605年)はイギリスのエリザベス1世の治世(1558年~1606年)とほぼ重なっている。またポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマがインドに到達したのはムガル帝国の成立より前の1498年であったことに注意。アクバル帝の死後、イギリス、フランスのインド進出が始まることとなる。
  • 1564年 非イスラーム教徒に対するg 人頭税(ジズヤ)の廃止   
  • みずから▲新宗教 スーフィー信仰による一神教(ディーネ=イラーヒー)を創始。しかし宮廷外には普及せず。
  • ▲第4代  ジャハンギール (在位1605~27年) ヒンドゥー教徒との融和政策を継承。
    タージ=マハル

     タージ=マハル  

     → イラン(シーア派)のサファヴィー朝アッバース1世 と争う。 
インド=イスラーム文化   の成熟
  •  シャー=ジャハーン   第5代 在位1628~58年
     宮廷中心にイラン文化とインド文化の融和が進む。
  • 絵画:b ミニアチュール(細密画)  の発達。
     → ▲c ムガル絵画  とd ラージプート絵画  に発展。
  •  ウルドゥー語  :公用語のペルシア語とインドの地方語が融合。
     → 現在のパキスタンの国語。
       インド人の言葉はf ヒンディー語  という。
  • 文学:『バーブル=ナーマ』、『 アクバル=ナーマ 』などの編纂。
  • 建築:g タージ=マハル   :a シャー=ジャハーン  が王妃の廟としてアグラの郊外に建設。(右上)
     = インド様式とイスラーム様式の融合したムガル時代の代表的建築。
★ムガル帝国時代の南インド
  • 14世紀 デカン高原にa ヴィジャヤナガル  (ヒンドゥー教国)が成立。綿花・サトウキビなどの交易で栄える。
     b インド洋交易  を通じ、西アジアから馬を大量に購入、軍事力を高める。16世紀初め、全盛期となる。
  • 1498年 c ヴァスコ=ダ=ガマ  の来航。ポルトガル、1510年、d ゴア  を占領。拠点を築く。
  • 17世紀以降、ムガル帝国などイスラーム勢力との抗争で衰える。 → 南インド各地でも地方勢力が自立。
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用語リストへイ.インド地方勢力の台頭

■ポイント ムガル帝国の全盛期のインド統治のあり方と、その衰退過程を知る。

Text p.199

 アウラングゼーブ帝   第6代 在位1658~1707年  ムガル帝国の全盛期
    • 外征を繰り返しa デカン高原  を征服し、ムガル帝国の領土最大となる。
    • ムガル支配層、地租の徴収の強化だけに努め、農村と都市の商品生産の展開にはかかわらず。
    • 宗教政策の転換 b イスラーム教(スンナ派)  に深く帰依し、ヒンドゥー教寺院を破壊。
    • 1677年 c 人頭税(ジズヤ)の復活   。→ d ヒンドゥー教徒  が強く反発。
    •  → e
 ヒンドゥー教徒との融和政策を放棄したため、各地の非イスラーム勢力に自立の動きが強まった。   
B 地方勢力の台頭
    •  マラーター王国  。デカンのヒンドゥー教徒を率いた▲シヴァージーが王国を建国。
       ムガル帝国に反抗。後にマラーター同盟となる(イギリスのインド支配に抵抗)。
    •  シク教徒  の反乱。西北インド(パンジャブ地方)で反乱を起こす。

解説

 シク教はナーナクが創始し、イスラームの影響を受け厳しく多神教信仰や偶像崇拝を禁止、さらにカーストを否定し平和を重んじたが、ムガル帝国の弾圧に抵抗するため武装するようになった。パンジャブ地方に大きな勢力を持ち、後にはイギリスとも戦った。
  • 1707年 c アウラングゼーブ帝  の死後、帝位継承をめぐる争いが続く。
  • ベンガル、デカンに独立政権ができ、ムガル帝国は、デリー周辺のみを支配する地方政権にすぎない存在となる。
17世紀 イギリス・フランスのインド進出。18~19世紀 イギリスのインド植民地化。(12章2節へ)
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用語リストへウ.東南アジア交易の発展 
■ポイント ポルトガルのマラッカ占領後の東南アジア世界の状況を考える。
ポルトガル   の進出 ヨーロッパの大航海時代始まる → 16世紀 東南アジアに進出。(後出)
    • 1511年 a マラッカ王国  を占領。 → 国王(スルタン)は移動しb ジョホール王国  と称する。
    • ポルトガルのマラッカ海峡支配 → ムスリム商人はスマトラの西をまわり、スンダ海峡を通ってジャワ海、
      さらにセレベス海に向かう。 → 東南アジア島嶼部でのイスラーム諸国の成立。

解説

 1511年にマラッカ王国がポルトガル勢力に滅ぼされたことによってイスラーム勢力が排除されたのではないことに注意。イスラーム商人はマラッカ海峡が通れなくなったため、インド洋からスンダ海峡を通り東南アジアに進出するルートを開発、その過程でこの地域のイスラーム化が進み、アチェ王国、マタラム王国、バンテン王国などイスラーム教国が成立し、イスラーム商人のネットワークが成立した。マラッカ王国の王(スルタン)もマレー半島先端に移動し、ジョホール王国を再建している。この時代、ポルトガルはむしろ孤立し、東アジアに活路を見いだしていった。
B 東南アジア諸国の活動
  • 島嶼部(スマトラ島、ジャワ島)のイスラーム教国。交易ネットワークを形成し、ポルトガルに対抗した。
     a アチェ王国   : スマトラ島の北端。マラッカのポルトガル勢力と対抗し胡椒貿易で栄える。
     b マタラム王国   : マジャパヒト王国に代わり、ジャワ島東部に成立。
     ▲c バンテン王国  : ジャワ島西部に成立。 → いずれも18~20世紀初頭にオランダに征服される。
  • 大陸部の非イスラーム国家
    タイ d アユタヤ朝   :アユタヤを都とし、17世紀にタイの最大領域を実現。タウングー朝の侵入により衰退。
     ビルマ e タウングー朝  :1531年 ペグーを占領し建国。アユタヤ朝との抗争が続く。
     ▲ベトナム f 大越国  が武人政権の抗争で衰退。フエを拠点とした阮氏がg 広南国  として自立。

Text p.200

スペイン   の進出  16世紀 ポルトガルの東廻りに対抗し西回りでアジアに進出。
    • 1521年 マゼランがa フィリピン  に到達。侵略を開始 。1571年、拠点としてb マニラ  を建設。
    • 1565年 c ガレオン船  で太平洋の横断に成功。
       → 中国のd 絹・陶磁器  ・インド産のe 綿布  などをb マニラ  に集め、太平洋を横断し、
      メキシコのf アカプルコ に運ぶ。そこからヨーロッパ各地にもたらされた。 = g ガレオン貿易  

解説

ガレオン船 ガレオン船は遠洋航海術が発達した大航海時代のスペインで開発された3または4本マストの大型帆船。1565年のレガスピが太平洋を東から西に横断してフィリピンに到着してから、1815年までの250年間、航海は困難で1年に1回の往復だけだったが、中国産の絹織物や陶磁器をヨーロッパにもたらし、メキシコ産の銀を中国に運び、双方の経済を支えた。 
D 東南アジア交易の展開
  •  銀  の中国への流入。中国の基本通貨となり、明の一条鞭法、清の地丁銀など税制が変化。(前出)
     → b メキシコ銀  ・c 日本銀  がポルトガルの拠点 d マカオ  を通じ中国にもたらされた。
  • 日本のe 朱印船貿易   → フィリピン、ベトナム、タイなどに進出。 → 各地にf 日本町  ができる。
オランダ・イギリス  の進出と抗争 ヨーロッパのa 香辛料  の需要の高まり。
  • 17世紀初頭 両国はb 東インド会社  を設立。(後出)
  • 1623年 アンボイナ事件 モルッカ諸島で両国が衝突。インド・東南アジアの勢力圏を分割。(後出)。

16~18世紀 東南アジア地図

 

東南アジア 16~18世紀

 A タウングー朝 
 B アユタヤ朝 
 C 大越国 
 D 広南国 
 E アチェ王国 
 F バンテン王国 
 G マタラム王国 
 a マカオ  b マニラ
 c ハノイ  d フエ 
 e タウングー  f アユタヤ 
 g プノンペン  h マラッカ 
 i ジョホール  j パレンバン 
 k バタヴィア  l マタラム 
 主な 日本町  

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