8月になって終戦記念日が近づくと、まったく中味のない戦争の番組がいっぱいつくらっれると思うけど、僭越ながら、歴史の教師のはしくれとして太平洋戦争のことを教えてさしあげる。
太平洋戦争の日本軍はオウムと戦った警視庁と考えると簡単に理解できる。
サリン事件の前から行われていたオウムの数々の凶行に対して警視庁の強引な捜査があったからこそ、残念ながらサリン事件には間にあわなかったものの、オウムから東京を、そして日本を守ることができたのである。
警視庁はどうにか勝てた。
日本軍は残念ながら負けてしまった。
それだけの違いなのである。
日本を殺そうと考える連中の思考の始まりは1905年に日露戦争に日本が勝ったことだった。
これによって中国問題が日米の重要問題となり、懸案となる。
1914年、後に第一次世界大戦と呼ばれることになる欧州大戦が勃発する。
日本は日英同盟を口実に英仏の連合国側(下地図の薄緑の国々)に立って参戦、膠州湾のドイツ租借地と太平洋のドイツ領諸島を占領した。ヨーロッパで各地が荒廃したのに対し、日本は漁夫の利を得た形になった。
●第一次世界大戦(ヨーロッパの参戦国)
1919年アメリカ海軍内部において日本を仮想的とした戦争計画、オレンジ計画が立案される。
1921年、米国大統領ハーディングの提案で、ワシントン会議が開かれる。
大学受験などではこの内容が問われて受験生は覚えるのに苦労するわけだが、要するに日本イジメだということを理解すれば簡単に覚えられる。
四ヵ国条約で日英同盟を破棄させ、1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約では日本の主力艦保有量を対英米比60%を押しつけた。
1924年アメリカは排日移民法を制定。
1929年、ニューヨークで世界恐慌がおこる。アメリカの無策から拡大したこの恐慌が日本の、そして世界の運命を変える。
●世界恐慌
世界恐慌は翌年日本にも影響し、戦前の日本における最も深刻な昭和恐慌という形で大きな被害をもたらした。生糸の対米輸出が激減し、農村は甚大な被害を受けた。
時の大蔵大臣であった高橋是清は円安を利用して輸出攻勢をかける。
米英仏など、多くの植民地を持つ国は日本に対抗するため、自らの植民地圏内で排他的なブロック経済を構築。
●高橋是清
飢饉による国内の惨状がひどくなった1931年、ついに日本は満州事変を起こす。
これは確かに侵略と言われても仕方のない出来事である。
しかし背に腹は代えられなかった部分も大いにある。
若槻礼次郎内閣は不拡大の方針を決めたが、石原莞爾率いる関東軍は戦線を拡大。
●満州事変で瀋陽に入る日本軍
1933年には国際連盟を脱退、日本は国際的孤立化の道をだどる。
同じ年、ドイツではヒトラーの率いるナチスが政権を握った。
そして1936年2月26日、昭和維新の名の下、陸軍将校が決起した二・二六事件が起こる。
◆蹶起直後の叛乱軍将兵
1937年盧溝橋事件は日中戦争となる。
1939年8月20日 ノモンハンでソ連・外蒙軍が総攻撃開始、日本軍第23師団はほぼ全滅。
1940年1月 海軍大将米内光政内閣成立。
1940年9月 北部仏印進駐。
1940年9月27日 日独伊三国同盟ベルリンで調印。
1941年6月22日 独ソ戦始まる。
なぜこの時期に?
第一にイギリスの頑強な抵抗。ぼやぼやしてたら、同じアングロ・サクソンのアメリカが参戦してくる。二番目の理由はスペインのフランコ総統との会談だ。
フランコはまずスペイン内戦による疲弊を理由に、モロッコやアルジェリアの領有という法外な要求を突き付けて中立を守った。
そのせいでヘラクレスの柱と呼ばれるジブラルタルを陥せず地中海の完全制圧を諦めざるをえなかった。
持久戦を余儀なくされる。そのためには膨大な量の石油が要る。
カスピ海西岸のバクーでは最高級の石油が出る。これからは航空機が戦争の帰趨を決める。ヒットラーは最高の航空燃料を押さえるためにもソ連に攻め込む。
▼藤原岩市と握手を交わすモーハン・シン大尉(1942年)
(工事中)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます