ベック式!難単語暗記法ブログ

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征韓論下野参議

2017-08-07 | 生物暗記法

□近現481.(5人)◇B

[ゴロ]裁判は/心配を/生じろう


西郷隆盛(さいごうたかもり)・垣退助(いたがきたいすけ))(江藤新平(えとうしんぺい)・副島臣(そえじまたねおみ))(後藤象二郎(ごとうしょうじろう))


[句意](征韓論の)裁判(ことの理非を裁決判断)は心配の種(:参議が下野)を生じるだろう、という征韓論争決着後を心配する句。


[ポイント]

1.征韓論で下野した参議は、江藤新平西郷隆盛板垣退助後藤象二郎副島種臣の5人である。

[解説]

1.朝鮮政府は、鎖国政策を理由に日本の開国要求を拒みつづけた。このため留守政府のなかでは、恫喝(どうかつ)外交派(西郷隆盛)から派兵交戦派(板垣退助)まで幅広い意見をふくむ武力による朝鮮開国論である征韓論が台頭。

2.留守政府内では西郷を朝鮮派遣使節とすることで一致。ただし正式決定は、岩倉具視大使一行の帰国まで延期した。


3.帰国した大久保利通らは、使節派遣は開戦と直結する、また財政・内政・外交上に困難を来すので時期尚早・内治優先と反対。10月中旬約10日間の暗闘ののち、西郷の派遣は中止と決定した。このことにより、賛成派の参議が憤激し下野にいたる。これが征韓論政変(明治六年の政変)(1873年)である。


4.征韓論を退けた後の大久保政権は、翌74年には台湾出兵75年には江華島事件で朝鮮に対し軍事力を行使しており、政府部内の主導権争いの面がつよい。


5.この延長線上に1945年の敗戦までの大陸侵略路線が続いていく。

2017慶大・

 1871年に( a )が全権として清国と交渉し、日清修好条規を結んだ。同年、台湾では琉球漂流民殺害事件が発生した。1874年に明治政府は[ 31 ]の率いる軍隊を台湾に派遣した。事件を解決するため、[ 32 ]が全権として清国と交渉し、イギリスの調停により、清国は賠償金を支払って、事件は収拾した。
 明治政府は、朝鮮と新しいかたちの国交を樹立するため、交渉を試みたが、朝鮮に拒絶された。そのため、日本では征韓論が高まった。1873年、[ 33 ]を朝鮮に派遣して、開国を求めることが決定された。しかし、[ 32 ]らの反対によって、朝鮮への使節派遣は中止された。そのため、[ 33 ]、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、[ 34 ]の5人の参議が辞職した。1875年に明治政府は軍艦を朝鮮の首都漢城(現ソウル)防衛の要地江華島に派遣して挑発し、交戦して砲台を破壊した。明治政府はこの事件を機に、[ 35 ]を全権使節として軍隊とともに朝鮮に派遣して、条約交渉を行った。1876年に日朝修好条規が結ばれ、朝鮮が日本の領事裁判権や関税免除などを認めた。そのため、朝鮮に対する主導権をめぐって、日本と清国が対立を深めていった。

問1 文中の空欄[31~35]に当てはまる最も適切な語句を下の語群(75語…略)より選べ。


問2 文中の空欄(a)に入る最も適切な語句を漢字で書きなさい。」


(答:31西郷従道、32大久保利通、33西郷隆盛、34副島種臣、35黒田清隆、a伊達宗城)〉


2016明大・法:「

問4 この文章(政体書…東海林註)を起草した人物の一人で、佐賀藩出身、1871(明治4)年に「外務卿」に就任したが、のち征韓論を主張して下野した人物はだれか。その氏名を記しなさい。」

(答:副島種臣)〉


2014早大・国際教養:「

問6 下線部e征韓論に関連する記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 日本は江戸時代、対馬の宗氏を介して朝鮮と外交を行なっていた。

 イ 明治政府は朝鮮に国交樹立を求めたが、朝鮮側は交渉に応じなかった、
 ウ 副島種臣・西郷隆盛らは、征韓論を主張した。
 エ 大隈重信・板垣退助らは、征韓論に反対した。
 オ 日本の軍艦雲揚は、江華島事件を起こした。」

(答:エ)〉


2013慶大・経済:「

 明治時代になると、明治政府は近代化政策を推進するとともに、c近隣諸国との外交や国境の画定に取り組み、琉球に対しては、沖縄県として日本の領土に組み込んだ。

問8(2) 下線部cに関連して、日朝修好条規締結に至る経緯を1873(明治6)年以降について、解答欄Bの所定の欄の範囲内で説明しなさい。」


(解答例:大久保政権は1873年の征韓論を斥けたにも関わらず、翌74年には台湾出兵を行い、75年には江華島事件を起こし日朝修好条規締結するなど大陸侵略路線を進めた)

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岩倉使節団

2017-08-05 | 生物暗記法

く大きい 不屈やな

倉具視・久保利通・戸孝允・藤博文)(地源一郎・田梅子・山川捨松・江兆民


[ポイント]

1.岩倉使節団のおもなメンバーは岩倉具視大久保利通木戸孝允伊藤博文、その他一等書記官福地源一郎、留学生の中江兆民津田梅子

[解説]

1.1871(明治4)年、廃藩置県を断行して国内統一を達成した新政府は、同年中に、岩倉具視ら多くの政府首脳をふくむ大規模な使節団(岩倉使節団)を米欧諸国に派遣した。一行は、岩倉具視を大使、大久保利通木戸孝允伊藤博文山口尚芳(肥前)を副使。随行員の中には福地源一郎(立憲帝政党結成、東京日々新聞社長、歌舞伎脚本家および歌舞伎座創設)も。

2.条約改正の予備交渉を兼ねる。条約改正の提議つまり本交渉は、条約上、明治7(1872)年5月以降と規定されていたため予備交渉。まずアメリカ、ついでヨーロッパを巡遊。制度・文物を視察し、1873年帰国


3.なお、外遊中は三条実美太政大臣と西郷隆盛大隈重信板垣退助参議らが政府を預る。西郷隆盛を中心とする留守政府は、以後1873(明治6)年まで、学制徴兵制の実施や地租改正などの大規模な内政改革を精力的に推進した。


4.岩倉使節団には留学生数人も随行。その中に中江兆民や、山川捨松(すてまつ)(大山巌妻)・津田梅子(津田英学塾創設)ら5人の女子留学生もいた。彼女たちは10~11年間留学して帰国した。


2017慶大・商:「

 1871年に、右大臣岩倉具視を全権大使とする(ア)使節団が欧米に派遣され、近代国家の法律や政治・経済の仕組みを視察して[ 21 ]年に帰国した。

問3 下線部(ア)について、使節団に同行し、後に女子英学塾を設立した人物の名前を漢字で書きなさい。」


(答:津田梅子、21→1873)〉


2016早大・国際教養

 明治政府は幕府が結んだ条約の改正を最重要政策の一つに掲げ、1871年、[ A ]を特命全権大使とする使節団を米欧に派遣した。この使節団はアメリカとの間で条約改正の予備交渉を行ったが、条約締結国全体が同意しなければ無理だと判明して、最初の改正交渉は失敗した。

問3 [ A ]に該当する人名を漢字で記述解答用紙に記入せよ。」


(答:岩倉具視)〉


2016法大・済(国ビジ)社(政策メディ)現福:「

 1871年、b[ ア ]を大使とする使節団が海外に派遣され、まず[ あ ]と交渉したが目的を達成することはできなかった。

問5 下線部bについて、下記のa~jの中で、この使節団に同行していた人物は誰か。あてはまる人物を二人選べ。


 a山川捨松 b与謝野晶子 c管野スガ

 d樋口一葉 e柳原白蓮  f市川房江
 g新島八重 h平塚らいてう
 i津田梅子 j景山英子」

(答:ア岩倉具視、あアメリカ、問5a・i)〉


2016立教大・現心コミュ福観光営:「
問1 下線部1岩倉具視を全権大使とする使節団がアメリカ・ヨーロッパに向けて出発したの使節団とともに渡欧した人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。

 a.植木枝盛 b、江藤新平
 c.中江兆民 d.前原一誠」

(答:c)

2012立大・文学部:「

 この使節(遣米欧使節団)に加わらなかった人物は誰か。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.伊藤博文 b.大久保利通

 c.木戸孝允 d.西郷隆盛)」

(答:d)〉

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イスラーム世界の成立

2017-08-04 | ベック式!世界史用語集
イ.イスラーム世界の成立
■ポイント 正統カリフ時代からウマイヤ朝に変化した理由と、宗派の対立はなぜ起こったかを理解する。
 正統力リフ時代 
・632年 ムハンマド没。信者の共同体の中から後継者(a 力リフ )を選出。
・初代 b アブー=バクル  ムハンマドの妻の父。大規模な征服活動をc 聖戦(ジハード) として行う。
・▲2代 d ウマル   637年、 カーディシーヤの戦い での勝利に続き、
 642年 e ニハーヴァンドの戦い でf ササン朝ペルシア を破る。イラン人のイスラーム化が始まる。
 → さらにg ビザンツ帝国 からシリアエジプトを奪い西アジアの穀倉地帯を支配。
※イスラーム国家 : カリフを宗教的・政治的権力者としてイスラーム教の信仰によって結びついた、
アラブ人を主体として多くの民族を含む世界帝国が成立。(サラセン帝国)ともいう。
・征服地に軍営都市(i ミスル )を建設。アラブ人が家族を伴い移住。イラクのクーファ 、 イラクのバスラ 、 エジプトのフスタート など。
ミスルスタート クーファバス(西から東へ)。
ミスル  フスタート  クーファ  バスラ 
・▲3代  j ウスマーン  ウマイヤ家出身。(シーア派はカリフと認めない)
 → 征服地の分配、力リフの選出などをめぐり、イスラーム共同体の内紛起こる。
・4代 k アリー 、ムハンマドの従弟で、娘ファーティマの夫。
 → シリア総督のウマイヤ家のl ムアーウィヤ と争う。
 661年 暗殺される(ハワーリジュ派による)。 → シーア派は初代m イマーム とする。

解説

アリーはムハンマドと同じくメッカのハーシム家の出で、ムハンマドの娘ファーティマの夫となった。大変勇敢な指導者として「アッラーの獅子(アサドッラーク)」と言われた。656年、ウマイヤ家出身のカリフ・ウスマーンが暗殺された後、ムハンマドに最も近い人物と言うことでカリフに選出されたが、ウマイヤ家の統領であるシリア総督ムアーウィヤはアリーがウスマーン殺害の背後にあるとみなして対立し、660年ダマスクスでカリフを称して離反した。両者の争いは決着がつかず、アリーはムアーウィヤの提案を入れて戦闘を中止した。それに反発した過激派(ハワーリジュ派)の刺客が両者を暗殺する計画をたて、661年、クーファでアリーの暗殺に成功した。ただ一人カリフとして残ったダマスクスのムアーウィヤがイスラーム世界の統治者となったが、それを認めずにアリーの子孫のみをイスラームの指導者(イマーム)であるとするシーア派が出現することとなる。
 ウマイヤ朝  の成立
・661年 シリア総督a ムアーウィヤ がカリフとなり、以後世襲される。b ダマスクス を都とする。
 680年 カルバラーの戦い ウマイヤ朝軍、シーア派イマームのフサインを殺害。
・第5代カリフ ▲c アブド=アルマリク (在位685~705) 統一政策と外征を進める。
 695年 d アラビア語 を公用語とする。
  同 年 統一貨幣(ディーナール金貨ディルハム銀貨)を鋳造。

Text p.103

・領土の拡大
 東方 704年 中央アジアのe ソグディアナ に進出。中央アジアへのイスラーム教拡張。
    711年 インドのインダス下流に進出。ヒンドゥー教徒との抗争続く。
 西方 北アフリカのチュニスを制圧、ベルベル人のイスラーム化が進む。
  → ▲f ビザンツ帝国 との抗争 コンスタンティノープルを攻撃、 シチリア島にも進出。
 711年 タンジール からジブラルタルを越えてg イベリア半島 に進出、h 西ゴート王国 を滅ぼす。
・732年 i フランク王国 に侵入。j トゥール・ポワティエ間の戦い で敗れる。
 → キリスト教世界を守ったカロリング家の宮宰カール=マルテルがカロリング朝を開く。(次章で説明)
 アラブ帝国  の形成
・a ウマイヤ朝 のもとで、征服者であるアラブ人が絶対的優位に立つ。同時にカリフの権限はさらに強大になった。
・帝国の国家財政 征服地の先住民にb 地租(ハラージュ)  とc 人頭税(ジズヤ) を課す。
 → d 征服地の異民族(非アラブ人)は、租税を納めることで信仰は認めたが、改宗しても課税された。 
 ※イスラーム教は、異教徒に対して改宗を強制したのではなかったことに注意する。
・このような特色を持つウマイヤ朝時代をC アラブ帝国 ともいう。
 イスラーム教の分裂 
・a ウマイヤ朝 の成立に伴い、イスラーム教団がカリフの地位をめぐって分裂。
・b スンナ派 :ウマイヤ朝のカリフを認めた多数派。
  主張:c ムハンマドの言行(スンナ)を生活の規範とし、共同体の統一を重視する。 
・d シーア派 :ウマイヤ朝のカリフを認めず、独自の指導者( イマーム )をたてた少数派。
  主張:e 4代目カリフのアリーの子孫のみを正当な指導者とする。 
  = “アリーを支持する”という意味の“シーア・アリー”からきた。イスラーム教徒の約1割。
・両派の対立は現在のイスラーム世界でも続いており、世界の不安定要因の一つとなっている。
先頭へ
用語リストへウ.イスラーム帝国の形成
■ポイント 「アラブ帝国」から「イスラーム帝国」への変化の意味を理解する。
・ウマイヤ朝に対するイスラームに改宗した非アラブ人(a マワーリー )の不満が強まり、
 またスンナ派とシーア派の対立も始まる。ムハンマドの叔父の子孫 b アッバース家 の勢力が強まる。
 → ホラーサーン地方を拠点にウマイヤ朝に抵抗続ける

Text p.104

 アッバース朝 
バグダード・750年 アブー=アルアッバース、力リフを称す。
 a シーア派、アラブ以外のイスラーム教徒 
 が協力し、b アッバース革命 を成功させる。
 751年 中央アジアに進出し、唐と戦う。
 = c タラス河畔の戦い (前出)
・第2代 d マンスール 
 首都e バグダード を建設。
 円形の都市計画。円城から四方に道路が延び、
 運河などの交通網が発達していた。 (右図)
・f イラン人 などの改宗者を要職に登用、
 官僚制度を整える。 
 → 権力を握ってからはスンナ派を保護し、
 シーア派は弾圧。
 イスラーム帝国 の成立  アッバース朝での諸改革
税制改革 イスラーム教徒であれば、アラブ人以外でもa 人頭税(ジズヤ)を免除。 
      アラブ人でも征服地に土地を所有すればb 地租(ハラージュ) を課す。
 意義:c イスラーム教徒であれば、アラブ・非アラブの区別を無くし、平等にした。 

解説

ウマイヤ朝までとアッバース朝以降のイスラーム帝国の税制の違いを概略を示す。×は課税されないことを示し、○は課税されることを示す。非アラブ人のマワーリーとはイスラーム改宗者、ズィンミーとは非改宗者で被保護者の意味。

王     朝 ウマイヤ朝まで アッバース朝から
税     制 ハラージュ ジズヤ ハラージュ ジズヤ
ア ラ ブ 人 × × ×
非アラブ人 マワーリー ×
ズィンミー
・d イスラーム法(シャリーア) :民族差別を無くしたカリフのによる統一的な支配の根拠とされる。
 アッバース朝の意義:e 「アラブ人の国家」から「イスラーム教徒の国家=イスラーム帝国」に変質した。 
 ただし、公用語は依然としてf アラビア語 とされた。
・イスラーム圏 西アジアから東はイラン、中央アジア、インドへ、西は北アフリカからイベリア半島まで広がる。

地図 イスラーム世界の拡大

イスラーム帝国の拡大 

  a ムハンマド時代    b 正統カリフ時代    c アッバース朝    d ビザンツ帝国 

 重要地名 1 メッカ   2 メディナ   3 ダマスクス  イェルサレム 
      5 バグダード   6 アレクサンドリア   7 コルドバ   8 グラナダ 
      9 トゥール   10 ポワティエ   11 ローマ   12 コンスタンティノープル 
      13 ニハーヴァンドの戦い   14 トゥール=ポワティエ間の戦い   15 タラス河畔の戦い 

先頭へ
用語リストへエ.イスラーム帝国の分裂
■ポイント 隆盛を誇ったイスラーム帝国が、三カリフに分かれ、分裂した事情とその後の各地域の動きを知る。
 後ウマイヤ朝 の成立
・756年 ウマイヤ朝の一族、a イベリア半島 に逃れ建国。アッバース朝カリフから自立しアミールと称す。
 首都b コルドバ  → バグダードの文化を吸収、高度なイスラーム文明を生みだす。
・ ▲8世紀末 c カール大帝 時代のフランク王国の侵入を撃退した。
 = ヨーロッパの一部のイベリア半島に、キリスト教国と隣接してイスラーム国家が存在したことに注意。
 → 半島の北部に残ったキリスト教徒が、イスラーム教徒からの国土回復運動を開始する(後出)。
 10世紀、d カリフ を称す。 → 1031年滅亡 小国に分裂、キリスト教勢力の攻勢強まる。
→ その後もコルドバはヨーロッパがアラビアの先進的な文化を受け入れる窓口となった(後出)。

Text p.105

 アッバース朝 の全盛期8世紀末~9世紀
・5代カリフ a ハールーン=アッラシード (在位786~809年)の時、全盛期となる。 
 学問、芸術を保護し、イスラーム文化の黄金時代と言われる。
 → b バグダード の繁栄。人口100万を超える。
 ギリシア語の文献の収集と翻訳が行われる。(第7代カリフのマームーンも継承)

解説

ハールーン=アッラシードがカリフとなった時代はヨーロッパではフランク王国のカール大帝と同時期であり、フランク側の記録では贈り物の交換をしている。フランクとアッバース朝は、ビザンツ帝国と後ウマイヤ朝という共通の敵を持っていたので、友好関係を持ったことは考えられる。ただし、両者の力関係は、圧倒的にアッバース朝ハールーン=アッラシードが上であった。彼はまた文芸や芸術を好み、多くの芸術家を保護し、バグダードの繁栄をもたらした。彼がバグダードに建設した知恵の館は、アレクサンドリアのムセイオンに伝えられていたギリシア語文献を、アラビア語に翻訳する学術センターとして機能した。しかし、その死後、広大なアッバース朝イスラーム帝国の各地に、地方政権が自立し、分裂の時代がやってくる。
・9世紀から、トルコ系軍人奴隷(c マムルーク )を中央アジアから購入し、親衛隊とする。(後出)
 イスラーム帝国 の分裂
・アッバース朝のカリフ a ハールーン=アッラシード の死後、カリフの権威が次第に弱まる。
 → 軍隊の地方司令官が、独立して▲b アミール を称し、地方政権を各地につくる。
・8~9世紀 地方政権の自立
 北アフリカ ▲モロッコ イドリース朝(789-926)が成立。最初のシーア派国家。
       エジプト c トゥールーン朝 (868~905) アッバース朝のトルコ系軍人が自立。
 イラン  ▲東部にターヒル朝(821-873)、次いでサッファール朝(867-963)が成立。
 西トルキスタン d サーマーン朝 (875~999)イラン系。都ブハラ。東部イランに進出。
   = トルコ人を軍人奴隷(マムルーク)とする。 → トルコ人のイスラーム化すすむ。
・アッバース朝の弱体化 : 現在のイラク、バグダード周辺だけ位を支配するのみとなる。
 869~883年 ▲ザンジュの乱 :イラク南部のバスラを中心とした黒人奴隷の反乱が起きる。
 ファーティマ朝 の成立 
・909年 北アフリカ(マグリブ地方)のチュニジアに成立した王朝。
  a シーア派 の中の急進派(▲b イスマイール派 を信奉。
  = アリーとムハンマドの娘のファーディマの子孫であると称する。
 → カリフを称し、アッバース朝のカリフの権威を否定。 
・969年 c エジプト を征服し、首都b カイロ を建設。
 3カリフ時代 
・10世紀 後ウマイヤ朝のa アブド=アッラフマーン3世 、力リフを称す。
 → b バグダード のアッバース朝、c コルドバ の後ウマイヤ朝、d カイロ のファーティマ朝が分立。
 = 3人のカリフが並び立つ分裂状態となる。

Text p.106

 ブワイフ朝 の成立
・ 946年、a イラン人 の軍事政権 b バグダード に入城。穏健なシーア派を信奉。
  b 大アミール に任命され、スンア派の力リフを保護する代わりに、
  c イスラーム法 を施行する権限を与えられる。

解説

ブワイフ朝は、イランに成立したイスラーム地方政権の一つでシーア派の穏健派十二イマーム派を信奉していた。アッバース朝の弱体化につけ込んでバグダードに入城し、軍事政権を建てたが、アッバース朝を滅ぼしたわけではなく、そのカリフを保護する代わりに、イスラーム法の執行権、つまり政治権力をあたえられ大アミールという地位に就いた。日本で言えば、天皇と鎌倉幕府の関係に似ている。このブワイフ朝では、イクター制度が始まることが重要(後出)。
・アッバース朝のカリフは名目上の存在としてバグダードに存続する。
 
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地租改正反対一揆

2017-08-04 | ベック式!日本史用語集

非は南無魔界 意義浅み。

(1876年 真壁(まかべ)暴動・城県)(重県・阜県・(さかい)県・知県・伊勢暴動)



[point]

1.おもな地租正反対一揆は、真壁暴動茨城)と伊勢暴動三重岐阜愛知)。

[解説]

1.地租改正反対一揆は農民一揆。特に1876年の茨城県真壁・那珂両郡での茨城大一揆(真壁暴動)や、ついで三重愛知岐阜の4県にまたがる三重の大一揆(伊勢暴動)が代表的。

2.これら一揆勢力と折からの士族反乱が結びつくことを恐れた大久保利通政府は、1877年(西南戦争の直前)に税率を2.5%に譲歩軽減した。このため農民はこれを誇って“竹槍でドンとつき出す二分五厘”とうたった。

2016法大・済(済)社(社)スポーツ

A 明治維新以後、財政の安定化という課題に直面する新政府は、土地制度と税制の改革に着手した。新政府は、1871年に田畑勝手作りを許可し、翌年には[ 1 ]を解いて、土地の私的所有権を認める[ 2 ]を地主と自作農に与えた。そして1873年に地租改正条例を公布して、a地租改正を実施した。しかし、b地租改正反対一揆が日本各地で起き、1877年政府は税率を引き下げた。

 このころ、政府は西南戦争の戦費を調達するために、不換紙幣を増発していた。同時に、国立銀行も不換銀行券を発行していたため、激しいインフレーションが起こり、銀貨に対する紙幣の価値が下落した。その結果、地租を中心とする政府の歳入は実質的に減少して、大きな財政困難を招いた。1881年に大蔵卿に就任した[ 3 ]は、大規模c財政改革に取り組んだ。改革のあとも、農民の負担は重く、多くの自作農が土地を手放して小作農に没落した。他方、自らは農業経営をせず、小作人に貸し付けて高額の現物小作料に依存する[ 4 ]が急成長して、農村で貧富の差が進んだ。


 政府が軍備拡張を続けたため、軍事費は削減されず、政府の歳入は緊迫したままだった。1898年に発足した第3次伊藤博文内閣は、地租増徴などの増税案を議会に提出したが、否決された。同年、[ 5 ]を首班とする内閣はd.憲政党の支持を得て、地租を2.5%から3.3%に上げる増徴案を実現した。

問1 [ 1 ]にあてはまるもっとも適切な語句を下記のア~エから一つ選べ。

 ア 田畑永代売買の禁止令
 イ 分地制限令

 ウ 相対済し令
 エ 寺請制度


問2 [ 2 ]にあてはまるもっとも適切な語句を下記のア~エから一つ選べ。


 ア 金禄公債証書 イ 戸籍

 ウ 計帳     エ 地券

問3 下線部a地租改正の説明として誤っているものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 課税基準を収穫高から地価の3%に変更した。

 イ 納入方法を物納から金納に改めた。
 ウ 納税者を土地所有者に定めた。
 エ 収穫の豊凶に応じて税率を増減させた。

問4 下線部b地租改正反対一揆が起こった理由として誤っているものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 米価が高騰したから。

 イ 山林や原野などの入会地のうち、所有権の立証できないものが官有地に編入されたから。
 ウ 旧来の歳入を減らさないようにするため、地租が高額のまま維持されたから。
 エ 永小作の特権がはく奪されたから。

問5 下線部b地租改正反対一揆の事例として正しいものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 茨城県では、真壁騒動が起こった。

 イ 山口県では、萩の乱が起こった。
 ウ 酒田県では、ワッパ騒動が起こった。
 エ 埼玉県では、秩父事件が起こった。

問6 [ 3 ]にあてはまるもっとも適切な人物を下記のア~エから一つ選べ。


 ア 板垣退助 イ 植木枝盛
 ウ 大隈重信 エ 松方正義


問7 下線部c財政改革に関連して誤っているものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 日本銀行を設立して、銀兌換の銀行券を発行した。

 イ エ場建設などを中心に官営事業を推進した。
 ウ 軍事費以外の歳出を抑制し、歳入の余剰で不換紙幣を処分した。
 エ 厳しい財政緊縮の結果、米や繭など物価が大きく下落し、深刻な不況が訪れた。

問8 [ 4 ]にあてはまるもっとも適切な語句を下記のア~エから一つ選べ。


 ア 寄生地主
 イ 財閥  ウ 名主
 エ おとな(乙名・長)


問9 [ 5 ]にあてはまるもっとも適切な人物を下記のア~エから一つ選べ。


 ア 西園寺公望 イ 桂太郎

 ウ 大隈重信  エ 山県有朋

問10 下線部d憲政党の説明として誤っているものを下記のア~エから一つ選べ。


 ア 1898年に自由党と立憲改進党が合同して結成された。

 イ 結党後、はじめての政党内閣である隈板内閣を組織した。
 ウ 党内対立が激化した結果、憲政党と憲政本党に分裂した。
 エ 1900年に解党して、伊藤博文派の官僚とともに立憲政友会を結成した。」

(答:問1ア、問2エ、問3エ、問4ア、問5ア、問6エ、問7イ、問8ア、問9エ、問10ア※自由党と進歩党 飛躍は自信 憲政を。)〉


2014立大・済コミュ福観光

 明治政府の安定にとっての課題の1つは、財政的基盤をいかに作るかという点であった。そこで行われた改革が、4)地租改正である。これとともに、財政負担となっていた秩禄を処分するために、1876年に( ホ )証書を交付し秩禄の廃止を定めた。これらの政策により明治政府の財政は安定したが、農村における実質的な負担は従来の年貢と変わらない場合が多かった。

問4.これに関する出来事について、もっとも古いものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.地券交付の開始→地租改正条例の公布→地租率を2.5%に修正→伊勢暴動の発生

 b.地券交付の開始→地租改正条例の公布→伊勢暴動の発生→地租率を2.5%に修正
 c.地租改正条例の公布→地券交付の開始→地租率を2.5%に修正→伊勢暴動の発生
 d.地租改正条例の公布→地券交付の開始→伊勢暴動の発生→地租率を2.5%に修正

(答:ホ金禄公債、問4.b※伊勢暴動は1876
年12月)
2013学習院大学・経済:「

 幕藩体制が行き詰まって、最終的に明治新政府が成立するが、新政府は諸藩から引き継いだ債務を切り捨て、かつ財源を安定するために土地制度・租税制度の改革を行う必要があった。新政府は1872年、
16)〔イ)棄捐令 ロ)田畑永代売賀の禁令 ハ)身分解放令 ニ)秩禄奉還の法 ホ)身分統制令〕を解くとともに、地券を発行して土地の所有権利を認めた。さらに、翌年には地租改正条例を公布して、地租改正事業に着手した。これによって近代的な租税の形式が整備された。一方、地租改正は従来の年貢による収入を滅らさない方針で進められたので、1876年には伊勢暴動と呼ばれる地租改正反対一揆が
17)〔イ)広島県 ロ)茨城県 ハ)山口県 ニ)三重県 ホ)岡山県〕などで起こった。そのため、翌年には地租の税率を引き下げざるをえなかったのである。」


(答:16ロ、17ニ)〉

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政体書

2017-08-03 | 生物暗記法

接待三軒 福を添え。

福岡孝弟(ふくおかたかちか))(政体書)(三権分立・臣(そえじまたねおみ))

 [point]
1.政体書は、三権分立制をとる明治政府の組織法で、福岡孝弟副島種臣が起草。

[解説]
1.政体書(1868.閏(うるう)4)は、政府の組織を整えた法令。国家権力を太政官に集め、これにアメリカ合衆国憲法を模倣した三権分立制をとり入れ、高級官吏4年ごとに互選で交代させるなど、欧米的な近代政治の体裁をとったもの。参与福岡孝弟・同副島種臣が起草。

2016立命館大・全学部2/3:「

 明治維新後、中央集権化を進めた新政府は、1868年閏4月に政体書を公布して太政官を設立し、そのもとに行政官(行政)、議政官(立法)、[ A ]官(司法)をおいて、一応の三権分立の枠組みを整えた。

問a  空欄[ A ]にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。」


(答:刑法)〉

2016明大・法:「
一 大(おおい)ニ斯国是(このこくぜ)ヲ定メ制度規律ヲ建ルハ、御誓文ヲ以テ目的トス。
一 天下ノ権力総(すべ)テ之ヲ太政官ニ帰ス、則(すなわち)政令二途(にと)ニ出ルノ患(うれい)ナカラシム、a.太政官ノ権カヲ分ツテ、立法行政司法ノ三権トス。則偏重ノ患無カラシムルナリ。
一 立法官ハ行政官ヲ兼ヌルヲ得ズ、行政官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ズ。
一 各府各藩各県、皆貢士(こうし)ヲ出シ議員トス、議事ノ制ヲ立ツルハ輿論(よろん)公議ヲ執(よ)ル所以(ゆえん)ナリ。
一 諸官四年ヲ以テ交代ス。b.公撰入札ノ法ヲ用フベシ、但(ただし)今後初度(しよたび)交代ノ時其一部ノ半(なかば) ヲ残シ、二年ヲ延(のば)シテ交代ス、断続宜(よろし)キヲ得セシムルナリ、若シ其人衆望(しゆうぼう)ノ所属アツ テ去リ難キ者ハ猶数年ヲ延サザルヲ得ズ。

問1 上の文章は、1868(慶応4)年閏4月、「御誓文」を具体化するために明治政府によって頒布されたものである。何と呼ばれているか。

問2 下線部aについて、何の原則と呼ばれているか。漢字4字で答えなさい。


問3 下線部bについて、現在では何と呼ばれているか。漢字2字で答えなさい。


問4 この文章を起草した人物の一人で、佐賀藩出身、1871(明治4)年に「外務卿」に就任したが、のち征韓論を主張して下野した人物はだれか。その氏名を記しなさい。」


(答:問1政体書、問2三権分立、問3選挙、問4副島種臣)

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1873(明治6)年 〈地租改正条例〉★★

2017-08-03 | 『新日本史頻出年代暗記』
  • 明治時代(明治天皇)

Land Tax Reform Law is issued.

な3%(パー) 地租返せ。

 1873年  地価の3%   地租改正条例     

財源の安定をはかった明治政府は税制の近代化にも着手。1872年に田畑永代売買の禁令を解除し、地券を発行して土地の所有権を明確にした。

1873年、地価の3を現金で納めさせる地租改正条例を公布した。

 

□近現476.徴兵令 ◇B

[ゴロ]不慣れの/二十歳(はたち)さんに/徴兵令


(代人料270円・満20歳以上男子・年間)(1873年・徴兵令


[句意]苦役に不慣れな二十歳さんには残念な徴兵令だよ、という句。


[ポイント]

1.徴兵令は、1873年、発布された。満20歳以上男子3年間徴兵されることになったが、代人料270円など各種の免除規定があった。

[解説]

1.徴兵告諭は、1872年11月、徴兵制に関して予告する太政官布告として出された。徴兵告諭では、兵役はいわゆる「血税」ともいうべきもので、満20歳以上の男子を兵籍に編入する国民皆兵の方針を明らかにしている。

2.徴兵令は、兵部大輔山県有朋らの建議により翌1873年1月に発布された。同令で士族・平民を問わず満20歳以上の男子3年間徴兵するという兵制を定めた。


3.しかし(1)戸主(世帯主の旧称)やその相続者、(2)官吏、官立学校生徒、(3)代人料270円を納入する者、など多くの兵役免除規定があり、実際に兵役を負担したのは農民など中・下層国民の二男以下だった。


4.このため経済的負担(一家の収入を稼ぎだす労働力を奪われる)に対する不満から、各地で血税一揆と呼ばれた徴兵反対一揆が起こった。これは徴兵告諭の中の言葉「血税」を巧みに誇張し団結を高めたもの


5.1889年免役諸規定を廃止する改正があり、ようやく国民皆兵の原則が確立された。

 

2017同志社大・全学部

 憲法制定については伊藤博文を中心にして準備が進められたが、地方制度の改革については1886年に来日したfドイツ人顧問の助言を得て( g )が中心になって進められ、1888年制定の市制・町村制につづいて、1890年には府県制・郡制が公布され、日本独自の地方自治制が確立された。

【設問g】空欄( g )に入る適切な人物名を漢字で記せ。この人物は1873年の徴兵令の制定に尽力するなど、近代軍制の基礎を築いたことでも知られている。」


(答:山県有朋)〉


2017早大・政経

(2)下線部(い)兵制何に由て更張するを得んや、百事何に依て振興するを得んやに関連する以下の記述のうち、誤っているものはどれか。

 a 1871年に着工した富岡製糸場は、フランスから輸入した新鋭機械を用いて生糸の生産を行った。

 b 明治政府は、1871年に新貨条例を定め、翌年には初の円単位の紙幣である太政官札を発行した。
 c 1877年には内務省の主催により上野で第1回内国勧業博覧会が行われた。

 d 明治政府は、旧藩営の高島、三池などの炭鉱を接収し、官営事業として経営した。
 e 1873年の徴兵令では、官吏、陸海軍学生、官立専門学校以上の学生、洋行修行中の者、戸主とその相続者、代人料270円以上の上納者は兵役が免除された。」

(答:b×太政官札発行は1868年)〉


2016同志社大・全学部:「

【設問j】徴兵令に反対して各地で起きた農民一揆を何というか。解答欄Ⅲ-Aに漢字2字で記せ。」

(答:血税)〉


2014文教大学・全学部:「

問6  つぎのA・Bの正誤を判断せよ。

 A  1872年の徴兵告諭の文言の中には、「血税」の文字があったため血液を抜かれると、誤解されたこともあり、徴兵反対一揆が起きた。

 B  1873年の徴兵令の規定では、満20歳以上の男子に兵役を課したが、実際の徴兵の対象は戸主やその跡継ぎなどに限定されていた。」

(答:A〇、B×戸主やその跡継ぎなどは徴兵免除)〉


2014明大・情報コミュ

問4 下線部(エ)徴兵の義務に関連して、下の史料の空欄(   )に入る語句を漢字で記入しなさい。

 我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし(中略)、およそ天地の間、一事一物として税あらざるはなし、以て国用に充つ。然らば則ち人たるもの固より心力を尽くし、国に報せさるへからす、西人これを称して(   )という。」


(答:血税)〉

[point]
1.地租改正(1873年)で、地価3%地券所有者が金納した。

 

[解説]
1.地租改正条例(1873年7月)は税制上の大改革である。江戸時代からつづく基本税制は年貢米をとるものだったが、非常に歳入が不安定であった。なぜなら年貢は豊凶で変動し、さらに政府自身が市場に売り出し現金化しなければならない。よって相場価格の変動にも悩まされた。そこで金銭で安定した歳入を得るように改革したもの。

 

2.改革の骨子は(1)課税基準は石高から地価へ、(2)納税法は現物納から金納へ、 (3)税率は五公五民などから地価の3%へ、(4)納税者は耕作者から地券所有者になった。

3.政府は「従来の歳入を減ぜざること」の方針で、その農地の従来の歳入額から逆算して地価を算定。このため、地租額は増えこそすれ減るはずがなかった。かつ山林・原野などの入会地など、所有者不明の土地が官有地に編入されたので、農民は負担の軽減を求めて地租改正反対の一揆を起こした。


2017関西学院大・全学部2/1:「

問8  つぎのa・bの正誤を判定せよ。
 
 a.西郷隆盛を中心とする留守政府は、廃藩置県や学制・徴兵制の実施、地租改正などの大きな内政改革を推進した。

 b.地租改正条例では税率を地価の5%としたが、反対の一揆が起こったので、政府は税率を3%に引き下げた。」

(答:a×、b× ※a廃藩置県は留守政府以前の政策、b3%を2.5%にした)〉


2017関西大・全学部2/8:「

C 新政府は、1871年に田畑勝手作りを許可し、翌年には田畑永代売買の禁止令を解き、(3)【(ア)賞典禄(イ)秩禄公債(ウ)地券】を発行して土地の所有権をはっきり認めた。」

(答:ウ)〉


2016同志社大・全学部

 なお政府は税制に関しても大きな改革を行い、1872年には( k )を発行して土地の所有権を認めた。これをうけて翌年にはク)地租改正条例が定められ、以後全国で地租改正が実施された。この近代的な租税システムの確立によって、政府の財政は安定をみたのである。

【設問k】空欄kに入る語句を、漢字で記せ。


【設問ク】地租改正について述べた文として、正しいものを次のうちから1つ選びべ。


 1.課税対象を地価から収穫高に変更した。

 2.金納を物納に改めた。
 3.地租の税率は2%に抑えられた。
 4.土地所有者を納税者とした。」

(答:k地券、ク4)〉)


〈2016早大・文化構想

 明治政府は安定的な財源を確保するため、土地所有権を認め、e地価を記載した地券を交付し、地価に応じて地租を課した。だが、日清戦争後には軍備拡張の実施などにより、政府は増税をおこなう必要が出てきた。f第2次山県有朋内閣はg.政党の支持を得て、地租増徴案を成立させた。

問8 下線e地価に関連して述べた文として正しいものはどれか。2つ選べ。


 ア 地租は、物納とされた。

 イ 地租は、従来の年貢による収入より減らさない方針であった。
 ウ 地券は、実際の耕作者である小作人に交付された。
 エ 地租率は、毎年の豊作・凶作に応じて変更した。
 オ 地券所有者が、納税者となった。

問9 下線fに関連して、第2次山県有朋内閣で実施されたこととして誤っているものはどれか。1つ選べ。


 ア 文官分限令を制定した。

 イ 軍部大臣現役武官制を定めた。
 ウ 衆議院議員選挙法を改正した。
 エ 金本位制を確立した。
 オ 治安警察法を制定した。

問10 下線g政党について、この政党の名称を何というか。漢字で記述しなさい。」


(答:8イ・オ、9エ、10憲政党)〉


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第8章 近世ヨーロッパ世界の形成 2節 ルネサンス

2017-08-02 | 生物暗記法

 

用語リストへ

Text p.205

ア.ルネサンスの本質

■ポイント ルネサンスの意味と歴史的背景を考え、特にその最初の舞台となったフィレンツェについて知る。

ルネサンス  a 14世紀  に始まりb 15世紀  が最も盛んでc 16世紀  にひろがる。
    • 前提:西ヨーロッパでd 百年戦争・黒死病・教会大分裂・オスマン帝国の脅威など  による危機意識があった。
    • 地域:e イタリア  、に始まり、ついでf ネーデルラント  から西ヨーロッパにひろがる。
    • 背景:g 封建社会がくずれ、商工業が復興し、都市が発展したこと。    
    • 意味:h ギリシャ、ローマの古典文化を手本とし、それを再生すること。    
    • 意義:i 人間性の自由・解放を求め、個性を尊重しようとする文化運動であった。    

Text p.206

  • 基本的な精神:人間らしい生き方の探求=j ヒューマニズム(人文主義、人間主義)   
イタリア=ルネサンス  
  •  カトリック教会の権威   ・b ローマ古典古代の伝統   があったこと。
  • 1453年 オスマン帝国のメフメト2世、コンスタンティノープルを征服 → c ビザンツ帝国の滅亡   
      = イスラーム圏を介して、ギリシア・ローマの古典を学んでいた知識人多数が北イタリアに亡命。
  • 条件 d 地中海貿易による都市の発達と豊かな市民生活の形成   があったこと。     
        e メディチ家など  の大商人・f ローマ教皇  などが芸術・学芸の保護者(パトロン)となった。

解説

 15世紀末、フィレンツェ共和国では急進的な宗教改革家サヴォナローラが一時権力をにぎるという混乱があったが、市民の民主的要求も強まり、実力者メディチ家を追放した。そのとき、マキャヴェリも市政に参加している。そのころイタリア戦争が始まり、フランスが侵入、フィレンツェはフランスに協力したが、フランスが敗れ、メディチ家が復活したためマキャヴェリは罷免された。その後もイタリアをめぐるフランス(フランソワ1世)とスペイン(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の対立が続き、マキャヴェリはその中間にあるフィレンツェの外交に苦慮した。

C 新しい政治思想の芽生え

マキャヴェリ

 マキャヴェリ   

  • 都市国家a フィレンツェ  でのb マキャヴェリ  の活動。
    • 1513年頃 c 君主論  を著す。(刊行は32年)
      → イタリアの統一を実現できる君主の出現を期待した。そのためには君主は
        d ライオンのような勇猛さと狐のような狡猾さ   が必要であるとたとえる。
    • 意義:e 政治を宗教や道徳から切り離す近代的な政治観が生まれる。    
       → f マキァヴェリズム  と言われる近代的政治思想の始まりとされる。
フィレンツェ    の繁栄。
  • 14~16世紀、トスカナ地方の文化と経済の中心地として繁栄。
  •  コムーネ(自治都市)  の一つ。b 東方貿易、毛織物生産、金融業   で繁栄。
  • 1434年 金融財閥のc メディチ  家が実権を握る。→  多くの画家、学者の保護者となる。
     ▲d コシモ=ディ=メディチ  はe プラトン=アカデミー  を開設した。

    解説

     1459年、フィレンツェの富豪コシモ=ディ=メディチが別荘に設けた学園。1453年にビザンツ帝国が滅亡、多くのギリシア人哲学者が亡命してきてプラトン哲学を伝えたことに刺激され、プラトンがアテネに設けたアカデメイアをモデルに開設した。ビコ=デ=ミランドラらのイタリア人学者も集まり、ギリシア哲学の研究を行い、るんさんすのヒューマニストの活躍の場となった。
     孫の ロレンツォ=ディ=メディチ は専制君主としてフィレンツェに君臨する。
  • イタリアは、北部の有力な都市共和国、中部のローマ教皇領、南部のナポリ王国に分裂。
    •  ミラノ  :ロンバルディアの中心都市。毛織物生産、武器生産で繁栄。
    •  ローマ教皇  ユリウス2世 によるh サン=ピエトロ大聖堂  の修築が始まる。
アルプス以北    への拡大とその限界。
  • 16世紀  イギリス・フランス・スペインに広がるが、a 国王に保護され、貴族的な性格が強かった。   
    そのため、芸術面での革新にとどまり、政治・教会・社会体制の批判には至らなかった。 
    しかし、16世紀のb 宗教改革  とともに、c ヨーロッパの近代社会  を生み出す前提となった。

F イタリア・ルネサンスの衰退

  • 1494~1544年 a イタリア戦争   イタリアをめぐるドイツ・フランス・スペインの抗争
    → イタリアが戦場となって荒廃し、文化の中心がイタリアからアルプス以北に移る。(後出)
  • 15~16世紀 b 大航海時代  の到来 → 交易の中心、大西洋岸に移る。=商業革命(前節)
先頭へ
用語リストへイ.文芸と美術

■ポイント ルネサンスの文学・美術の豊かな内容を知り、理念であるヒューマニズムについて考える。

(1)文芸(文学)と思想

ルネサンス文芸  
  • 古代ローマ以来のラテン文学の伝統に対し、フィレンツェの市民層から新しい文学が生まれた。
    •  ダンテ  :フィレンツェ人、ゲルフとギベリンの争いにまきこまれ、ラヴェンナで晩年を過ごす。
       1304~21年b 『神曲』  をラテン語でなくc 口語(トスカナ語)  で著す。

      解説

       13世紀の末、イタリアではゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)が対立、フィレンツェはゲルフに属していた。ダンテもゲルフであったが、ゲルフ内部の党派抗争に巻き込まれてラヴェンナに亡命、そこで14世紀の初めごろ『神曲』を書いた。内容は、古代ローマの詩人ウェルギリウスが、死後の世界の地獄、煉獄、天国を経巡る物語で、中世的な世界観、迷信の域を出ていないが、重要なことはこの作品がトスカナ地方の口語で書かれたことである。
        = カトリックの世界観にたちながら人間精神の解放を主張。→ イタリア国民文学の始まり。
    •  ペトラルカ  :フィレンツェ人、諸国を遍歴し人間の自由を唱った叙情詩人。『抒情詩集』など。
    •  ボッカチオ  :フィレンツェ人。f 『デカメロン』   人間の赤裸々な欲望を描く。

      解説

       ボッカチオはフィレンツェで1348年の黒死病(ペスト)の大流行を体験し、1353年に書いた『デカメロン』の冒頭でその様子を語っている。また彼は中世ヨーロッパの文化史上では忘れられていたホメロスの『イーリアス』のギリシア語原典を発見し、それを翻訳して紹介したことも業績である。
       1353年のイタリアでのg ペストの流行  が描かれている。近代小説の先駆といわれる。
  • イギリス  h チョーサー  :1387~40年 i 『カンタベリ物語』  を著し、中世末期の庶民生活を描く。
ヒューマニスト   の思想
  • 古典研究がカトリック教会批判と結びつき、人間精神の解放をめざす思想が生まれる。
    • ロイヒリン :ドイツ 1506年 自由な古典研究を行い、カトリック神学者から異端として訴えられる。
    •  エラスムス  :ネーデルラント 1509年 b  『愚神礼賛』  を著し、カトリック教会批判を展開。
       → ルターとは対立し、宗教改革には反対。
    •  トマス=モア  :イギリス 1516年 d 『ユートピア』  を発表、イギリス社会を風刺。

      解説

       『ユートピア』は、ドイツでルターの宗教改革が始まった1517年の前年に発表された。アメリゴ=ヴェスプッチの航海に同行した人物が見た新世界にある国と仮定して、絶対王政下のイギリスを批判し、貧富の差のない、戦争のための同盟を結ばない、理想国家を描いた。特に、当時のイギリスで進行していたエンクロージャー(囲い込み)を「羊が人間を食べている」と言って批判した。またモアはヘンリ8世が離婚問題でローマ教皇と対立したことを批判して怒りを買い、処刑された。
       → 国王e ヘンリ8世  の離婚を批判して刑死。
    •  ラブレー  :フランス 1532~64年 カトリック教会や社会の因襲を風刺。
       g 『ガルガンテュワとパンタグリュエルの物語』   を著す。
    •  モンテーニュ  :フランス 1580~88年 i ユグノー戦争  (後出)の時期、『随想録』を著す。
C ルネサンス末期の文学 16~17世紀 各国の国民文化が形成される。
  •  セルバンテス  :16~17世紀 スペイン レパントの海戦に参加して負傷。
      b 『ドン=キホーテ』  による封建制の批判、スペイン風刺文学の傑作とされる。
  •  シェークスピア  :16~17世紀 イギリス絶対主義、d エリザベス1世  の時代の人。
      四大悲劇e 『ハムレット』、 『リア王』、 『マクベス』、 『オセロー』  など。
     → 人間心理の葛藤をテーマにした脚本を残し、後世の文学、演劇に大きな影響を及ぼした。

(2)美術(絵画と建築)

Text p.207

近代絵画   
    • 13~14世紀   フレスコ画 から 油絵技法 へ
      •  ジョット  :ダンテの肖像、「聖フランチェスコの生涯」等
サンタ=マリア大聖堂

 サンタ=マリア大聖堂   

  • 15世紀  b 遠近法  の確立。
  • マサッチョ :写実主義の基礎を築く。
    • ギベルティ  :彫刻 「天国の門」等
    • ドナテルロ  :彫刻での写実主義の確立。「ダビデ像」等
ルネサンス様式   の建築
  • 円蓋(ドーム)とギリシア風列柱の組み合わせによる建築様式。
    •  ブルネレスキ  :b サンタ=マリア大聖堂  
      (フィレンツェの大聖堂)の大円蓋を完成させる。(右図)
    •  ブラマンテ  :ローマのd サン-ピエトロ寺院  
      を最初に設計。 → 後にe ミケランジェロ  も関わる。
C イタリア美術の最盛期 15~16世紀

解説

 ルネサンス以前の中世ヨーロッパの絵画は、絵画・彫刻・建築のいずれもがキリスト教の教会に付属していた。その表現も、イエスやマリア、その他の聖人を描くのみで、人間は描かれたとしても没個性的で平面的であった。それに対してルネサンス時代から、芸術は教会から独立し、人間そのものの美しさを前面に出して描くようになった。作者も職業として作品を作るようになり、メディチ家などの富豪やローマ教皇、各国の国王や領主を保護者として活動するようになった。技法的には中世までのフレスコ画から油絵に移行し、また遠近法が取り入れられるようになった。
  •  ボッティチェリ  :15世紀 『ヴィーナスの誕生』、『春』。フィレンツェでメディチ家の保護を受けて活動。
  •  ラファエロ  :『聖母子像』、『アテネの学堂』。フィレンツェとローマで活躍。
  •  ミケランジェロ  :フィレンツェで『ダヴィデ像』、ローマでヴァチカン宮殿・システィナ礼拝堂の

    解説

     ミケランジェロはフィレンツェ共和国の共和政の象徴として彫刻作品『ダヴィデ像』(1504)を作った。ローマ恐慌に招かれ、ヴァチカン宮殿のシスティナ礼拝堂の天井に『天地創造』を描いた。いずれも聖書を題材としているが、描かれたのはいきいきとした人間群像であり、教皇を困惑させた。1529年には独裁者メディチ家を追放したフィレンツェに戻り、共和制を守る戦いの先頭に立ったが敗れ、フィレンツェを離れた。晩年はローマで過ごし、システィナ礼拝堂の正面に大作『最後の審判』を描いた。
      『天地創造』、『最後の審判』を制作。建築家としてはd サン=ピエトロ大聖堂  の建築に参加。
  •  レオナルド=ダ=ヴィンチ  :『モナ=リザ』、『最後の晩餐』など。

    Text p.208

    絵画だけでなく自然科学・医学も研究、ルネサンスのf 万能人  の典型。

    解説

    ダ=ヴィンチ

     ダ=ヴィンチはフィレンツェの郊外ヴィンチ村で生まれ、フィレンツェで修業し、ミラノ、ローマでも活躍した。ミラノの教会の壁画として制作した『最後の晩餐』は油絵技法と遠近法を駆使した代表作。『モナ=リザ』は肖像画の傑作とされる。彼は画家・彫刻家・建築家だったばかりでなく、ミラノでは軍事技術者として仕え、潜水艦や飛行機、ヘリコプター、戦車などを構想した。また人体の解剖も行い、すぐれた音楽家でもあって「万能人」の典型であった。科学技術や絵画に関する膨大な手稿を残している。晩年はフランスのフランソワ1世に招かれて、アンボワーズに住み、1519年にそこで死去する。そのため『モナ=リザ』はパリのルーヴル美術館に所蔵さている。

    ▲晩年はフランスのg フランソワ1世  の保護を受ける。
春 モナ=リザ
      a ボッティチェリ  :『春』      e ダ=ヴィンチ  :『モナ=リザ』


D アルプス以北のルネサンス美術
  • ネーデルラント(オランダ)
    •  ファン=アイク兄弟  :14~15世紀 油絵技法を完成し、b フランドル派   を開く。
    •  ブリューゲル  :16世紀 農民を題材にした絵画。「農民の踊り」など。
  • ドイツ 15~16世紀
    •  デューラー  :銅版画を作成。「自画像」  
    •  ホルバイン  :「エラスムス像」、「トマス=モア像」

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用語リストへウ.科学と技術 
■ポイント ルネサンスが大航海・軍事革命・宗教革命などの変革と連動していることを理解する。
1.地動説  
  •  コペルニクス  (ポーランド)1530年ごろ 天体観測に基づき地動説を主張。
  • ▲b ジョルダーノ=ブルーノ  (イタリア) 地動説・汎神論を説く。1600年焚刑。
     カトリックの世界観=聖書の天地創造説にもとづく天動説に対する挑戦となる。 17世紀の「科学革命」へ。

Text p.209

2.三大発明  
    •  羅針盤   中国の宋 → イスラーム商人 → 14世紀イタリアで改良される。
       → b 遠洋航海  を可能にする → 15世紀末 大航海時代をもたらす。
    •  火薬   中国の元で実用化 → イスラーム商人 → ヨーロッパに伝来 → d 火砲(鉄砲) の発明
       → 騎士の没落 = 軍事革命(後出)
活版印刷
  •  活版印刷術   活字印刷は宋代に始まる。
     1440年 ドイツのf グーテンベルク  が実用化。
     活字合金を鋳型で鋳造し、加圧式の印刷機を改良。(右図)
     g 製紙法  の伝播と結びつき、書物の迅速・安価・大量な出版を可能にした。
    → h ルター  、ドイツ語聖書の大量印刷。
    → i 宗教改革  の広がり。
 
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第4章 イスラーム世界の形成と発展 1節 イスラーム世界の形成

2017-08-01 | 生物暗記法

 

用語リストへア.イスラーム教の誕生
■ポイント 「世界史を変えた」といわれるイスラーム教の特質を理解し、なぜ急速に拡大したか考える。
 アラブ人 の成長 a アラビア半島 の砂漠で活動したセム系アラビア語を使う民族。
・ラクダ・羊などを飼育する遊牧生活と共に商業・交易活動を行う。▲b ベドゥイン ともいう。
・6世紀後半 c ササン朝ペルシア とd ビザンツ帝国 の抗争が続く。
 → 両国国教のe オアシスの道 と、d ビザンツ帝国 の支配下にあったf 紅海貿易 につながる
  g 海の道 とを利用していた東西交易が衰退し、
かわってアラビア半島西部のルートか盛んになる。
 → h メッカ などのアラブ人の商業都市が中継地として栄える。偶像を崇拝する各部族が抗争する。
 ムハンマド の登場 メッカのクライシュ族の商人。a マホメット ともいう。
・610年 唯一神b アッラー の啓示を受けc 預言者 として自覚し布教を開始。
 その教え d アッラーへの服従、厳格な一神教、偶像崇拝の否定 など。
 その特徴 e 有力氏族の富の独占を批判。血統や貧富の差を否定して、万民の平等を説いた。 
 → 急速に信者を増やす。従来の部族制と多神教を守ろうとする大商人たちによる迫害を受ける。

解説

彼の登場以前の部族神を崇拝する多神教の時代をイスラーム教ではジャーヒリーヤといっている。ジャーヒリーヤとは「無明(むみょう)」または「無道」とも訳され、イスラーム以前の砂漠の遊牧民ベドウィン(アラブ人)が、部族的社会の中で、祖先崇拝や偶像崇拝を行い、また迷信を信じ、現世の栄華を求め、略奪や抗争をこととしていた状態を言う。このような神を恐れず、真理に無知であった人々に対する警告者として登場したのがムハンマドであった。
 イスラーム教 の成立
・a 622 年、迫害を逃れb メディナ に移住し、信者の共同体を建設。これをc ヒジュラ(聖遷) という。
 → イスラーム教徒(d ムスリム )は、ムハンマドを信仰指導者かつ政治指導者と仰ぐ、
   共同体(e ウンマ )を結成。 → この年7月16日をf イスラーム暦 の元年1月1日とする。

解説

イスラーム暦はヒジュラ暦ともいわれ、西暦622年を元年とし、太陰暦(月の満ち欠けによる暦)を厳格に守って一年を354日とする。第2代カリフのウマルの時に定められた。現在でもイスラーム世界ではその暦が使われているが、不便な点が多く、太陽暦と併用されている。ただし、イスラーム暦と西暦は1年の日数が違うから、簡単には換算できない。なお、トルコではケマルパシャのトルコ革命の世俗化によって西暦が使用されている。
 アラビア半島の統一 
カーバ神殿
・630年、ムスリムを率いa メッカ を征服。
 → b カーバ を破壊しイスラームの正殿に造り直す。(右写真参照)
 → c アラビア半島の祖部族を統一し、イスラーム国家を樹立した。 
★イスラーム教の特徴
 1.a 厳格な一神教であること。 
 2.b 偶像崇拝を厳格に否定していること。 
 3.c 政治と宗教を一致させていること。 
 4.d 『コーラン』に基づき、六信と五行を信者の義務とすること。 

Text p.102

※e コーラン アッラーの啓示の書。アラビア語で書かれる。
 → 旧約聖書・新約聖書も神の啓示の書として認め、ユダヤ教徒・キリスト教徒をe 「啓典の民」 とする。
 = 同じ一神教の信仰を説く予言者の宗教と認める。
※六信:f 神・天使・啓典・預言者・来世・神の予定  
※五行:g 信迎告白・礼拝・喜捨・断食・メッカ巡礼  

解説

礼拝の作法礼拝は1日五回、メッカの方を向いておこなわれる。金曜日にはモスクにおいて集団礼拝がおこなわれる。左の図はその作法を示したもので、1~17の動作を1サイクルとして行う。<中村廣治郎『イスラム教入門』岩波新書 p.115 より> 

アラビア半島とイスラーム教関連の重要地名

アラビア半島とイスラーム教関係の重要地名

 イスラーム国家の都
  1. メッカ 
  2. メディナ 
  3. ダマスクス 
  4. バグダード 
 その他の重要地名
  a. バスラ 
  b. クーファ 
  c. カーディシーヤの戦い 
  d. ニハーヴァンドの戦い 
  e. カルバラーの戦い 
  f. クテシフォン 
  g. フスタート 
  h. コンスタンティノープル 
  i. イェルサレム 

 
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第8章 近世ヨーロッパ世界の形成 1節 ヨーロッパ世界の拡大

2017-08-01 | 生物暗記法

 

用語リストへ

Text p.201

ア.大航海時代

■ポイント ポルトガルによる新航路の開拓の経緯とその地理的内容、歴史的意義を正確に抑える。

大航海時代  15世紀末から16世紀 ヨーロッパ人の海外進出が展開される。
  • 背景:十字軍以来、アジアへの関心が高まる。a マルコ=ポーロ  のb 『世界の記述』  などに刺激された。
       c 遠洋航海術  の発達。羅針盤の改良・快速帆船の普及・緯度航法など。
       d 香辛料  の需要の増大。ヨーロッパでの肉食の普及により莫大な富をもたらす。

    Text p.202

       e レコンキスタ  の進行。イベリア諸国でのキリスト教の布教熱の高まり。
  • ▲直接的要因:15世紀 f オスマン帝国  の地中海東岸制圧による東方貿易ルート遮断。
     → g ムスリム商人  を介さず直接にh 香辛料貿易  を行い利益を上げようとした。
ポルトガル   15世紀 君主権を確立。商人層によるアフリカ西岸の探検開始。
エンリケ記念碑

リスボンの大航海時代モニュメント

  • 「航海王子」a エンリケ  がアフリカ西岸探検事業を推進。
     ▲1415年 ジブラルタル海峡アフリカ側の港b セウタ  を攻略。
     ▲1432年ごろ 大西洋上のc アゾレス諸島  を領土にする。 
     ▲1445年 アフリカ西端のd ヴェルデ岬  に到達。
  • ▲15世紀後半 国王アフリカ西岸でのe 奴隷貿易  始める。

解説

 ポルトガルの航海熱は初めからアジアとの香料貿易にあったのではない。エンリケやジョアン2世は、公式にはアフリカの内陸に存在するキリスト教の王プレスタージョンを探すことにあった。同時にアフリカ西岸の黄金、象牙、そして奴隷を獲得するためであった。特に黒人奴隷貿易がすでにポルトガルによって始まっていることに注意しよう。アフリカ西岸を南下するうちに喜望峰に到達し、インドへの直接航路開拓の望みが生まれ、香料貿易が新たな目的となった。

インド航路の開拓  

    • 15世紀末 国王a ジョアン2世  が国営事業として推進した。
    • 1488年 b バルトロメウ=ディアス  、c 喜望峰  に到達。
    • 1498年 d ヴァスコ=ダ=ガマ  、インド西岸のe カリカット  に到着。
       →  ムスリムの水先案内人▲f イブン=マージド  の手引きでアラビア海を横断。

解説

 ヴァスコ=ダ=ガマ船団はアフリカ東岸のマリンディでイスラーム教徒の水先案内人イブン=マージドを雇い、その力でインド洋を横断できた。インド洋はすでにムスリム商人のダウ船が行き来する交易圏が成立し、マムルーク朝が支配していた。ポルトガルはそこに割り込む形となり、1509年にはディウ沖の海戦でマムルーク海軍を破り、制海権を獲得した。なお、ヴァスコ=ダ=ガマが到達したカリカットはヴィジャヤナガル王国の支配の藩王が下にあり、北インドはデリー=スルタン朝のロディ朝が支配、ムガル帝国はまだ成立していない。
  • 香辛料の直接取引 → ポルトガル王室に莫大な利益をもたらし、首都g リスボン  、世界商業の中心となる。
  • 16世紀、ポルトガル、h ムスリム商人  と競合しながらインド洋貿易に進出。香辛料貿易で利益を上げる。
  • 1510年 ポルトガル、i ゴア  を占領。 → 1511年 j マラッカ  占領(7章4節)

解説

 ポルトガルのインドにおける香料貿易は、平和的な交易だけではなく、武力による侵略行為であった。ヴァスコ=ダ=ガマは1502年の第2回遠征ではカリカットを砲撃し、コーチンに砦を築いた。さらにポルトガルは1509年のディウ沖の海戦でマムルーク海軍をインド洋から排除し、1510年には軍隊を派遣してゴアを占領している。そして翌年はマラッカに進出し、1517年には早くも中国の広州に姿を現している。
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用語リストへイ.アメリカ大陸の征服

■ポイント ヨーロッパ人のアメリカ新大陸発見の経緯と、その征服の過程、世界史的な影響をおさえる。

スペイン   女王a イサベル  、ポルトガルに対抗し、西回りでアジア進出を図る。
コロンブスの上陸

 コロンブス の上陸 17世紀の絵

    •  コロンブス   ジェノヴァ生まれの船乗り。

Text p.203

    • 女王の命令で、大西洋を西に向かいインドをめざす。
    • フィレンツェの天文学者c トスカネリ  の世界球体説を信じる。
    •  1492  年 e サンサルバドル島  に到達。
        = 現在の西インド諸島の一部、バハマ諸島にあたる。
    • 同年、グラナダが陥落。f レコンキスタ  が完了。
  • 前後4回航海し、一時は大陸に上陸、インドの一部と考える。
     → この地をg インディアス  、住民をh インディオ  と呼んだ。

解説

15世紀ヨーロッパでは現在のインドより東のアジア全体を「インディアス」と呼んだ。コロンブスが目指した「インド」とは、現在のインドではなく、このインディアスのこと。しかし情報はマルコ=ポーロの『世界の記述』ぐらいしかなく、インディアスの地形は未知であった。トスカネリは古代のプトレマイオスの世界地図のインディアスをさらに東方に拡がっていると推測し、西廻りで航海すれば東端のジパング(日本)に到達できると説き、コロンブスがそれを信じて実行した。
 トルデシリャス条約   ポルトガルとスペインによる世界分割協定。
    • 1493年 a 教皇子午線  :ローマ教皇▲b アレクサンデル6世  が設定。
       → ポルトガルが異議申し立て。両国が再度交渉。分界線を西に移動させる。

解説

 1453年の教皇子午線はヴェルデ諸島から西に100レグラ(約550km)の子午線とされ、そこから東をポルトガル、西をスペインの領土とすると定めた。教皇アレクサンドル6世はスペイン出身であったので、スペインに有利な裁定であった。ポルトガルのジョアン2世はそれに不満であり、今度は直接交渉に持ち込み、1494年にトルデシリャス条約を締結、分界線を教皇子午線より西へ370レグラ西に移動させた。それは西経46度37分にあたり、南米大陸のブラジルに懸かっていた。当時はブラジルの存在は確認されていなかったが、1500年にポルトガルのカブラルが到着して、ポルトガル領でアルであることが確定した。その後、18世紀にブラジル内陸部で金鉱が発見され、ポルトガル人は分界線を越えて西に進み、事実上領土を拡張し、1750年に事実上トルデシリャス条約は無効とされ、現在のブラジル全域がポルトガル領であることが確定した。
  • 1494年 B トルデシリャス条約  :東をc ポルトガル  、西をd スペイン  の支配地とする。
     → 後に、新大陸のe ブラジル  はポルトガル領、その他はスペイン領となる。
 アメリカ大陸   への進出。
    • 1497年 ▲a カボット  (イタリア人)イギリス王ヘンリ7世の援助で北米探検。
    • 1499~52年 b アメリゴ=ヴェスプッチ  (イタリア人) 南アメリカを探検、新大陸であることを確認。

      解説

       アメリゴ=ヴェスプッチはフィレンツェの人。スペインとポルトガルの王室に招かれ、1799~1502年の間に数度にわたって大西洋を横断し、海岸を広範囲に探検して、この地はアジアの一部ではない「新世界」であると主張した。1507年にヴァルトゼーミュラーが作成した新しい世界地図で、その地は「アメリカ」(アメリゴの女性形)と表記された。ヴェスプッチの航海には資料的に不審な点があるが、南米を探検したことは事実とされている。ただし、コロンブスも第2回航海で1497年にパナマ地峡に到達している(彼自身はあくまでアジアの一部、インディアスだと主張した)ので、ヴェスプッチが大陸への最初の到達者ではない。
       → 1507年 ドイツの地理学者が新大陸をc アメリカ大陸  と命名。
    • 1500年 d カブラル  (ポルトガル人) ブラジルに到達 ポルトガル領とする。
マゼラン

 マゼラン 

  • 1513年 ▲e バルボア  (スペイン) パナマ地峡横断 太平洋岸に到達。
 世界周航   a マゼラン   ポルトガル人。マガリャンイスとも表記する。

Text p.204

  • 1519年 スペインのb カルロス1世  の命令で船団を編成。
    → 西回りで出航、c 香料諸島  をめざす。
    → 南米大陸の南端d マゼラン海峡  を抜け、e 太平洋  を横断。
  • 1521年 f フィリピン  のセブ島に到達、首長ラプラプと戦い、殺される。
    → 部下が船団を率い、g モルッカ諸島  に到達。
  • 1522年9月 船団がスペイン帰着、地球球体説が証明される。
  • 1529年 ▲h サラゴサ条約  :アジア側のスペイン、ポルトガルの勢力圏分割。
     モルッカ諸島  はポルトガル領となる。
アタウアルパの処刑

 インカ  王を殺害

スペインによる新大陸征服  
  • 資源を求めて、a 征服者(コンキスタドール)  たちを新大陸に派遣。
  • 1521年 b コルテス  がメキシコに侵入し、c アステカ王国  を滅ぼす。
     → インディオの反アステカ勢力を利用して都d テノチティトラン  を征服した。
     ▲ユカタン半島ではe マヤ文明  の系統の国々が17世紀まで存続した。
  • 1533年 f ピサロ  がペルーに侵入しg インカ帝国  に遠征。
     → h 火砲と騎兵  の威力により征服。i クスコ  を略奪し、首都リマを建設。
・j ラテンアメリカ  の成立 = メキシコ以南のスペイン・ポルトガル支配地域。

  大航海時代要図
大航海時代

 リスボン      b パロス       c セウタ       d アゾレス諸島  
 ヴェルデ岬     f 喜望峰       g カリカット     h ゴア       
 サンサルバドル島   j マゼラン海峡     k フィリピン      l モルッカ諸島   
m テノチティトラン   n クスコ        o ポトシ銀山     
 ディアス    (1487~88)   B コロンブス   (第1回 1492~93)  C カボット   (1497,98)
 ヴァスコ=ダ=ガマ   (1497~99)  E アメリゴ=ヴェスプッチ  (1499~1500、1502) 
 カブラル   (1500)   G マゼラン   (とその船団)(1519~22)  
 トルデシリャス条約 による東西分界線(1494)

インディオの人口減少    スペインによるa エンコミエンダ制  の導入。 1508年頃から始まる。
  •  インディオへのキリスト教の布教を条件に、農園経営をスペイン人入植者に委託する方式。  
    → インディオには一定の保護が加えられたが、実態は強制労働に変わらなかった。
  • その影響  c エンコミエンダ制の農園での労働力として酷使したため、インディオ人口が激減した 。  
  • 聖職者d ラス=カサス  による批判。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』

    解説

    ラス=カサス

    ラス=カサス(1845-1566)はスペイン人、1503年にエスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ)に渡り、エンコミエンダ経営にあたったが、現地でのスペイン人征服者や入植者のインディオに対する残虐な行為を目の当たりにして衝撃を受け、ドミニコ派の宣教師となり、帰国して当時のカルロス1世にエンコミエンダの廃止とインディオを人間として扱うことを訴えた。彼の訴えは本国でも反響が大きかったが、現地の入植者の反対によって彼の要求は実現しなかった。彼の著書『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』には、エスパニョーラ島を初めとする西インド諸島・新大陸のインディオが奴隷にされたり、反乱を起こして殺されたりしたことによって激減したことを告発している。なお、彼はインディオに代わる労働力としてアフリカ黒人を連れてくることを提唱した。

    → 国王カルロス1世・皇太子フェリペに告発。
・インディオの抵抗 1570年代まで続く。
 インディオの減少に代わる労働力としてアフリカからのe 黒人奴隷  がもたらされるようになる。
先頭へ
用語リストへウ.商業革命と価格革命 
■ポイント 大航海時代の到来による「世界の一体化」が、どのような意義と影響をもっていたか理解する。
1.商業革命   大航海時代の始まりに伴い、ヨーロッパの商業のあり方が大きく変化した。
  •  商業の取引範囲が世界的に広がり、商品の種類・取引額が増大した。   
  •  遠隔地貿易の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に移動した。       
      → 従来の北イタリア諸都市のc 東方貿易  は衰退。
  • 世界商業圏の形成は広大な海外市場を開き、ヨーロッパのd 資本主義的世界経済の発達   をうながした。

Text p.205

2.価格革命  
ポトシ銀山

 ポトシ銀山 

  • 1545年 a ポトシ銀山  発見される。現在のボリビア。スペインが独占。
    → ラテンアメリカのb 銀  が▲c アントウェルペン  (スペイン領)
    を経て大量にヨーロッパに流入。
  •  新大陸産の銀の大量流入によりヨーロッパの物価が急上昇した 。   
  • 銀の大量流通に伴う金融システムの発達も価格変動に影響を与えた。
  • 物価騰貴の影響
      =e 固定地代の収入に依存していた封建領主が没落した。      
  • アジアへの影響
    =f メキシコ銀   と言われたラテンアメリカ産の銀の生産が増大。
     → ガレオン貿易(前出)により、フィリピンのマニラを経て中国(明)にもたらされる。
     → 明代の銀の流通(7章1節)
3.ヨーロッパ東西での分業体制
    •  西ヨーロッパ地域  :商工業が発達し経済的先進地域となる。 → 大都市の出現、人口の増加。 → 食糧不足。
       → 封建領主の没落、農奴の解放が進み、都市市民層の形成が進む。
    •  東ヨーロッパ地域  (エルベ川以東):輸出用の穀物生産が増加し、農業地帯の性格が強まる。
       → 領主が輸出用穀物を生産する直営地経営=c 農場領主制(グーツヘルシャフト)  がひろがる。
       → d 農奴  への支配がかえって強化された。
         このような東ヨーロッパにおける農奴制の強化をe 再版農奴制  という。

解説

 1970年代のアメリカの歴史学者・社会学者ウォーラーステインは、「中核」=北西ヨーロッパ、「辺境」=東欧・新大陸、「半辺境」=南欧 からなる16世紀の分業的世界構造を「近代世界システム」ととらえ、「資本主義的世界経済の形成」と論じた。

  ┌ 中核:西欧地域では賃金労働による商工業と自営農民(ヨーマン)による農業経営
  │
  │    ┌ 東欧では農場領主制と再版農奴制による輸出用穀物栽培
  ├ 辺境:┤
  │    └ 新大陸ではエンコミエンダ制(先住民に対する強制労働)による商品作物栽培
  │
  └ 半辺境:南ヨーロッパ地中海地域では分益小作制による農業
  • 新大陸からもたらされた農作物:
     f トウモロコシ  、g ジャガイモ  、h サツマイモ  、i トマト  など。(p.75,175参照)
     → 特にg ジャガイモ  はヨーロッパの新たな主食として、東ヨーロッパを中心に広く栽培される。
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1871(明治4)年 〈廃藩置県〉★★★

2017-08-01 | 『新日本史頻出年代暗記』

● 明治時代(明治天皇) 

Establishment of prefectural system: domains dissolved and prefectures established.

  言(い)わない藩と 県を置き。
    1871年            廃藩置県  県令 

 明治政府は1869年の版籍奉還によって領主権を返上させたが、藩政は行われ、旧藩主と領民の間の封建的主従関係は残存した。

1871年、政府は薩摩・長州・土佐の3藩から御親兵(政府直属軍)を集め、武力を背景に廃藩置県を断行。

県令・府知事を任命して中央集権制を確立した。

 

Under such circumstances, the implementation of state affairs was stagnant, let alone haihan-chiken, and the new government faced a crisis of being split in two.

廃藩置県どころか政務は停滞し新政府分裂の危機に至った。

 竿に何示唆。  

(1871年)(3府302県・県)(3府72県・3府43県)

[ポイント]

1.廃藩置県(1871年)で、府県は3府302県3府72県→3府43県と変遷した。

[解説]

1.版籍奉還は、1869年1月実施。藩制度の解体を、薩長土肥4藩主が天皇に願い出させるという‘策略’的手法で行ったもの。版は版図すなわち土地、籍は戸籍つまり人民のこと。諸藩は財政難に苦しみ、今後の自藩の命運に疑心暗鬼であり、明治政府の中核を担う4藩が率先したため、これになだれをうって同調、政府のねらいはまんまと成功した。しかし、藩主が身分上政府役人である知藩事になっただけで、事実上ほとんど何も変わるところはなかった。

2.そこで政府は、廃藩置県を、1871年7月に断行。一挙に全国の藩を廃して府県に統一し、中央集権体制を樹立せんとした。すなわち薩長土から東京に集めた1万の(御)親兵を脅しに、諸藩に廃藩を命じたもの。各藩は、収入(家禄)と華族身分を保障され、藩の負債は政府が肩がわりするという好条件に、ほとんど抵抗はなかった。しかし政府役人とされた知藩事は命令を聞かねばならない立場になった。そこで政府は旧藩主に東京移住を命じた。


3.中央から3府には知事が、県には県令が派遣され、中央政府の命令は直ちに地方で実行されることとなった。府藩県三治制が廃され、東京・大阪・京都の3府302県が成立。なお同年11月に府県の統廃合が行なわれ3府72県となり、最終的に3府43県(1888)となった。


2017関西学院大・全学部2/1:「

問8 つぎのa・bの正誤を判断せよ。

 a.西郷隆盛を中心とする留守政府は、廃藩置県や学制・徴兵制の実施、地租改正などの大きな内政改革を推進した。

 b.地租改正条例では税率を地価の5%としたが、反対の一揆が起こったので、政府は税率を3%に引き下げた。

(答:問8a×、b× ※a×廃藩置県は留守政府以前の政策、b×3%を2.5%に減じた)〉


2016明大・情報

 1871年にイ.廃藩置県が実施され、1使、東京府・大阪府・京都府の3府、302県となった。旧大名である知藩事は罷免され、東京居住を命じられた。地方行政は、中央政府の派遣による府知事・県令が担当することになった。

問2 下線部イを含む出来事を古い順に並べたものとして、もっとも正しいものを、1~4から1つ選べ。

 
 1.廃藩置県→版籍奉還→西南戦争→地租改正

 2.版籍奉還→廃藩置県→地租改正→西南戦争
 3.廃藩置県→西南戦争→版籍奉還→地租改正
 4.版籍奉還→地租改正→西南戦争→廃藩置県」

(答:2 版籍奉還(1869)→廃藩置県(1871)→地租改正(1873)→西南戦争(1877))〉

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