□6事件 ◇S
薬子女王 亜子招待あ。
(薬子(くすこ)の変・承和(じょうわ)の変・応天門(おうてんもん)の変・阿衡(あこう)の紛議(ふんぎ)・菅原道真(すがわらのみちざね)左遷・安和(あんな)の変)
[ポイント]
1.藤原北家の他氏排斥は、薬子の変→承和の変→応天門の変→阿衡の紛議→菅原道真左遷→安和の変の順で発生した。
[解説]
1.北家は不比等四子の第2子房前にはじまる。房前の第2子が永手(式家の百川とともに道鏡排斥、光仁天皇担(かつ)ぎ出しに功)。永手の弟の孫が冬嗣。冬嗣が北家台頭の基礎をつくる。
2.薬子の変に際して810年、藤原冬嗣が巨勢野足(こせののたり)とともに蔵人頭に任命される。薬子の変は、平城(へいぜい)上皇の側近藤原仲成(ふじわらのなかなり)・薬子が、天皇への復位と平城京への還都を企てた事件。薬子の変で藤原北家が台頭し、式家が没落した。
3.藤原氏で四子以降、薬子の変まで活躍した藤原氏は仲麻呂(南家)を除いて、主要人物(広嗣・百川・種継・仲成)はすべて式家。良房以降はすべて北家。
4.承和の変(842)で藤原良房が皇太子を廃し、その側近伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)を配流。
5.応天門の変(866)は、まず左大臣源信(みなもとのまこと)が同門放火犯との伴善男の訴えに対し、良房の密告を用いた巧みな政治行動で伴善男を真犯人として伊豆へ配流排斥を遂げた事件。応天門の変の収拾を理由に、866年、良房が正式に摂政に就任した。
6.阿衡の紛議(887、阿衡事件)は、関白任命をめぐる、宇多天皇と藤原基経の暗闘事件。基経は政務をサボタージュして天皇を精神的に圧迫。結局、天皇側近の橘広相(たちばなのひろみ)の処罰で決着させた。
7.菅原道真(845~903)は文章(もんじょう)博士。讃岐守(さぬきのかみ)のとき中央で起こった阿衡の紛議に際し橘広相を積極的に弁護し、藤原氏の抑制をねらう宇多天皇に認められた。以後天皇の側近にあって894年遣唐使廃止を建言するなど重要な政策に関与。
8.昌泰(しょうたい)の変(901)は、つぎの醍醐天皇の時、右大臣菅原道真が左大臣の藤原時平の讒言で大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された事件。
9.安和の変(969)は、陰謀ありとの密告で左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)(皇族で源賜姓)が大宰府に左遷された事件。これで藤原北家による他氏排斥が完了、以後摂関常置となる。
2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポーツウェルネス)・観光(観光)
「藤原北家に関する出来事について、もっとも古いいものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.阿衡の紛議-承和の変-安和の変-応天門の変
b.安和の変-阿衡の紛議-応天門の変-承和の変
c.応天門の変-安和の変-承和の変-阿衡の紛議
d.承和の変-応天門の変-阿衡の紛議-安和の変」(答:d)〉
〈2012愛知教育大・前期
今から約千百四十年ほど前の(a)貞観11年(869)5月、東北地方に大地震と津波が起こったことが、六国史最後の書である( A )に記録されており、先年話題となった。」
問1 空欄( A )に入る六国史の名称を答えよ。(答:日本三代実録)
問2 下線aの前後の時期はどのような政治状況の時代であったか、下記の語句を用いて150字程度で説明せよ。使用した語句には下線を付すこと。
清和天皇 藤原良房 応天門 北家
〔解答例〕
藤原冬嗣が薬子の変で台頭、子藤原良房が承和の変で伴、橘氏を排斥し、9歳の清和天皇に代わり外祖父良房は事実上の摂政に、応天門の変で伴、紀氏を追放、光孝天皇から正式の摂政に任命され権力を掌握。宇多天皇即位で関白となり阿衡の紛議・昌泰の変・安和の変を経て北家の他氏排斥が完了した。(157字)
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