世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

人を見抜く力

2015年10月16日 | 100の力
テーマ: 見抜く力、脳裏力


ある人のことが突然脳裏に浮かぶことがある。


あの人ならこの分野に強い。

これが得意。

これが好きだ。

これをやらせたら喜ぶだろう。


あの人はたぶんこうしたいだろう。


だったらそのお手伝いしよう。


と考える。


ここ数日で2件の不思議なことが起こった。


いずれもしばらく会っていない人だ。



一人目は、カウンセリングをしている女性。


あの人なら自分もお手伝いができる。

そう思って、彼女のオフィスを訪ねた。


ところが案の定、今の事務所を変わろうかと思っていたとのこと。

そして、彼女の手元には新しい賃貸契約書が。


ボクは、フリートークをワークシェアリングして使ってはどうかと提案した。

週の半分は熊本にいないから。

いる時はお手伝いもできるし。


彼女は2日後、パートナーと一緒に見に来た。

結果はダメだったが、これで彼女との連携ができた。



そして二人目。

昨日のことだ。


今、ゲストハウスが大流行り。

ボク自身も福岡と熊本で小規模ながら営んでいる。

特に都会においては外国人の利用率が圧倒的に高い。


そこである人の顔が浮かんだ。


ずっとホテル業界を渡り歩いてきている男性だ。

英語もできる

今、熊本近郊の大きなホテルの支配人をしている。

彼もそろそろ定年かもしれない。


きっと何か考えているはずだ。

彼にゲストハウス事業を提案してみようと。



早速、電話をを入れた。


彼は渡りに船とばかりに電話口の向うで声を弾ませて言った。


「かじさん、私は今年で上がり(退職し)ます。

次に何をしようかと考えていたところです。

ゲストハウス、もちろん興味があります。

明日伺いますよ。

話を聞かせてください」



彼の言葉を聞いて、自分自身が怖くなった。

あまりにもタイミグが良すぎないかと。


今日彼と会う。

どういう話の展開になるかは全く分からないが、

こう、2件も続けてテレパシーを感じたことが嬉しかった。


さらにセレンディピティ的感性が研ぎ澄まされていくのが分かる。


脳裏に浮かんだら動け。

これがボクの行動指針である。


できるかできないかではない。

やるかやらないか。

動くか動かないか、それがもっとも重要なことなのだ。

守りたい人がいます

2015年10月15日 | 100の力
テーマ: 守る力


命を懸けてでも守りたい人がいますか。

ボクには、います。

I will protect you from anything harm you.


命懸けと言わなくても、

守りたい人は沢山いる。


ボクに対するスト―カーの触手が、関係のない第三者の元にも伸びた。

ボクにとって大事な人たちだ。


スト―カの手がそうした人に及んだことを知った時、ボクはブロックした。


自分がいくら誹謗中傷されようと、

罵られ、批判され、愚弄され、戒められ、あざ笑われ、揶揄されても一向に構わない。


だが、全く関係のない大切な人にまで魔の手が及ぶとなるとそうはいかない。


ボクには身を挺して彼(女)らを守らなければならない義務がある。

ボクを慕ってくれるすべての人を。

ボクを必要としてくれる人がいる限り。



尻尾を振って擦り寄ってくる犬の頭を撫ぜたり抱きしめるのは当たり前のことだ。

だけど、時々飼い犬に手を噛まれることもあるけど。


軒を貸して母屋を取られることだってある。


それでもそういう人たちを撥ね退けることはできない。


来るものは拒まず、

去るものは、チョッと引き留めるけど、しつこくは追わない。

もう、苦しまなくていいんだよー

2015年10月14日 | 100の力
テーマ: 苦しまない力


悩んだり苦しんだりしている人を見ていると気づくことがある。


共通して言えることは

自分で悩みや苦しみを勝手に引き寄せていることだ。

しなくていいものを。


結果、回りの人間関係をこじらせて、さらに悩む。

苦しみのスパイラルに嵌っていくのです。



なぜそうなるのか。


まず、とりこし苦労が多い。

起きてもいないことをあれこれと引っ張りだしては思い悩む。

どうしてそういう発想になるのか理解しがたい。


心配事の9割は怒らないともいわれるし。

起きた1割も1年たてば笑いごと。


続いて、

何かをやろうとしても、できない理由を探したがる。

あれもダメ、これもダメ、

挙句、自分はダメなんだという結論に至る。



自分だけが苦しんでいると勘違いしているところがある。

何で自分だけがこんなに苦しまなくてはいけないのか、と。

周囲を恨む。

他人を羨む。

人のせい、環境のせいにしてしまうところが怖い。


誰だって、みんな苦しんでいるのです。

苦しんでいない人などいない。

ボクも苦しい。


だけど、うまくいっている人の考え方は

苦しみを楽しみに変えているのです。


苦しみさえも楽しみに変えている。

あたかも苦しむことを楽しんでいるかのように。


そうなるためにはどうすればいいのか。

考え方を変えるだけでいいのです。


起きたことに抵抗しないこと。

受け入れること。


自分と違う相手、期待にそぐわない周囲・環境を認めること。


そして許すこと。

さらに、すべての具象・現象に感謝すること。


認める、受け入れる、許す、そして感謝する。

たったこれだけです。


それだけで、苦しみは消えてなくなります。

少なくとも大幅に軽減されます。



どうしたらそういう風に気持ちの切り替えができるようになるか。

簡単です。

瞑想しましょう。

座って、目を閉じて、ゆっくり呼吸すればいいだけです。

お金も、体力も、能力も、才能も、資格も何もいらない。


自然界には『気』が溢れているのだから。



そこで詞が生まれた。


「苦しまなくていいんだよ

悩まなくていいんだよ

ただそっと目を閉じてごらん

きれいな景色を想像してみて


ゆっくり息を吸ってごらん。

穏やかな気持ちで吐き出してごらん

新鮮な空気を一杯吸って、

おなかの中の悪いものを全部吐き捨てよう


きれいな体、きれいな気持ち、綺麗な心

もうわだかまりも、柵も何にもない


ここにいるのは君と僕

もう心配しなくていいんだよ


僕は君のそばにずっとこうしているんだから」


さ、曲を付けよう。

たかがブログ、されどブログ

2015年10月13日 | 100の力
テーマ: ブログ力


たかが、一日のアクセス数が1000IP,10000PVであり、

まだまだメガブロガーには程遠い。


それでも、2011年2月24日以降、

1700日、約5年にわたって、毎日一日も欠かさず投稿していることはチョッと誇り。


コメントも、時に炎上したり批判やお叱りを頂いたり。


ストーカーも付いて、

刺身のつまのようなもので、

滑稽さに彩りを添えてくれている。


そもそもブログとは、ウェブページの情報をログ(記録)しているウェブサイトの一種で、

WebをLogするというところからWeblog(ウェブログ)と呼ばれている。

ウェブサイトが看板なら、

ブログはフライヤー(チラシ)のようなものだ。


ボクにとってブログは公開日記を意味する。

日々の行動、考えなどを支離滅裂的に思いつくままに認めているにすぎない。


まあ、見苦しいヌードも見せているようなものだから、

不快な人は見なけらばいいわけだ。


とはいえ不特定多数の人の目に触れるのだから、

無責任なことは書けないが、

あまり深くとられずにさらりと流してもらいたいのが本音のところだ。


主旨は、タイトルにあるように子供たちにあてたオヤジの生き様を赤裸々に綴ることにある。

だから、内容も種々雑多に至る。

だからして内容の一貫性は全くない。

それがこうして毎日欠かさず書ける秘訣なのかもしれない。


言論の自由が認められている日本において、

何を書こうと勝手なのだが、そこに一定の不文律に似たマナーがある。

それも時折逸脱してしまうのだが。


それだけに、批判も頂く。


昨日は17歳の女子高生からコメントを頂いた。

お叱りというか、諭というか、激励というか。

至極もっともな意見で感服した。


ボクは彼女をよく知っているし、彼女のボクのことを観察している。

彼女はアスペルガーである。

あるいはADHDだ。

その違いがよく分からないのが正直なところだが。


ADHDとは、注意欠陥や多動性、衝動性を特徴とする発達障害である。


アスペルガー症候群は、知的障害のない自閉症と呼ばれていて

他人とのコミュニケーションが非常に苦手であるという特徴を持つ。

自閉症に類似性がある、広汎性発達障害に含まれる疾患である。

アスペルガー症候群の特徴は

身近な子ども同士のつきあいが困難、興味が限定的、そして日常の行動がパターン化しやすい事などがあげられる。


ADHDの人は、

退屈や決められたやり方を嫌い、新しいことや興味を引かれる方向に向かおうとする傾向がある。

だから、あくまでも管理された定住型の現代社会にうまく適応できないだけで、

狩猟や遊牧を行う原始的な社会では成功者だったのではないかと考えられる。


ということは、タビストはおおむねADHD的傾向にあることは否めない。

O型で射手座と来れば、もう農耕民族にはなじめない。

大草原で馬に乗って突っ走っても当然のことである。


というわけで、今日もこうして取り留めもないことを書き綴ってしまった。


ボクがブログを書くときいつも心掛けていることが2つある。

一つは、「遊び心」であり、

もう一つは、「子供心」である。


遊び心は余裕やゆとりにつながり、

子供心はその純真性にある。


つまり、心を澄まし、ゆとりを持って事に当たる。

そうすることで感性は一気に高まる。


【追記】

時折ボクが障がい者について書くと、

冒涜だとかなんとかお叱りを受ける。

そのような意図は全くない。


ボクは障がい者の方と寝食を共にしたし、今も一緒に仕事をしている。

そして、自分自身も障がい者(ADHDかな?)だと思っている。


上述の女子高生に関しても、

とても素晴らしい才能を持ち合わせており、

それをどう生かせばいいか考慮中だ。


なんせアスペルガーの人には

卓越したセンスとポテンシャルが潜んでおり、

意外な有名人が名を連ねている。


イチローから、スピルバーグ、ジョブズ、ビル・ゲイツ、

ゴッホ、ダビンチ、ベートーベン、エジソン、織田信長、坂本龍馬などなど。

そして、かじえいせいが末席に?


恐るべし!アスペルガー。

バカとバカでない人の違い

2015年10月12日 | 100の力
テーマ: バカ力


バカからバカと言われたくない。

これはバカの言う常とう句。


バカはバカと言われて憤慨し、

そうでない人(もともとバカでない人間はいない)は、バカと言われてもさらりと受け流す。


はっきり断っておくが、

ボクはバカである。

それも相当なバカである。


スティーブジョブズも言っている。

"Stay foolish."



だが、同じバカでもバカさが違う。


バカには大きく分けて2種類ある。


楽しいバカと悲しいバカ。

阿波踊りの踊る阿呆に見る阿呆、と似たような感覚。


楽しいバカと悲しいバカは、外見上の違いはさほどない。

だが、今その人が何をやっているか(仕事、行動)で察しはつく。

それに、人相、表情に表れている(顔、態度を見ればわかる)。


悲しいバカの特徴は、

シコシコ飲んで、ドクロを巻いて、そこにいないものの悪口をいって鬱憤を晴らしている。


養老孟司の「バカの壁」を待つまでもなく、

つける薬のないバカは、自分で自分に壁を作っているものだ。


その狭い壁の中に閉じこもって、臆病だから外に出ることを恐れる。

そして、悲しいかなそのこと自体にも気づかない。


これが悲しいバカの性(さが)である。



一方、

悲しいバカは現実的であり、

楽しいバカは理想主義者であることが多い。


楽しいバカは、時に現実を無視してあり得なこと(妄想)に走るから、バカにバカにされる。


悲しいバカは、目の前の現実(事象)にしか目が行かないから、一見妙に説得力がある。

どこそこの国が攻めてくる(すでに来ている)とか。

表層的現実面を突き付けて、あたかもそれが継続的であるかのように強調する。

知識が浅薄であり本質が見抜けない。


さらに自分に都合の悪い情報を遮断し、自分の脳が理解できることしか見ようとしないので

固定観念の壁の内側のみで生き、外側に広がる世界を知ろうとしない思考停止の状態にある。


自分と違う人の意見を聞こうとしないから、

相手もそうだと思ってしまう。

話しても分からないと。

つまりはコミュニケーション能力の無さを証明しているようなものだ。


狭い知識に固執し、表層的なこと(書いてあること)しか分からないから、

その裏に潜む深い意味を理解できないでいる。

(「論語読みの論語知らず」、という)



一方、広く意見を聞く人間は、話せば相手も分かってくれると信じている。

ある意味おめでたい人間である。


悲しいバカは総じてひねくれており

楽しいバカは一般的に素直で謙虚だ。


真実は一つ、自分は正しいと思うところから壁は発生する。



悲しいバカは、きわめて多様性に欠ける。

外国人が増えると犯罪が増える。

日本語だけで生きていけるから英語なんて必要ない、などなど。

気の合う仲間とだけつるんで、狭い世界で生息しているからそれでもいいのだろうが。


自分に都合よく(甘く、容易な方に流れる)解釈し、了見が狭い、器が小さい、肝っ玉が小さいので外部のものを遮断したがる。

そのくせ爆買いは受け入れる。

儲かるからマナーの悪さには目をつぶろうと。


本当は壁のむこうに、

多くの知恵、ロマンが、楽しみが、感動が、無限に広がっているというのに。



あなたは踊るバカ? 見てるだけのバカ?


同じバカなら踊らにゃ損損、孫正義。



最後に、バカのぼやき。


バカにつける薬を開発したら、ノーベル賞。

いや、

イグノーベル賞、かな?



おまけにもう一つ。

さて、この挑発に乗るバカがどれだけいるか、楽しみである。

だいたい想像はつくが。


楽しいバカはさらりと受け流し、

悲しいバカは、自分のことを言われたと被害妄想に陥り、

まともに対抗してくる。

これを滑稽と言わずして、何を滑稽というのか。


バカとはそもそも滑稽なものであるのだが。

話せば分かる

2015年10月11日 | 100の力
テーマ: 対話力


チュニジアの空は青くどこまでも澄みきっていた。


カサブランカ(モロッコ)からカイロ(エジプト)に行く途中、

チュニジアに立ち寄った。

記憶がよみがえる。


イスラム勢力と政教分離を重んじる世俗勢力の歩み寄りを促し、民主化を進めた「チュニジア国民対話カルテット」がノーベル平和賞を受賞した。

アラブの春の先駆けとなったジャスミン革命。

その息吹はドッコイ生きていた。


憲法九条でなかったのは残念だが、

厳しい状況下にあるチュニジアでこうした活動が評価されたことは喜ばしい。


その後、どこもここも武力に訴えたところは泥沼化している。

つい数年前、民主化を求めて民衆が立ち上がった「アラブの春」は、悲劇の序章でしかなかったのか。



日本も例外ではない。


とかく世間はいらだってきているように見受けられる。

中国を敵視し、韓国を見下す論調が日に日に激しくなっているようだ。


アー、愚か者はこうして戦争への道へと進んでいくんだなと感じる。


安保法が日本人の悲劇のプロローグでないことを祈るばかりだ。



口でいうより手のほうが早い

バカを相手の時じゃない、と『柔』の歌にもある。


敵をして敵なからしむ。

否、敵そのものを無くす、と合気道の精神も謳う。


日本の武士道精神はもはや廃れ去ったのだろうか。


一見勇ましく、血気盛んな言動の裏には、

無知と臆病者の姿が隠されている。


正義を振りかざし、

平和のための戦いなど存在しないことを今こそ肝に銘じるべきだ。

ミス・ハノイ 続編

2015年10月10日 | 出版
古本屋で入手した。

200円。



20年前に書かれた、イラストレーター水野あきら氏によるいわゆるベトナムスケッチ。



1995年発刊。


ボクが初めて訪れたのが2006年、約9年前だから、

それより10年以上も前のベトナムの姿がイラストでふんだんに紹介されている。

ボクの知らないベトナムがあちこちに垣間見れてうれしい。


そこには、あのバイクの洪水の光景はひとかけらもない。


ベトナムにホンダが市場参入を果たしたのは1990年代後半というから、

それも頷けよう。。


ボクは、この9年の間に40回以上ベトナムを訪れている。


そこで、ミス・サイゴンにちなんで「ミス・ハノイ」という小説を執筆しているのだが、

なかなか筆が進まない。


その理由の一つに、構成(スクリプト)が決まらないことがある。

年に4~6回は訪れて、その都度2週間ほど滞在する。


行くたびに目まぐるしい変化を見せる国。

新しい素材に目移りして、ボクを戸惑わせ筆を止めるのだ。



最初は、一人の女性との淡い恋物語を念頭に起きつつ筆を進めていた。

ところが、どうしても有名なミュージカル「ミス・サイゴン」のイメージが付き纏う。

そこから脱却しなくてはともがいてきた。


そこで、こう考えるに至った。


何も一人の女性に固執する必要はない。

ボクの女性遍歴(?)をふんだんに生かして、

ベトナム人女性との交わり、いや、係わりの中で、

余すところなくベトナムを紹介しよう、と。



ベトナムの文化、生活習慣、衣食住についてはもちろん、

ベトナム人女性の魅力と気質、付き合い方、アオザイの魅力、

コーヒー文化とビール文化などなどを紹介しつつ、

豊富な体験を通じて、独断と偏見で大胆に書いてみようと思うに至った。


カフェや日本語学校を手掛けてきた経験から、ビジネスの仕方なども認める。

宗教観、家族観からフーゾクに至るまでありとあらゆるベトナムを描く。


そこには驚きと笑いと涙を含めることも忘れてはならない。

その裏には教え(教訓)が隠されている。



来年は間違いなくベトナムブームが吹き荒れる。

アオザイが流行る。


断言する。

なぜならボクが仕掛けるから。

(『ベトナムの風に吹かれて』(松坂慶子主演)も封切られる)



ボク自身は、来年、小説家デビューをする。

そしてベストセラーを連発。

ハリウッド映画化。

オスカー(脚本賞)獲得、と快進撃は続く。


印税で、世界一周の旅に出る。

世界の人々の夢を実現するために。


その途上、世界のどこかでタビストとしての生涯を終える。


これがボクの残りの人生のスクリプト。

弱者の論理

2015年10月09日 | 100の力
テーマ: 弱者力


思えば子供のころから弱い者の味方だった。

いじめられている子を見ると、放ってはおけなかった。



強い人は一人でも生きていける。


でも、弱い人は誰かの助けがいる。

助けてください、といえる人は本当に困っているのだと思う。

なかなか言える言葉ではない。



日本人はいつしかメンタル力が弱くなている。

周りの目を気にし、気を使いすぎるあまり自己否定感が強い。


極端に甘やかされて育つか、

叱られ、ダメ出しされながら大人になる。


人と違うことを戒められ、無理やり協調を強いられる。


争う必要はないが、他と違うことを嫌う。

違いを容認し、取り込むことが苦手である。


島国、単一民族であることが日本人の特徴であるが、

グローバル世界になってその弊害が顕著になっている。


日本は完全に世界のグローバル化に乗り遅れてしまった。


加えて経済低迷、独裁政権の誕生と相まって

いつか来た道に引き返している。

今や戦争前夜の風情がいたるところに姿を現したてきた。



話は変わるが、気になる昨今の動きが二つ。


ベトナム人の犯罪が増えている。


ちなみに、日本の在留越人数は約10万人。

前年比やく40%増しだ。

ここ10年で4倍に増えている。


さらに、

日本の越人不法残留者数は前年比+66.8%の2453人、増加率トップとなっている。


犯罪の半数以上が万引きだという。

大した犯罪ではないと言っても、罪は罪だ。


これは困っている人が多いことを意味する。


なぜ困るのか。

経済的問題が一番の問題だろう。


それから言葉の問題。

日本社会との乖離、疎外感。


そうした問題の解決の少しでも役立ちたいと立ち上げたのが

福岡市南区井尻に作った「ベトナムカフェかもん」である。


仲間づくり拠点、相談窓口、駆け込みカフェとしてこれから徐々に真価を発揮していくだろう。



も一つの気になる動向は、

ロシアのシリア空爆と、中国の動きだ。


これは世界情勢の変化に大きな意味合いを持つ。


国境無き医師団への誤爆などのチョンボと、優柔不断なアメリカに変わり、

経済的に窮地にあるロシアは短期戦でISISを掃討するだろう。

ウクライナと同じく、その強硬姿勢は強面プーチンの十八番だ。


崩壊寸前の中国も、外部に目を向けさせることで起死回生をもくろむ。

それは日本とて例外ではない。


これが戦争前夜と言わずして何と言おうか。



だが、もう一つのシナリオがある。


江戸末期と見ることもできる。

弱体化した江戸幕府(アメリカ)に変わり、

薩長連合が成立する。

薩長とは、ロシアと中国だ。

そして一気に討幕へとなだれ込む。


狙いは大きく二つ。

資源(中東の石油)と基軸通貨のドル崩壊だ。


もはや老体のアメリカを支えるのは、同じく年老いた日本だけだ。

まさに老老介護の体をなす。


ただアメリカもこのまま覇権を渡すつもりは毛頭ない。


あらゆる手立てを通じてその地位を守ろうとする。


基軸通貨にルーブルや元がなりうるか。

ユーロも然り。

アメリカは中東の石油に頼らないくてもシェールや国内の資源でやっていけるだろう。


むしろ死に体はロシアや中国のほうかもしれない。

そこにEUとインドも絡み、

覇権の多極化に向かうのは間違いないとみる。


だが、寄せ集めの明治政府がその後歩んだ道は周知のとおりである。

進軍ラッパが聞こえてくる。

いずれにせよ、戦争前夜に変わりはなさそうだ。


そしていつの世も泣かされるのは、弱者である。


弱者側に立って、自分に課せられたミッションを遂行するのみ。