●平安時代(宇多天皇)
894(寛平6)年 〈遣唐使の廃止〉★★
Japan ceases Imperial Japanese embassies to China on the orders of the Japanese emperor Uda.
白紙(はくし)ですから 遣唐使。
894年 菅原道真 遣唐使の廃止 宇多天皇
894年、遣唐大使に任命された菅原道真は唐の政情不安※や新羅との国交途絶による航路の危険を理由に遣唐使の廃止を宇多天皇に建議。以後、中国の文化的影響が薄れ、優雅な貴族文化である国風文化が生まれた。
※安史の乱(755年)以降衰え始めた唐は、黄巣の乱(875年)によって完全に衰退。907年に滅んだ。
[ポイント]
1.宇多天皇の894年、菅原道真の提案で遣唐使は廃止された。
[解説]
1.遣唐使派遣は、838年以降まったく中断、菅原道真の宇多天皇に対する建言で、894年に廃止された。
2.理由は(1)律令政府の財政難、(2)新羅との不和により危険な南路を取らざるを得なくなったこと、(3)安史の乱(755~63)以降の唐の政治混乱による。907年、唐は滅亡。
2014立大・現代心理(心理)・コミュ福祉(コミュ政策・観光(交流文化)・経営(経営・国際経営)
5.これに関する出来事a~dのうち、もっとも古いものを解答欄の1に、次に古いものを並に、以下同じように4まで年代順にマークせよ。
a.宇多天皇は摂政・関白を置かず、菅原道真を登用した(2)
b.光孝天皇は藤原基経を実質的に関白とした(1)
c.藤原忠平が朱雀天皇の摂政・関白となった(3)
d.藤原頼通が約50年にわたって摂政・関白をつとめた(4)
2015早大・社会科学
【史料2】
諸公卿をして(3)遣唐使の進止を議定せしめんことを請ふの状
右、(4)臣某謹んで、在唐の僧中瓘(ちゆうかん)、去年三月商客王訥(おうとつ)等に附して到る所の録記を案ずるに、(5)大唐の凋弊(ちようへい)これに載すること具(つぶさ)なり。(中略)臣等伏して願はくは、中瓘録記の状を以て、遍く公卿博士に下し、詳(つまびらか)に其の可否を定められん事を。国の大事にして独り身の為のみにあらず。且つは款誠(かんせい)を陳(の)べ伏して処分を請ふ。謹んで言(もう)す。
問5【史料2】下線部(3)遣唐使に関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。
イ 8世紀には、東シナ海を横断する航路がとられるようになった。
ロ 廃止されるまで中断することなく、ほぼ20年に1度の割合で派遣された。
ハ 4隻の船で渡海し、多いときは約500人が乗船した。
ニ 遣唐使に同行して入唐した藤原清河は唐朝に仕え、朝衡と呼ばれた。
ホ 第1回遣唐使として犬上御田鍬が派遣された。
(答:ロ ※9世紀の遣唐使派遣は804年と838年の2回。 ニ ※朝衡と呼ばれたのは阿倍仲麻呂)
問6【史料2】下線部(4)臣某に関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。
イ 宇多天皇によって重用された。
ロ 醍醐天皇の時代には天皇の外戚として政治に影響力を及ぼした。
ハ 『類聚国史』を絹纂した。
ニ 書にすぐれ、三蹟のひとりに数えられた。
ホ 藤原時平の策略により大宰府に流された。
(答:ロ※道真の娘が嫁いだのは宇多天皇の子で後の醍醐天皇の弟の斉世(ときよ)親王 ニ※三蹟は小野道風、藤原佐理、藤原行成)
問7【史料2】下線部(5)大唐の凋弊(ちようへい)の時期の東アジアの状況に関する記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。
イ 8世紀末になると、日本と新羅との間の使節の往来は途絶えがちになった。
ロ 唐が滅んだのち朝鮮半島では高麗が興った。
ハ 藤原広嗣は新羅の攻撃を計画したが実現しなかった。
ニ 8世紀の安史の乱後、唐の国力は衰退に向かった。
ホ 渤海は唐・新羅との対抗関係から日本との国交を重視していた。
(答:ハ ※攻撃を計画したのは藤原仲麻呂(恵美押勝))
問8【史料2】の時期より後の日本と大陸との交流に関する記述として、適切なものはどれか。2つ選べ。
イ 宋による中国の統一後に国交が再開された。
ロ 宋の商人が来航し、博多を拠点として貿易を行った。
ハ 刀伊の入寇により宋との外交関係が途絶えた。
ニ 輸入品としては陶磁器や書籍、輸出品としては香料や薬品があった。
ホ 大陸から輸入された品々は唐物と呼ばれ、都の貴族に珍重されるようになった。
(答:ロ・ホ※イ.日宋間に国交は開かれなかった。ハ.刀伊は中国東北部の女真族で宋とは直接関係ない。ニ.香料は誤り。『山川詳説』には工芸品とある)
〈2014近大・法
問10 下線部e醍醐天皇の在位中に起こったできごととして最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。
1.阿衡の紛議 2.遣唐使の廃止
3.安和の変 4.延喜の荘園整理令の発布
(答:4 ※醍醐天皇の治世を延喜の治という)
〈2014同志社大・文
遣唐使は、平安時代にも804年とオ.838年に派遣されたが、894年、遣唐大使に任じられた菅原道真は派遣の中止を建議した。すでに唐はキ8世紀の内乱ののちには衰退を続けており、多くの危険をおかしてまで公的な交渉を続ける必要がないというのが、その理由であった。結局この時遣唐使は派遣されないまま終わった。
【設問オ】下線部オに際して、大使と仲違いをし病と称して乗船せず、嵯峨上皇の怒りを受けて隠岐へ流されたが、後に許されて参議になった人物を次のうちから1つ選べ。
1.文室綿麻呂 2.橘逸勢
3.源高明 4.小野篁
(答:4)
【設問カ】894年は次のうちどれか。1つを選べ。
1.元慶3年 2.寛平6年
3.延喜元年 4.承平5年
(答:2)
【設問キ】下線部キについて、8世紀の内乱の後、唐が滅びる直前におきた乱を、次のうちから1つ選べ。
1.安史の乱 2.黄巾の乱
3.黄巣の乱 4.赤眉の乱
(答:3)
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