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● 江戸時代(孝明天皇 徳川家茂)
Kimmon Incident: Proimperial extremists belonging to Choshu domain attempt to force their way into Kyoto.
いや無視できん 征伐(せいばつ)じゃ。
1864年 池田屋事件 禁門の変 第一次長州征伐 下関戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件)
1864年、八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は勢力挽回のため池田屋事件を契機に京都に攻め上ったが薩摩・会津・桑名の藩兵に敗れた。幕府はこの禁門の変を理由に第1次長州征伐の軍を出し、長州藩は降伏した。
〈四国連合艦隊下関砲撃事件〉
この1864年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が前年に下関で砲撃された報復に下関の砲台を攻撃した(四国艦隊下関砲撃事件)。禁門の変に敗れた長州藩は列国の圧倒的軍事力に屈服、講和条約が成立した。
「四国」の〈四〉で年代の最後の1桁を押さえよう。
[point]
1.1864(元治元)年は、池田屋事件→禁門の変→第一次征長戦争→下関戦争と事件がつづいた。
[解説]
1.池田屋事件(6月)は、新撰組が京都三条河原町の池田屋に集合した尊攘派を急襲、20数人を殺傷した事件。桂小五郎(のちの木戸孝允)は危うく逃れた。
2.禁門の変(7月)は、前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩の急進派が、池田屋事件の報復などで入京、薩摩・会津・桑名の藩兵と皇居内外で交戦、大敗した事件。蛤御門(はまぐりごもん)の変ともいう。
3.下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)(8月)は、
(1)前年の長州藩外国船砲撃事件の報復と関門海峡通行の安全の確保のため、英・仏・米・蘭の四国連合艦隊が下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させて砲台などを占領。
(2)奇兵隊などは善戦するが、戦力の差は大きく大敗。高杉晋作が正使で和平交渉。海峡の自由通行を保障したが、領土割譲要求(彦島)は強硬に拒否し、賠償金も突っぱねる(結局幕府がその300万ドルを支払う)。この外交姿勢は称賛できる。
(3)この結果、攘夷の不可能を認識した長州藩では、開国を主張する勢力が台頭。イギリスは戦闘および外交折衝を通じて長州の実力を知り、かえって両者は接近。
4.第一次長州征伐(征長戦争)(7~12月)は、禁門の変に対する懲罰遠征。しかし財政難のため各藩の動きは鈍く、攻撃の実行までなかなか進まなかった。そこで幕府軍の参謀西郷隆盛は、戦わずして長州藩に大軍に圧力をかけ追い込む方針をとる。圧力に屈した長州藩は俗論派(上層保守派)が藩権力を握り、3家老4参謀を斬って恭順したため、12月末、戦わずして終了。
〈2016早大・教育:「
問4 下線部a支配層内部の分裂・抗争および諸外国との対立・戦争に関する事件A~Eを時代順に並べると、正しいものはどれか。
A イギリスなど4国の連合艦隊が下関の砲台を攻撃した。
B 高杉晋作らは奇兵隊などの諸隊を率いて挙兵し、長州藩の主導権を奪い返した。
C 島津久光が江戸からの帰途、薩摩藩士が行列を横切ったイギリス人を殺傷した。
D 会津藩と薩摩藩は、公武合体派の公家と結んで、長州藩と尊攘派公家を京都から追放した。
E 長州藩は勢力を回復するため藩兵を上京させたが、禁門(蛤御門)付近の戦闘で薩摩・会津の藩兵に敗れた。
ア D一C→A→B→E
イ A→C→E→B→D
ウ E→D→A-B→C
エ C-D→E→A→B
オ D→E-A-C→B
(答:エ ※C生麦事件1862年、D八月十八日の変1863年、E禁門の変1864年7月、A四国艦隊下関砲撃事件1864年8月、B高杉ら藩の実権を握る1865年 いや向こう見ず高すぎる。)〉
〈2016慶大・商AB方式:「
井伊の死後、老中[ 42 ]は(ア)公武合体を進めようとした。他方、長州藩をはじめとして天皇を尊び外敵を退けることを唱える運動が起こるが、1863年の外国船砲撃事件に対してイギリスをはじめとする四国連合艦隊により[ 43 ]が砲撃され、また、1862年に起きたイギリス人殺傷事件に対する報復のため、1863年には薩英戦争が起きた。その後、薩摩藩はイギリスに接近するが、幕府に見切りをつけた駐日イギリス公使[ 44 ]の側も薩摩藩に期待を寄せるようになった。
問3 下線部(ア)公武合体について、25字以内で説明しなさい。」
(答:42安藤信正、43下関、44パークス、問3天皇の妹と将軍の結婚による朝幕融和政策)〉
〈2014文教大・全学部:「
問10 幕末の下線部(i)政情不安について述べたA~Cの文について、古いものから年代順に配列せよ。
A 薩摩の島津久光が江戸城に入り、幕政を改革し、松平慶永が政事総裁職に就任した。
B 大老井伊直弼が江戸城桜田門外で、尊王攘夷派の浪士たちに襲われ殺害された。
C 江戸幕府が諸大名に征討を命じると、長州藩は尊王攘夷論を放棄し、幕府に服従した。」
(答:B(1860年)A(1862年)C(1864年)〉
〈2012立大・文学部:「
山本覚馬は会津藩の砲術指南の家に生まれ、江戸で砲術・兵学・蘭学を学び、藩校〈 つ 〉に開設された蘭学所の教授となった。京都守護職に任じられた藩主( ヌ )に関連して上洛し、皇居が戦場となった1864年の〈 て 〉では砲兵隊を指揮して勲功を立てた。その後失明し、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩邸に幽閉されたが、その学識と先見性の故に厚遇された。維新後は京都府庁に出仕し、府政の顧問として開明的な政策を推進した。その後新島と知り合い、その学校創設計画に共鳴して、ともに( リ )英学校の創業・運営にあたった。」
(答:つ日新館 ※「会いにし米公 嵌めり籤 嘉蔵復讐 飽きめい巫女と。、ヌ松平容保、て禁門の変、リ同志社)
会津・日新館(にっしんかん1664) 米沢・興譲館1697)(萩・明倫館(めいりんかん)1719)(熊本・時習館(じしゅうかん)・1755)(造士館(ぞうしかん)・鹿児島1773)(福岡・修猷館(しゅうゆうかん)1784)(秋田・明徳館1789)(水戸・弘道館1841)
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