ピアニスト。クラシックピアニスト。今はジャズもポップスも。1982年生まれ。5歳からピアノを習いだした。ドラマ「コウノトリ」テーマや劇中の音楽も。100回以上開催コンサート。ユーモアたっぷりのトークで楽しく話してくれるとのことで大人気。
コウノトリの時、出演もした。神経質なところがない。ピアニストには神経質な方が多い。母はクラシックが大好きだった。母はやらせてもらえなかった。姉はバイオリン。音楽の英才教育。姉と二人で笑ってたら、「今笑ってどうする。笑うなら人生の後半で笑え」。5時に起こされて朝練した。「人はいつかずーっと寝る時が来るから」
姉はミヤ ドレミのミ。私はシンヤ ドレミのシ。姉弟で母の監視を潜り抜けた。ミヤミヤ、シソシソで演奏して、母が帰って来た時の信号を楽器を弾いて知らせた。母が出かけたときはもう一方は遊ぶようにした。「ピアニストになれなかったら、生きてる意味はない」と母に言われた。
1曲目 槇原敬之「どんなときも」。 母は音感がなかった。ピアノを弾いているんだけど、練習曲を自分の好きな曲で演奏した。母にはバレなかった。練習曲を自分の好きな曲で。絶対音感があったので。一度聞くと弾ける。それが特技。英才教育の効果はある。それが母にばれない。マリオも弾いたらバレなかった。母にバレる限界点はどこにあるのかを試した。それが「どんなときも」の最後でバレた。
幼少から数々の賞を取った。ショパンコンクールでは賞を取れなかった。ポーランドの先生が言ってくれた。「音楽が好きだったのでしょう」。それから賞でジャッジされることに一喜一憂することはなくなった。
自分の音楽をもっともっと知って欲しい。Jポップやドラマで音楽が聞かれているから、そこで活動したいと思った。自分の売り込みをやり始めた。しかし、「ピアノが弾けるくらいで活動ができるか」と言われた。100社売り込んで1社くらいあった。営業活動に行くのは母は大反対だった。「絶対間違っていない」と反論した。「人がいるところで弾かないとだめだ」と。母と大喧嘩した。松山ケンイチ君の吹き替えでやらせて貰えた。下手に弾かないといけない。それが仕事で次々からと出た。それからコンサート活動をやり始めた。ショパンはクラシックの中でも人懐こい曲。身体が弱くて華奢だった。だからパワーがある曲は弾けなかった。クラシックは作曲家への想像が必要。ショパンは黒鍵が多かった。早く弾くことが必要で、指が細いから黒鍵にも早く弾ける。僕らの時代はコンクール1位になっても活躍できない人も多い。審査員ではなく、オーディエンスが評価するものと考える。2人の娘もピアノをレッスン中。自分では教えられない。母は今は「子どもは信じて伸び伸び育てなさい」と、今では考えられない。母に「考え方が変わったのか?」と尋ねたら、「お前たちには失敗した。子どもが委縮する」と。愛があったのだと思う。
2曲目 恋に落ち女の子を見る。マイナーになるのが女の子がふと見えなくなる。映画“海の上のピアニスト”「愛を奏でて」。(ご自分で演奏)
感想;
英才教育、努力はやはりとても大切なことなのでしょう。
厳しかったけど、ピアノが好きだったことが続けられたのでしょう。
音楽は多くの人がチャレンジしても音楽で食べていけるような人はごく一部です。
自分から売り込みをかけられたそうです。
ほとんど断られたそうです。
でもわかる人がいたからこそ、今があるのでしょう。
それを信じてやり続けることができるかどうか。
「音楽は聴く人が評価する」。
「聴いてもらえる場所に行かなければならない」。
含蓄のある言葉でした。
コウノトリの時、出演もした。神経質なところがない。ピアニストには神経質な方が多い。母はクラシックが大好きだった。母はやらせてもらえなかった。姉はバイオリン。音楽の英才教育。姉と二人で笑ってたら、「今笑ってどうする。笑うなら人生の後半で笑え」。5時に起こされて朝練した。「人はいつかずーっと寝る時が来るから」
姉はミヤ ドレミのミ。私はシンヤ ドレミのシ。姉弟で母の監視を潜り抜けた。ミヤミヤ、シソシソで演奏して、母が帰って来た時の信号を楽器を弾いて知らせた。母が出かけたときはもう一方は遊ぶようにした。「ピアニストになれなかったら、生きてる意味はない」と母に言われた。
1曲目 槇原敬之「どんなときも」。 母は音感がなかった。ピアノを弾いているんだけど、練習曲を自分の好きな曲で演奏した。母にはバレなかった。練習曲を自分の好きな曲で。絶対音感があったので。一度聞くと弾ける。それが特技。英才教育の効果はある。それが母にばれない。マリオも弾いたらバレなかった。母にバレる限界点はどこにあるのかを試した。それが「どんなときも」の最後でバレた。
幼少から数々の賞を取った。ショパンコンクールでは賞を取れなかった。ポーランドの先生が言ってくれた。「音楽が好きだったのでしょう」。それから賞でジャッジされることに一喜一憂することはなくなった。
自分の音楽をもっともっと知って欲しい。Jポップやドラマで音楽が聞かれているから、そこで活動したいと思った。自分の売り込みをやり始めた。しかし、「ピアノが弾けるくらいで活動ができるか」と言われた。100社売り込んで1社くらいあった。営業活動に行くのは母は大反対だった。「絶対間違っていない」と反論した。「人がいるところで弾かないとだめだ」と。母と大喧嘩した。松山ケンイチ君の吹き替えでやらせて貰えた。下手に弾かないといけない。それが仕事で次々からと出た。それからコンサート活動をやり始めた。ショパンはクラシックの中でも人懐こい曲。身体が弱くて華奢だった。だからパワーがある曲は弾けなかった。クラシックは作曲家への想像が必要。ショパンは黒鍵が多かった。早く弾くことが必要で、指が細いから黒鍵にも早く弾ける。僕らの時代はコンクール1位になっても活躍できない人も多い。審査員ではなく、オーディエンスが評価するものと考える。2人の娘もピアノをレッスン中。自分では教えられない。母は今は「子どもは信じて伸び伸び育てなさい」と、今では考えられない。母に「考え方が変わったのか?」と尋ねたら、「お前たちには失敗した。子どもが委縮する」と。愛があったのだと思う。
2曲目 恋に落ち女の子を見る。マイナーになるのが女の子がふと見えなくなる。映画“海の上のピアニスト”「愛を奏でて」。(ご自分で演奏)
感想;
英才教育、努力はやはりとても大切なことなのでしょう。
厳しかったけど、ピアノが好きだったことが続けられたのでしょう。
音楽は多くの人がチャレンジしても音楽で食べていけるような人はごく一部です。
自分から売り込みをかけられたそうです。
ほとんど断られたそうです。
でもわかる人がいたからこそ、今があるのでしょう。
それを信じてやり続けることができるかどうか。
「音楽は聴く人が評価する」。
「聴いてもらえる場所に行かなければならない」。
含蓄のある言葉でした。