・人生は、基本的には不公平だと私は思っています。苛酷な人生を歩んだ人は、幸せな人生を送った人のような天真爛漫な笑顔を持つことは、とても難しいのです。
・私の人生の不公平は、母の精神病の発病から始まりました。
・二度目の自殺未遂をした私は、助けられても「助かって良かった!」とは全く思えませんでした。自分のしたことで、自分より生きている価値のある周囲の人たちの日常を狂わせてしまったという罪悪感から、三度目の自殺を図ることもできず「腑抜け」のような状態で何円も過ごしました。殺人と自殺は紙一重だ・・・青年期の私の実感です。こんな私の人生に大きな転機を与え、本が書けるまでに私の心を救ってくれたのは、「普通の人々」でした。「人の力」が、薬でも治せなかった私の頑なな心を少しずつ変えていってくれたのです。人が回復するのに、締め切りはないのだと心から思います。
・生きる意欲を与えられるのは、薬ではないと、私は思っています。ある患者さんから「夏苅さんの人生で、いちばん助けになったのは何ですか」と聞かれたことがありました。その時私は「それは、薬でも医者でもありません。人との関係です」と答えました。人から受けた悲しみや人との関係で生まれた憎しみ・虚無感は、やはり「人との関係」によって修復されていくと思います。
・とうとう医学部5年時に自殺未遂を起こし、私も母と同じように精神科に、通院する身となった。
・人々との出会いが伏線となり、55歳を過ぎた私は自分と同じ生い立ちの中村ユキさんというマンガ家の「わが家の母はビューキです」という本を読んだことで、母や自分自身のことを公表しようと決心した。
・私は60歳を過ぎて、やっと「人生って、素晴らしい!」と言えるようになった。人はどのようにして回復するのか、遅まきながら気づかされた。また、精神科医でありながら、薬を処方するだけで本当に必要な対話をせずにいたことを思い知った。そして、たった一人で生き抜いた亡き母の想いを体現することが、これからの私の生きる意味となっている。人は、人の力で回復する。人は、人を浴びて人になる。
・私はノンちゃんのような高い志で医師になったのではないけれど、ノンちゃんの決意がどこかに残っていたようにも思う。
・私は、いじめっ子達と同じ高校には絶対に行きたくないと思い、彼らが到底行けないような超難関の進学校へ合格しようと決意し勉強に励んだ。そして希望した高校に合格した。
・高校時代は、全く勉強が手に付かなかった。行きたい大学もないまま、東京の近郊にある私立の女子大へ何となく入学した。そこは、「お嬢さん大学」だった。自分が「場違い」のような気がした。そう思った瞬間、自分の中で地下水のように流れていた恨みの感情が表に出てきた。「自分は、自分の力で上の階級に登ってやる」。父に「医学部に入り直したい」と許しを求めると、「せっかく入った大学だから、通学しながら受験するなら許可するが、何回も受験するのはダメだ」と釘をさされた。「医学部受験は国公立のみ、それも1回だけ」。人は幸せいっぱいの時より、マイナスの時の方が強いエネルギーが出るのではないか。そして、最もエネルギーの素となるのが「恨み」の感情だと思う。
・念願の医学部に入ったが、人並みに、人恋しくなった。寂しさのあまり、あれだけ母が吸っていて嫌だったタバコを1日に40本も吸っていた。次は酒で、安いウイスキーを朝からがぶ飲みして大学へ行き、トイレで吐いてから授業を受けた。その次はリストカットだった。ありったけの自傷行為を繰り返して、行きついたのは「死にたい」という思いだった。
・薬に依存することの恐ろしさに気付き、私はもがくようにいろいろなところに助けを求めた。大家さんはある新興宗教の熱心な信者で、熱心な人ほど「この信仰で救われる」と説得にかかる。私も説得された一人だった。結局、私はこの宗教から脱退した。大変な思いもしたが、何かを信じた時の人の力の凄さを教えてもらったと思う。
・宗教の次に頼ったのが、内観療法という治療だった。「内を観る」ことはできなかったが、内観のおかげで今も交友が続いている楽しい友人と出会うことができた。同じようにへこたれて同じように行動した人間がいたことに少し救われた気がした。彼女とはその後も連絡を取り合い、30年も交友が続いている。
・父の罵声を浴びながらも、私は彼女のおかげで久しぶりに母と会うことができたが、「相談料」として合計100万円を彼女から請求された。この請求書のおかげで「自分の足で歩ける自分」になっていることに気づくことができた。私は、請求書どおりの金額を支払った。私は彼女から、お金以上のものをもらった。いちばんの収穫は、薬物依存から脱却できたことだった。私は、依存症の知慮は施設ではなく「人」だと思っている。
・私が繰り返す逸脱行動(大量飲酒や喫煙、過食・拒食、リストカット、自暴自棄な恋愛)は大学でも問題となり、「あなたは、医師になる資質に欠けるのではないか。退学するか、それが嫌なら精神科を受診しなさい」と迫られ、私は不本意なまま母校の精神科に通院することになった。
・仕事がある日は時間がたつのも早いが、友人も家族もいない私は一人ぼっちの日曜日が大嫌いだった。すみちゃんも、日曜日が嫌いな事情を抱えていた。そんな二人は、仕方なく時間をつぶすために通っていた体操教室で出会った。「神様が、寂しい女が二人いるから引き合わせてくれたんだね」と、すみちゃんはよく言っていた。すみちゃんと友達でいられたのは、彼女が亡くなるまでのわずか3年あまりだったが、「友達っていいな!」と言えるたくさんの思い出を彼女からもらった。彼女は、私が初めて得た「親友」と言える人だった。
・私の結婚のきっかけを作ってくれたのも、すみちゃんの一言だった。「いっちゃんは絵が得意なんだから、絵の教室へ通ってみなよ! 気分が晴れるかも」と、死にたい病にとりつかれた私にすみちゃんが誘いをかけてくれたのだ。そこで描いた絵をせっかくだからと勤めていいた病院の廊下に貼ったところ、いつしか患者さんが達が楽しみにしてくれるようになった。そして・・・
この絵を見ていたのが夫だった。夫自身は絵を描かない人だが、夫の上司が絵が好きな人で、「僕のアルバイト先の病院に、絵の上手い女医さんがいます」と言ったところ、その女医さんい会ってみたいと、その上司が言い出し、彼が私を上司のいる研究室に送迎する役目になった。何度も送迎してもらっている内に、仲良くなったのかなぁ・・・すみちゃんは、私達のキューピットだった。
・柏木先生のホスピスの病棟師長「患者さんの心も大切だが、我々スタッフの心はどうなのかも、考えないといけない。自分の心が患者さんに対してどんなふうに反応したかを必ず確認すること。それを『自分だけのノート』に書いてみること。書いてみて自分の心が落ち着いたら、皆で話し合ってみる。こうしたことを何回も何回も続けていくと、だんだんと『受け入れる』ことができるようになっていく。時間をかけましょう。時間をかけても成果が出ないと焦らないで。同じことの繰り返しでも、『自分はこういう風になりたい』と思う心は捨てないでね」
・「あんた作る人、私、食べる人」というコマーシャルをもじって、柏木先生は「あなた死ぬ人、私、生きる人、ではなくて、私もいつか死ぬ人」と言っておられた。『癒しのユーモア-いのちの輝きを支えるケア』柏木哲夫著
・この(初めて会った)時のことを、ユキさんと親しくなってから彼女から牛明けられた。「実は、夏苅さんがあまりにも暗いから、私もわざと暗くしていたのよ。この人は、まだ受け止めていないと思った。受け止めていない人には、待ってあげないとね!」・・・精神科医である私の方が、診察されていたのだった。
・「ユキさんがマンガで世の中に訴えるなら、私は論文を書いて医療の世界へ訴えよう!」そう、強く思った。ユキさんのお母さんと自分の母を事例をしてあげ、ユキさんと自分の回復過程を論文に書いた。私はユキさんの顔を思い浮かべながら、命がけで論文を書いた。彼女の存在が、何よりの応援になっていた。審査員から「本論文は、わが国の精神科医療に寄与する貴重な論文である」というコメントをもらった時、私は泣きそうになった。最先端の研究でもない一介の町医者の論文を「貴重」と認めてくれた審査員に、ユキさんや私の母の想いが通じたような気がした。この論文がきっかけとなり、大学や医師の団体の方々とも知り合うことができた。私の最初の本「心病む母が遺してくれたもの 精神科医の回復への道のり」が出版できたのも、この論文のおかげだ。ユキさんの後を付いていくことからスタートした私は、いつしか患者の経験もした精神科医として「患者・家族の世界と医師の世界の橋渡し」をしたいと願うようになっていた。私自身の診療態度も、大きく変わった。「あなた、病気の人、私、治す人」から「私も家族の一人です」と言ったことで、患者さんや家族との心の距離が近くなった。自分の大切な人に対して話すように、患者さんや家族に話すように気を付けるようになった。やっと「上から目線」でない診察になることが分かってきた。
・「かめちゃん(国立大学入学後に統合失調症を発病し、解雇や離婚、ホームレスも経験し、今は生活保護を受けて一人暮らしをしている50代の男性)」と知り合って、私は人の幸せや安定は社会的地位では絶対測れないものだと分からせてもらった。
・彼(夫)は私の結婚する前も、そして結婚して20年以上たっても、母のことは聞かなかった。私は彼の態度を「善意ある無関心」と解釈している。無関心は冷たい対応だが、寄り添いながら何も聞かずにいてくれるのは「善意ある無関心」だと思う。夫は「こんな性格の人間は、家庭をもつのは無理なんじゃないか」とずっと思っていたそうだ。
・先が見えなくても、まず一歩踏み出してみる・・・私が「人生って素晴らしい!」と言えるようになったのは、この「先が見えない中での一歩」のおかげだと思っている。そして、一歩踏み出せたのは、永い絶望的な時間がくれたエネルギーの力だった。その小さな変化を大切に、勇気を出して一歩踏み出す、それが一時だけだったと落胆せずに大切にしていけば、それが先に続く大事な一歩になる。一つの出会いがまた別の出会いを呼んでくれる。一歩動いただけで、見える世界が違ってくる。
感想;
人は人に傷つけられますが、人により癒されるのでしょう。
どんな人に育てられるか、どんな人の指導を受けるか、どんな人と出逢うかによって大きく違ってくるようです。
ただ、
「40歳になれば、自分の顔に責任を持たねばならない」 リンカーン米大統領
いつまでも親が悪かった、指導者が悪かったと嘆いたり、愚痴を言うのではなく、自分の人生自分で責任を負う覚悟が必要なのでしょう。
まさにどう生きているかが問われ、それが顔にも出るのでしょう。
夏苅郁子さん 苦しくてその苦しみから逃れたく、生きる意味をみいだせず自殺未遂を何度か行い、幸い助かりました。
それがあったからこそ、今があるのでしょう。
そして今多くの人を助けかつ多くの人が夏苅郁子さんの講演や著書でも助けられているのでしょう。
夏苅郁子さんご自身の生きて来られたこと、そして今生きておられることが同じように苦しんでいる人々の希望にもなっているように思いました。
http://www.saitama-id.or.jp/yomimono/kohosi/kohosi-kako/magazine089.pdf
人は、人を浴びて人になる〜家族 ・当事者の経験を持つ精神科医から伝えたいこと〜
やきつべの径診療所 児童精神科医 夏苅 郁子氏
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/inochinokoho.html
-全国いのちの電話広報誌一覧(Webに掲載済みのみ)-
・私の人生の不公平は、母の精神病の発病から始まりました。
・二度目の自殺未遂をした私は、助けられても「助かって良かった!」とは全く思えませんでした。自分のしたことで、自分より生きている価値のある周囲の人たちの日常を狂わせてしまったという罪悪感から、三度目の自殺を図ることもできず「腑抜け」のような状態で何円も過ごしました。殺人と自殺は紙一重だ・・・青年期の私の実感です。こんな私の人生に大きな転機を与え、本が書けるまでに私の心を救ってくれたのは、「普通の人々」でした。「人の力」が、薬でも治せなかった私の頑なな心を少しずつ変えていってくれたのです。人が回復するのに、締め切りはないのだと心から思います。
・生きる意欲を与えられるのは、薬ではないと、私は思っています。ある患者さんから「夏苅さんの人生で、いちばん助けになったのは何ですか」と聞かれたことがありました。その時私は「それは、薬でも医者でもありません。人との関係です」と答えました。人から受けた悲しみや人との関係で生まれた憎しみ・虚無感は、やはり「人との関係」によって修復されていくと思います。
・とうとう医学部5年時に自殺未遂を起こし、私も母と同じように精神科に、通院する身となった。
・人々との出会いが伏線となり、55歳を過ぎた私は自分と同じ生い立ちの中村ユキさんというマンガ家の「わが家の母はビューキです」という本を読んだことで、母や自分自身のことを公表しようと決心した。
・私は60歳を過ぎて、やっと「人生って、素晴らしい!」と言えるようになった。人はどのようにして回復するのか、遅まきながら気づかされた。また、精神科医でありながら、薬を処方するだけで本当に必要な対話をせずにいたことを思い知った。そして、たった一人で生き抜いた亡き母の想いを体現することが、これからの私の生きる意味となっている。人は、人の力で回復する。人は、人を浴びて人になる。
・私はノンちゃんのような高い志で医師になったのではないけれど、ノンちゃんの決意がどこかに残っていたようにも思う。
・私は、いじめっ子達と同じ高校には絶対に行きたくないと思い、彼らが到底行けないような超難関の進学校へ合格しようと決意し勉強に励んだ。そして希望した高校に合格した。
・高校時代は、全く勉強が手に付かなかった。行きたい大学もないまま、東京の近郊にある私立の女子大へ何となく入学した。そこは、「お嬢さん大学」だった。自分が「場違い」のような気がした。そう思った瞬間、自分の中で地下水のように流れていた恨みの感情が表に出てきた。「自分は、自分の力で上の階級に登ってやる」。父に「医学部に入り直したい」と許しを求めると、「せっかく入った大学だから、通学しながら受験するなら許可するが、何回も受験するのはダメだ」と釘をさされた。「医学部受験は国公立のみ、それも1回だけ」。人は幸せいっぱいの時より、マイナスの時の方が強いエネルギーが出るのではないか。そして、最もエネルギーの素となるのが「恨み」の感情だと思う。
・念願の医学部に入ったが、人並みに、人恋しくなった。寂しさのあまり、あれだけ母が吸っていて嫌だったタバコを1日に40本も吸っていた。次は酒で、安いウイスキーを朝からがぶ飲みして大学へ行き、トイレで吐いてから授業を受けた。その次はリストカットだった。ありったけの自傷行為を繰り返して、行きついたのは「死にたい」という思いだった。
・薬に依存することの恐ろしさに気付き、私はもがくようにいろいろなところに助けを求めた。大家さんはある新興宗教の熱心な信者で、熱心な人ほど「この信仰で救われる」と説得にかかる。私も説得された一人だった。結局、私はこの宗教から脱退した。大変な思いもしたが、何かを信じた時の人の力の凄さを教えてもらったと思う。
・宗教の次に頼ったのが、内観療法という治療だった。「内を観る」ことはできなかったが、内観のおかげで今も交友が続いている楽しい友人と出会うことができた。同じようにへこたれて同じように行動した人間がいたことに少し救われた気がした。彼女とはその後も連絡を取り合い、30年も交友が続いている。
・父の罵声を浴びながらも、私は彼女のおかげで久しぶりに母と会うことができたが、「相談料」として合計100万円を彼女から請求された。この請求書のおかげで「自分の足で歩ける自分」になっていることに気づくことができた。私は、請求書どおりの金額を支払った。私は彼女から、お金以上のものをもらった。いちばんの収穫は、薬物依存から脱却できたことだった。私は、依存症の知慮は施設ではなく「人」だと思っている。
・私が繰り返す逸脱行動(大量飲酒や喫煙、過食・拒食、リストカット、自暴自棄な恋愛)は大学でも問題となり、「あなたは、医師になる資質に欠けるのではないか。退学するか、それが嫌なら精神科を受診しなさい」と迫られ、私は不本意なまま母校の精神科に通院することになった。
・仕事がある日は時間がたつのも早いが、友人も家族もいない私は一人ぼっちの日曜日が大嫌いだった。すみちゃんも、日曜日が嫌いな事情を抱えていた。そんな二人は、仕方なく時間をつぶすために通っていた体操教室で出会った。「神様が、寂しい女が二人いるから引き合わせてくれたんだね」と、すみちゃんはよく言っていた。すみちゃんと友達でいられたのは、彼女が亡くなるまでのわずか3年あまりだったが、「友達っていいな!」と言えるたくさんの思い出を彼女からもらった。彼女は、私が初めて得た「親友」と言える人だった。
・私の結婚のきっかけを作ってくれたのも、すみちゃんの一言だった。「いっちゃんは絵が得意なんだから、絵の教室へ通ってみなよ! 気分が晴れるかも」と、死にたい病にとりつかれた私にすみちゃんが誘いをかけてくれたのだ。そこで描いた絵をせっかくだからと勤めていいた病院の廊下に貼ったところ、いつしか患者さんが達が楽しみにしてくれるようになった。そして・・・
この絵を見ていたのが夫だった。夫自身は絵を描かない人だが、夫の上司が絵が好きな人で、「僕のアルバイト先の病院に、絵の上手い女医さんがいます」と言ったところ、その女医さんい会ってみたいと、その上司が言い出し、彼が私を上司のいる研究室に送迎する役目になった。何度も送迎してもらっている内に、仲良くなったのかなぁ・・・すみちゃんは、私達のキューピットだった。
・柏木先生のホスピスの病棟師長「患者さんの心も大切だが、我々スタッフの心はどうなのかも、考えないといけない。自分の心が患者さんに対してどんなふうに反応したかを必ず確認すること。それを『自分だけのノート』に書いてみること。書いてみて自分の心が落ち着いたら、皆で話し合ってみる。こうしたことを何回も何回も続けていくと、だんだんと『受け入れる』ことができるようになっていく。時間をかけましょう。時間をかけても成果が出ないと焦らないで。同じことの繰り返しでも、『自分はこういう風になりたい』と思う心は捨てないでね」
・「あんた作る人、私、食べる人」というコマーシャルをもじって、柏木先生は「あなた死ぬ人、私、生きる人、ではなくて、私もいつか死ぬ人」と言っておられた。『癒しのユーモア-いのちの輝きを支えるケア』柏木哲夫著
・この(初めて会った)時のことを、ユキさんと親しくなってから彼女から牛明けられた。「実は、夏苅さんがあまりにも暗いから、私もわざと暗くしていたのよ。この人は、まだ受け止めていないと思った。受け止めていない人には、待ってあげないとね!」・・・精神科医である私の方が、診察されていたのだった。
・「ユキさんがマンガで世の中に訴えるなら、私は論文を書いて医療の世界へ訴えよう!」そう、強く思った。ユキさんのお母さんと自分の母を事例をしてあげ、ユキさんと自分の回復過程を論文に書いた。私はユキさんの顔を思い浮かべながら、命がけで論文を書いた。彼女の存在が、何よりの応援になっていた。審査員から「本論文は、わが国の精神科医療に寄与する貴重な論文である」というコメントをもらった時、私は泣きそうになった。最先端の研究でもない一介の町医者の論文を「貴重」と認めてくれた審査員に、ユキさんや私の母の想いが通じたような気がした。この論文がきっかけとなり、大学や医師の団体の方々とも知り合うことができた。私の最初の本「心病む母が遺してくれたもの 精神科医の回復への道のり」が出版できたのも、この論文のおかげだ。ユキさんの後を付いていくことからスタートした私は、いつしか患者の経験もした精神科医として「患者・家族の世界と医師の世界の橋渡し」をしたいと願うようになっていた。私自身の診療態度も、大きく変わった。「あなた、病気の人、私、治す人」から「私も家族の一人です」と言ったことで、患者さんや家族との心の距離が近くなった。自分の大切な人に対して話すように、患者さんや家族に話すように気を付けるようになった。やっと「上から目線」でない診察になることが分かってきた。
・「かめちゃん(国立大学入学後に統合失調症を発病し、解雇や離婚、ホームレスも経験し、今は生活保護を受けて一人暮らしをしている50代の男性)」と知り合って、私は人の幸せや安定は社会的地位では絶対測れないものだと分からせてもらった。
・彼(夫)は私の結婚する前も、そして結婚して20年以上たっても、母のことは聞かなかった。私は彼の態度を「善意ある無関心」と解釈している。無関心は冷たい対応だが、寄り添いながら何も聞かずにいてくれるのは「善意ある無関心」だと思う。夫は「こんな性格の人間は、家庭をもつのは無理なんじゃないか」とずっと思っていたそうだ。
・先が見えなくても、まず一歩踏み出してみる・・・私が「人生って素晴らしい!」と言えるようになったのは、この「先が見えない中での一歩」のおかげだと思っている。そして、一歩踏み出せたのは、永い絶望的な時間がくれたエネルギーの力だった。その小さな変化を大切に、勇気を出して一歩踏み出す、それが一時だけだったと落胆せずに大切にしていけば、それが先に続く大事な一歩になる。一つの出会いがまた別の出会いを呼んでくれる。一歩動いただけで、見える世界が違ってくる。
感想;
人は人に傷つけられますが、人により癒されるのでしょう。
どんな人に育てられるか、どんな人の指導を受けるか、どんな人と出逢うかによって大きく違ってくるようです。
ただ、
「40歳になれば、自分の顔に責任を持たねばならない」 リンカーン米大統領
いつまでも親が悪かった、指導者が悪かったと嘆いたり、愚痴を言うのではなく、自分の人生自分で責任を負う覚悟が必要なのでしょう。
まさにどう生きているかが問われ、それが顔にも出るのでしょう。
夏苅郁子さん 苦しくてその苦しみから逃れたく、生きる意味をみいだせず自殺未遂を何度か行い、幸い助かりました。
それがあったからこそ、今があるのでしょう。
そして今多くの人を助けかつ多くの人が夏苅郁子さんの講演や著書でも助けられているのでしょう。
夏苅郁子さんご自身の生きて来られたこと、そして今生きておられることが同じように苦しんでいる人々の希望にもなっているように思いました。
http://www.saitama-id.or.jp/yomimono/kohosi/kohosi-kako/magazine089.pdf
人は、人を浴びて人になる〜家族 ・当事者の経験を持つ精神科医から伝えたいこと〜
やきつべの径診療所 児童精神科医 夏苅 郁子氏
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/inochinokoho.html
-全国いのちの電話広報誌一覧(Webに掲載済みのみ)-