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第1次桂太郎内閣

2017-11-14 | 入試問題+ゴロ合わせ

勝つ時期日英日露義弟日韓買った 日々二強。

(第1次太郎内閣・足尾鉱毒事件で天皇直訴)(日同盟・日露戦争・日書)(
第1次日韓協約・=フト協定)(日比谷焼打ち事件・第2次日韓協約)


[point]

1.第1次桂太郎内閣の主要8事項は、田中正造天皇直訴事件日英同盟日露戦争開戦→日韓議定書第1次日韓協約桂・タフト協定日比谷焼打ち事件第2次日韓協約と推移した。

[解説]

1.1901年6月、第1次桂太郎内閣が成立。桂太郎(1847~1913)は長州藩出身、山県有朋直系の軍人・政治家・陸軍大将。公爵。元老。日比谷焼打ち事件の対応の不手際の責任を取って1906年1月総辞職。

2.1901年12月、田中正造は、足尾銅山鉱害問題明治天皇に直訴を試みた。政府および古河鉱業は実際の被害農民を無視して、地主層との示談を行い、貧農層の反対運動は治安警察法などで弾圧。田中正造が何度政府に質問を行ってもごまかしの答弁しか得られなかった。そこで議会での解決に絶望した正造は、衆議院議員を辞職して、議会開院式の帰途の天皇に直訴を試みたもの。しかし政府は、谷中村を廃村にして遊水池を作っただけだった。


3.1902年日英同盟協約(日英同盟)で、インドに対するイギリスの、清国と韓国に対する日本の特殊権益を認めあった。また両国の一方が第三国と戦争になった場合、他方は厳正中立を守るが、敵国側に他国が加勢参戦した場合は援助参戦するという攻守同盟


4.1904年2月8日、日本海軍が旅順口(港)外のロシア艦隊を奇襲。2月10日、日露戦争開始。翌年1/1旅順陥落、3/10奉天会戦、5/27日本海海戦を経て、アメリカの仲介で講和へ。


5.1904年2月23日、日韓議定書調印。この結果、日本軍は韓国内での行動の自由を獲得。


6.1904年8月、第1次日韓協約調印。韓国に日本政府推薦の財政および外交顧問をおくことを認めさせた。


7.1905年7月、桂・タフト協定で、フィリピンに対するアメリカの、韓国に対する日本の特殊権益を承認しあった。


8.1905年9月5日、ポーツマス講和条約調印。韓国保護権北緯50度以南の樺太遼東半島租借権東支鉄道支線を獲得。しかし同日、講和反対集会に集まった民衆は、政府の意図を見抜き、日比谷焼打ち事件をおこす。外務省ではなく、内務省関係部署が襲われたところに、事件の本質が現れている。


9.1905年11月、第2次日韓協約(韓国では乙巳(いっし)保護条約)調印。韓国から外交権をうばい韓国統監府をおく。


2017早大・商

問C 下線部ハの第1次桂太郎内閣の間に起こった出来事として。誤っているものを2つマークせよ。

 1.日英同盟協約の締結。  

 2.第1次日韓協約の締結  
 3.治安警察法の公布    
 4.第2次日韓協約の締結  
 5.文官任用令の公布    

(答:3×、5× ※3は第2次山県有朋内閣、5は第2次伊藤博内閣)〉    


2017関西大・全学部

(E)山県有朋内閣は、政党の影響力が官僚におよぶのを防ぐために、1899年に文官任用令を改正した。同時に文官の懲戒の事由・種類を限定した法規、ならびに文官の身分と職務の保障について規定した( 5 )【(ア)文官高等試験(イ)文官分限令(ウ)政体書】を制定した。」

(答:イ)〉


2017立命館大・全学部

 1898年、自由党と[ D ]党は合同して憲政党を組織した。そして同年6月には日本初の政党内閣となる第1次大隈重信内閣が誕生した。しかし、この内閣は閣内の対立が激しく、[ F ]文相の5)「共和演説」事件を機に分裂瓦解し、内閣はわずか4ヵ月の短命で終わった。後継の第2次山県有朋内閣は、政党員の官僚への就任を防止するため、1899年に[ G ]令を改正している。
 その後,1900年には[ C ]を総裁とする6)立憲政友会が成立し、内閣を組織した。こうした[ C ]の政党寄りの姿勢を見て反発を感じた官僚たちは、やがて元老山県有朋のもとに結集し、山県閥と呼ばれる官僚閥を形成した。この山県の後継者となったのが陸軍大臣[ H ]であり、やがて1903年に立憲政友会総裁の座を譲り受けた7)西園寺公望と交互に内閣を組織する時代が到来した。」

(答:D進歩 「飛躍は自信 憲政を。」、F尾崎行雄、G文官任用、H桂太郎)〉


2016関西学院大学・全学部

問9 次のa・bの正誤を正せ。

 a.日清戦争が始まると、対外硬派の政府批判はやみ、政府は関税自主権回復に課題を残す日英通商航海条約の調印を実現させ、また議会は戦争関係の予算・法律案をすべて承認した。


 b 北清事変で清が敗北すると、中国東北部はロシアの勢力圈にはいった。イギリスとの軍事同盟を締結し、ロシアとの対決姿勢を強めた伊藤博文内閣は、日露戦争の開戦に踏み切った。」


(答:問9a〇、b×伊藤博文内閣→第1次桂太郎内閣)〉

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