幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「一生使える! プロカウンセラーの傾聴の基本」古宮昇著 ”感情を聴く”

2022-01-22 16:22:16 | 本の紹介
がプロ・カウンセラーとしてもっとも中心に行っているのは、実は傾聴です。
傾聴は悩みを解決するためのアドバイスではありません。何かを教えるのではなく、彼らが経験してきたこと、思っていること、感じていることを教えてもらうのです。
傾聴の力がつくにつれ、カウンセラーとして聴き手に援助できることも増え、私の仕事は発展していきました。

・失敗の可能性に直面することが必要
自己実現の喜びを味わうためには、失敗する可能性に直面し、失敗の恐怖を乗り越えて挑戦することが必要なのです。

・生きていく過程で成長や貢献のチャンスを見出すことなく、なるべくラクをして最大のトクをしようという態度で生きると、生きる意味も自己実現の喜びも乏しい人生になります。

・ユダヤ人医師であるヴィクトール・フランクルは、ナチスに捕らえられ強制収容所に入っていました。
彼は自書『夜と霧』のなかで、「人間は意味を見出してこそい居られる」と主張しています。

・桃太郎
大好きな2人(おじいさんとおばあさん)が反対していいるにもかかわらず、家を出る(鬼退治)と言い張ります。
ここでこどもが受け取るのは、「あなたは成長したらいつか自立し、お父さんやお母さん別れるのよ」というメッセージです。また親に対しても「愛することもをいつか手放すんですよ」と伝えることになります。
きび団子は親の愛の象徴なのだと思います。子どもは親の愛を受け、それを自分のものにします。そして自立し、自己実現に向けて人生を歩んでいくのです。
イヌは、忠実さ、誠実さ、勤勉さ、人なつっこさを象徴しています。
俊敏で賢いサルが表すのは、変化への機敏な対応力、そして知恵でしょう。
キジは、空の向こうから突然やってくる生き物ですから、インスピレーション、勘、第六感です。また、とても勇敢な鳥ですから、勇敢さの象徴ともなります。

・私たちが本音を話すことができず、ささいなことばかり話題にしてしまうこの原因について、次の4つの場合があります。
1) 聴き手を信頼できていないときです。
2) 本音を話すと耐えがたい感情が湧いてきそうになるため、その話題を避けずにはいられないという場合です。
3) 自分でもわからないうちに感情を抑え込んでいる場合です。
4) 「傷つきたくない」「変化は怖すぎるので今の状態にしがみついていた」を求める衝動です。

・自己実現を求める衝動から物事を選択し行動するとき、生きる意味と充実感が感じ取られるし、そんな自分のことを認めることができます。
その反対に、傷つくことを避けて変化に抵抗し、成長よりも今の状況にしがみつく生き方は、人生が空虚になり、胸の奥にむなしさと悲しみが残ります。

・自分のことを素直に語り、それがさらに共感的に理解されると、自己成長力、自己治癒力が働き、感情を抑圧していたものが徐々に緩んでいきます。苦しみなど本音の感情を語りはじめ、苦しみの原因となっていた心の痛みをみずから探求し始めます。その探求が進むにつれ、それまで自分を制限していた思い込みが徐々に緩み、現実的な考えへと変化していきます。

・心の変化が話し手に生まれるには、聴き手への信頼感が高まらなければなりません。
そのために大切な聴き手のあり方は、次の3つです。
1) なるべく話し手の身になって共感し、理解すること。
2) 「話し手の気持ちや考え方や行動を変えないといけない」とは感じず、そのままの話し手を温かく受け入れ、大切に感じること。
3) これらの態度が表面的で形式的なものではなく、本音を偽っていかにも共感的で受容的に振る舞っているわけではなく、心の底からそう感じていること。

・私はカウンセリングで傾聴するとき来談者を褒めたり、勇気づけたり、励ましたり、持ち上げたり、慰めたりしません。
なぜなら、褒めたり、勇気づけたり、励ましたり・・・をすれば、その人間関係は深いレベルで安全な関係ではなくなると思うからです。

・ニール・ドナルド・ウォルシュ『神へ帰る』
私はカウンセリングにおいて、次のような来談者の方をお迎えすることができれば理想だと思っています。
「それは、言葉で表せない感情である。しかし、もし言葉で稚拙に表現しようとすれば、つぎのような感情を全て同時に感じている、といえるだろう。
温かく抱擁されている、深く慰められている、感情を持っていたわられている、深く大切に思われている、純粋に宝物のように扱われている、そっと優しく育まれている、深く理解されている、完全に赦されている、すべてが赦されている、待ち望まれている、喜んで歓迎されている、完全に価値があると見なされている、うれしく祝福されている、完全に守られている、今すぐ完全な状態にされている、そして、無条件に愛されている。

ボディ・サイコセラピー

・「自分のことを大切にできない人は、人のことも大切にできない」と言われるように、その通りだと思います。まず自分自身を慈しみ、自分自身を満たし、自分自身のケアをしっかりすることが大切です。
それができていない人には、相手にとって何が必要なのか、どうすれば本当に相手のためになるのかが見えません。

・縛りから解放されると、自分らしくれる。
親や社会などから押しつけられた「べき」の縛りから自由になればなるほど、私たちはラクになり、イキイキしてきます。自分らしさが輝き出します。

・転移反応が強い人ほど、怒り、傷つき、寂しさ、不安など、苦しみの多い人間関係に陥ります。

・体を暖め、体を感じながら聴く
私が知る限りはどの本にも書かれていない、とても大切なことがあります。
それは、話を聴いているときに自分の体に少し意識を向け、体を暖め、体を感じながら聴くことです。

・プロのカウンセラーは予約制です。そして約束の時間が来ると、話の途中でもそこで終わります。

・聴き上手になるためにまず大切なことは、私たちの体で「私はあなたに関心があります。あなたの話を聴きたいと思っています」と伝えることです。
人の話を傾聴するときは、まず、相手に体を向けましょう。

・受け身で黙っていることは傾聴ではない
人見知りの傾向が強い人ほど、「人から悪く思われるんじゃないか」という不安が強いために、自分のことを話すのが苦手です。

・豊かに反応されると話しやすくなる
とても重要なのが「うなずき」です。

・話し手への理解を言葉にして返す。
話のキーワードを短く繰り返すことです。

・話し手の感情に応答する
人との交流においても感情が大切です。あなたに対し「私の気持ちをわかってくれているし、大切にしてくれている」と感じると、相手は心を開きたくなるものです。

・話し手の感情の強さに合わせて応答する。

・形式的なテクニックは傾聴の本質ではない
話し手が表現していることを、なるべく話し手の身になって、ひしひし、ありありと想像して感じることです。

・傾聴では沈黙はさけなくてもいい

・無理に話をさせようとしない

・沈黙は大きく分けて2種類あります。
1) 話し手が自分の考えや感情を吟味している沈黙です。
この沈黙は大切な時間です。聴き手は深くゆったり呼吸をしながら、体をゆるめてじっと待ちましょう。 
2) 話し手が話せなくなっている沈黙です。
なぜ話せなくなるかというと、何を言えば相手が自分のことを理解し受け入れてくれるかがわからず、「相手に拒否されたりバカにされたりするかもしれない。だからこのこともあのことも話してはいけない」と心が自動的にストップをかけるからです。
 話し手が話せなくなっているときは、先ほどまで話し手が話していた内容の特に大切なポイントを、短く繰り返して理解を示しましょう。

・話し手が本当に話したいことを自由に話せていないサインとして、次のようなものがあります。
1) 抽象的過ぎて、具体的なことがわからない
2) 切れ間なく話し続ける
3) 話の内容がコロコロかわる
4) 客観的な事実ばかり話し、自分の感情は話さない
5) 感情ばかりを話し、客観的な事実をほとんど話さない
6) ポジティブで前向きなことばかりを話す
7) 質問をする
8) 感情が表れない
9) 話している内容にそぐわない感情表現をする

・傷は触れるのではなくそっと包み込んでこそ癒える

・「傾聴の対話において、話し手の質問が純粋な質問であることはとても少ない」
純粋な質問とは、特定の知識や情報を尋ねるような質問です。あなたが知っている内容であれば、それを答えることで解決します。

・聴き手に話をさせようとする本当に理由は、聴き手の意見を純粋に知りたいからではなりません。その本当の理由として多いものは、「自分のことを安心して話せないから」、そして、「愛情欲求があるから」です。

・同じ質問を繰り返している人について、不安を理解して思いやりを持って返したことで質問が止まったという実例をご紹介します(藤田潮著『聴く』の本より)
祖母が脳疾患により物忘れがひどくなったので、介護施設に入れた。祖母のお見舞いに行くと、一つの話が終わるたびに、「この施設、お金が高そうね」「ここ・・・払った?」と繰り返し尋ねてくる。見舞いのたびにそうだ。
でも、ピンと来た。払ったかどうかを確認したいのではなく、若いころにお金で苦労した祖母は、「お金のことが心配、お金のことで孫たちに負担をかけたくない」と心配だったのだ。
そこでこう伝えた。「おばあちゃん、お金のことが心配なのね。迷惑をかけたらと申し訳ないものね。でもお父さんがちゃんと銀行に支払ったから大丈夫だし、誰にも迷惑かけてないよ」。おばあちゃんの「払ったの?」ピタっとなくなった。

・良い聴き手の特徴
1) リラックスして腹が据わっており、話し手との心の壁があまりない。
2) 自分自身の未解決の心の痛みや葛藤が高い程度に解決され癒されている。
3) 自分の価値や有能さを感じるための援助はしない。話し手のありのままを尊重し、話し手の気持ちを話し手の身になって理解するゆとりがあるとともに、話し手の幸せを心から願っている。
4) 傾聴の技術が高いので、共感が話し手に伝わるし、話の邪魔をせず耳を傾けることができる。
5) 深く正確に共感するための理論を、よく理解している。

・カウンセラーにカウンセリングは必須

・子どもにとって親から無条件に愛されないと感じられるのはとても辛いことですが、その経験は、決してその子にとって「悪いこと」ではないのです。同様に、人から優しくされなかったり大切にされないと感じたりするのは苦しくて辛いことではありますが、「悪いこと」ではないです。私の心理援助を受けた多くの来談者の方が、それを腑に落ちて実感し、何十年も抱えて苦しんできた心の傷つきや苦しみから解放されて、いっそう充実し意味を感じられる人生を歩んでお有れます。

感想
私はとても心配症でした。
神経質かもしれません。
コミュニケーションが苦手でした。
大学に入って同じ学科の友だちがしばらくできませんでした。
そのためもっぱら下宿仲間と行動を共にしていました。
いくつかの言葉が気持ちを楽にしてくれました。
「言葉は力」
自分を支えてくれる言葉を持つことなのでしょう。
今はその言葉や経験で何とか仕事や日常生活で困らなくはなりましたが、ベースにはそういう自分がいるのを感じています。

ニーバ―の祈り
悩んでもどうしようもないことに悩み、自分で解決できることをしていないことに気づきました。

ゲシュタルトの祈り
私は相手がどう思うかで気分を大きく左右させていました。
先ずは自分の人生を。
そして出逢った人と縁ができればそれはステキなことだと。

好きな言葉はいくつかあります。
有縁を度すべし
縁をどう生かすかは自分次第

「自分で誇りを投げ捨てない限り、誰もあなたからその誇りを奪い取ることはできない」
ガンジーの言葉です。
いろいろ言われても自分で自分の誇りを投げ捨てないことが大切なんだと思いました。

人惑
これはこの本にもあった「~すべき」に捕らわれているのと同じです。
臨済宗の言葉で、自分がこうすべきだと思っていることは実は親や先生などから言われたことでそれがあたかも自分の考えのようになり自分を苦しめているというのです。
ワッソはそれを「社会的催眠」と呼びました。

唯識
仏教用語ですが、見えている世界は全て自分の認識の結果だということです。
心理学のワイングラスにワインが半分入っているのをどう思うかと同じです。

そして今はロゴセラピーに惹かれ、学んでいます。
人生からの問いかけにどう応えていくか。

古宮昇さんも、最後に「親に愛されなかった」ことは辛い苦しいことだったけど、それは悪いことではないと言われています。
古宮さんはシングルマザーでお母さんも大変で、十分親に愛されたという実感を持てなかったそうです。
そして心理学/カウンセリングを学ぶことを通して、ご自分も癒され問題を乗り越えられたそうです。
まさに人生からの問いかけにカウンセリングという選択肢をされたのでしょう。
そしてその体験も生かしながら親に愛されなかったと思いを持っている人のカウンセリングもされておられるようです。

古宮さんのメルマガをしばらく見て見たいと思って登録しました。
早速下記のメールが届きました。

古宮昇です。
【共感の心理学】のメルマガ登録をありがとうございます。

「なぜ分かってくれないんだろう・・・」 
「なんか、ひとりぼっち・・・」
「支えてほしいのに・・・」

そんな気持ちになったこと、きっとみんなある。

ぼくはかつて、心のちぢこまった子どもでした。
自信がないし、思いを素直に出すこともできない。

そんなぼくも、
「この人にならホンネを話してもバカにされないし、ぼくの身になって分かってくれる」。

カウンセラーの人とそんな対話を重ねるうち、すこしずつ素直な自分になれた・・・

人と分かり合うこと。
つながり合うこと。
自分を愛すること。

そのためのメッセージをお送りします。
楽しみにお待ちください。

「救急搬送困難」埼玉で過去最悪の週727件 約4時間かかる事例も ”これからさらに増えるのに、想定して準備していなかったの?”

2022-01-22 10:48:55 | 新型コロナウイルス
https://news.yahoo.co.jp/articles/8ded15bd5a7f5810c20db2e7f3fb1b6c5dc88a9f 1/22(土) 9:07 朝日新聞デジタル

 新型コロナウイルスの感染者の急増のあおりで、コロナ以外の患者の救急搬送に支障がでている。受け入れ先の病院がなかなか見つからない「救急搬送困難事案」が、埼玉県内では10~16日の1週間で727件と過去最悪の事態になっている。(岡本進)

 消防庁は救急搬送困難事案を、救急隊による「医療機関への受け入れ照会回数4回以上」かつ「現場滞在時間30分以上」と定義している。県消防課は、県内にある27の消防局・消防本部の救急搬送状況が記録されている救急医療情報システムをもとに、速報値として同事案の1週間ごとの件数を公表している。

 これまではコロナ患者が増えた第3波のさなかの昨年1月11~17日の473件が最多だった。第5波中の昨年8月16~22日に466件まで増えたが、その後は減少傾向で主に200件台を推移していた。しかし第6波が始まると、1月3~9日の520件から過去最悪を更新している。

 県消防課によると、今月に入り、救急隊が医療機関に患者の搬送照会を30回断られ、運べたのは約4時間後という事例もあった。午前11時50分から照会が始まり、運べたのは午後4時8分だった。受け入れできない理由の半分は担当科の病床が「満床」で、他は「処置困難」「専門外」だった。搬送できずに重症化して亡くなった事案はないという。

 地域別に見ると、特に増えているのが、さいたま市と川口市だ。1月10~16日にさいたま市は158件、川口市は96件に上った。

 入院や手術の必要な重症患者に対応する二次救急と、救命救急センターを持ち重篤患者に対応する三次救急を担う、さいたま市立病院も深刻だ。1月7~20日の2週間では、二次救急で照会があった391件のうち、受け入れたのは162件。三次救急では66件中、受け入れは48件だった。コロナ患者の受け入れの影響で一般病床が制限され、通常時よりも受け入れにくい状況にあるという。

 県医療整備課の担当者は「すぐにできる対応策もなく難しい状況だ」と話す。

感想
これからさらに増えるのです。
いまでこの状態だと、どうなるのでしょう?
市長や知事は準備されてこなかったのでしょうか?

それにしても重症者が少ないのに、なぜ病院は受け入れられないのでしょうか?
人工呼吸器やエクモを使う患者さんはほとんどいないのですから。
命にかかわる病気だと、一刻を争うのですが。
今後は交通事故でも救急車が来ない、受け入れる病院がないということも起きるのではないでしょう。
私たちは早め早めに対応が必要になるようです。
何よりも、疲れたら休む。
無理をしない。
できるだけ出かけない。
快眠 快食 快便(腸内細菌が免疫力Upとか)に心がけることなのでしょう。

余命数ヵ月の神経科学者が悟った「私たちが“自分の死”をうまく想像できない理由」”人間の精神について新たに理解した「3つのこと」”

2022-01-22 10:01:01 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/46c666df379d2d621091dfa6d049732498a9db92 1/22(土) 9:00クーリエ・ジャポン

ジョンズ・ホプキンズ大学の神経科学教授である筆者は、思わぬ病の発覚により余命わずかと告げられる。感情の渦に飲み込まれそうになりながらも、自らの死になんとか備えようとするなかで、筆者が人間の精神について新たに理解した「3つのこと」とは──。

定期検診の心エコー検査で、私の心臓の隣に大きな塊が見つかった時、放射線科医はそれを裂孔ヘルニアかもしれないと考えた。胃の一部が横隔膜を押し上げて、心嚢を圧迫しているのではないか、と。

「このダイエット・ドクターペッパーを一気飲みして、すぐ検査台に乗ってください。胃の中のコーラの炭酸が抜ける前に、もう一度心エコー検査をしますので」

私は従った。が、画像に映った塊の内部には、胃の中の炭酸が弾ける様子は確認できず、ヘルニアの診察を裏付けるものはなかった。

数週間後、より解像度の高いMRI検査を受けたところ、実は例の塊は心嚢の内側にあって、それもかなり大きいことがわかった。コーラ缶一つ分くらいの体積である。この大きな侵入者が私の心臓を圧迫していたにもかかわらず、私はなんの症状も感じなかったし、最高のコンディションで運動もできていた。体調はとても良かった。

医師たちが私に語ったところでは、例の塊は高確率で奇形腫、すなわち非悪性の可能性が高い細胞塊とのことである。彼らの見解は楽観的だった。ミュージカル『南太平洋』のナンバーをもじって、「こんなオレンジ玉なんぞ、さっさと心臓から取り出してポイッ、ですよ」と心臓専門医も言っていた。

がんの発覚で怒り爆発
手術後、私が回復しかけているところに、病理からの報告書が届いた。悪いニュースだった──例の塊は、実は良性の奇形腫ではなく、滑膜肉腫と呼ばれる悪性腫瘍だったのだ。

腫瘍が心臓壁の内部に位置していたのが災いして、執刀医はがん細胞をすべて取り除くことはできなかった。そうすると、心臓が血液を送り出すことができなくなってしまうのだ。がん専門医は、私の余命はあと6ヵ月から18ヵ月だろうと告げた。

私は全世界に対して、完全にブチ切れた。心臓がんだって? どこの誰が心臓がんになっただと!? できの悪い比喩か何かか? こんなもので、私は愛する家族や、大切な友人や同僚たちの元を去らねばならないのか?

私はまったく受け入れられなかった。怒りのあまり、ほとんどものが見えなくなっていた。


これまでの人生を振り返ると…
(ここから先は、涙なしには書けなかった部分だ。)

5年前、私とディーナは出会い、激しい恋に落ちた。「化学反応」が起きたなんて程度のものじゃない、「素粒子物理学的」と言ったほうが近いくらいだ──天啓により、愛の素粒子的性質が発見されたのだ。

ディーナの純粋な、無条件の愛情、優しさ、美しさ、明るさ、そして鋭い知性が、私を高揚させた。彼女はこれ以上望むべくもない最高の妻で、私なんかでは全然釣り合わない。そんな彼女を残して逝くことは、この酷い状況下でもとりわけ最悪だった。

6ヵ月前に余命宣告を受けるまで、私は町で最も幸運な男だった。私の子供たち、双子のジェイコブとナタリーは、私にとってこの25年間ずっと大きな喜び以外の何物でもなかった。

科学者として長きにわたり、自身のアイデアを自由に追求し続けるという、これ以上ない僥倖にも恵まれた。良き友人たちは、いつも私に喜びと楽しみを与えてくれた。あらゆる点から見て私は、愛と、創造性と、冒険に満ちた、素晴らしい人生を送っていたのだ。

激怒しつつも、深く感謝している
私は今、死のうとしているのかもしれない。が、それでも私は1人の科学オタクである。ゆえに、死に備えることを通じて、人間の精神についてどんなことを私が学んだのか、それを考えてみよう。

まず最初に、ほとんどの人にとってははじめから明らかだが、私の場合は強制的に納得させられたことがある。それは、「人は一見矛盾する2つの精神状態を同時に体験することがあり得るし、なんとなればよくある」ということだ。

私は末期ガンに激怒していると同時に、人生が私に与えてくれたすべてに対して深く感謝している。これは、「人の精神状態は1度に1種類」という神経科学の古い常識に真っ向から反対するものだ。


神経科学では、神経系の総合的な調整に応じて、人は「興味をそそられている」か「恐れている」か、「戦う」か「逃げる」か、「休む」か「働く」かのどちらかしか体験できない、と考える。

しかし、我々人間の脳はもっとニュアンスに富んでいて、複合的で複雑な、場合によっては矛盾をきたすような認知・感情状態に簡単に陥ってしまうのだ。

「純粋な感覚」などない
ここからさらに2つ目の学びを得た。「人間であること」の深遠なる真実、それは、「客観的な経験は存在しない」ということだ。

我々の脳は何事においても、絶対値を測るようには作られていない。我々が認識したり感じたりすることのすべては、先入観や他との比較、周りの状況によって色付けされている。純粋な感覚というものは存在せず、感覚に基づいた推測・推定だけを我々は感じることができるのだ。

同じ30分でも、良き友との会話においては一瞬に感じられるし、運転免許センターでの待ち時間なら永遠にも感じられる。給料が上がったら嬉しいが、同僚の給料が自分の倍だとわかれば、嬉しさもそこまでだ。

愛に満ちた2人だけの時間に感じる恋人の愛撫はあたたかく心地よいものだが、白熱した喧嘩の真っ只中では、同じ手の感触も不快でうざったく、暴行すれすれに感じられることだろう。

もし1年前、まだ59歳だった時に「あなたの余命は5年です」と言われていたとしたら、私は絶望し、運命に裏切られたような気になったと思う。しかしそれが今なら、5年もの未来という望外の贈り物に、私は狂喜するに違いない。

あと5年あれば、みんなと素晴らしい時間を共に過ごすこともできるし、重要な仕事を成し遂げることだってできる。旅行をして、人生の楽しみを味わうことだってできるだろう。

要するに、我々の精神においては、客観的な価値など存在しないのだ。5年の人生といった根本的な物事に対してさえ。

自分がいない世界をうまく想像できない
自身の置かれた状況から私が得た最後の学びは、より繊細だが、同時に最も重要なことだ。事務的なことについて言えば、私はあらゆる面で自身の死に備えることができる──経済的なあれこれを整理したり、遺言書を更新したり、私のラボの研究生たちが私の死後に困らないよう推薦状を書いたりといったように。

しかし、「自分自身の死」の全体像や、自分がもはや意味のあるものとして存在していない世界を、私は想像できない。私の思考は、私のこの差し迫った死を真の意味で捉えることができないまま、その表面を上滑りしていく。

これは私個人の欠陥というわけではないと思う。ヒトの脳を持つということは、結局そういうことなのだ。

私がこの分野を学びはじめてからの43年間で、神経科学は大きく変化した。当時の私は、脳は「反応」をその本質とすると習った。つまり、まずは感覚器官(目、耳、皮膚など)に刺激がもたらされ、そこから発せられた信号が脳に届き、脳内でちょっとした計算が行われ、神経上の決定がなされたのち、信号は神経を伝って筋肉へと伝えられ、その筋肉が収縮・弛緩することにより、運動なり発話なりの形で行動が発生する、といった具合だ。

だが今では、脳は単に外部からの刺激に反応しているだけではなく、未来──おもに数瞬先の未来──を能動的に予測することに、時間とエネルギーの多くを費やしていることがわかっている。

空中を飛んでいるあの野球ボールは、私の頭にぶつかるだろうか? もうすぐお腹が空いてくるだろうか? 近づいてくるあの人は味方か敵か? こうした予測は、脳の奥深くで自動的に、無意識に行われている。意志の力をもって止められるようなものではないのだ。

また、我々の脳が近い未来を予測するよう作られているということは、すなわち近い未来が実際にやって来るということを、脳が前提にしているわけだ。こんな風に、そもそも我々の脳は、我々が「死」を総体として想像することを妨げるようにプログラムされているのだ。

「死後の世界」「生まれ変わり」の物語が果たす役割
憶測が許されるならば──死にかけている人間に、それくらいの目こぼしが与えられたっていいはずだ──、こんな風に説を立ててみたい。

すなわち、人間のこうした基本的認知能力の限界(未来がつねにやって来るものだと、脳が無意識に想定してしまうこと)は、我々のように差し迫った死に備えている人間のためだけものではない。この広く共有された認知的誤謬は、宗教的な思想が他文化にわたって実践されることと密接な関わりがあるのだ、と。

ほとんどどんな宗教にも、「死後の世界」(あるいは認知的に近しいものとして「生まれ変わり」)の概念がある。死後の世界、生まれ変わりの物語が、世界中で見つかるのはなぜだろうか? 

それは、我々が本当には自身の死を想像できないのと同じ理由だ。すなわち、我々の脳が「予測すべき次の未来はつねに存在している」という間違った前提の上に作られているからである。我々はどうしても、自身の意識がいつまでも続くと想像してしまうのだ。

すべての信仰が明確な形で「死後の世界」「生まれ変わり」の物語を持つわけではないが(ユダヤ教が有名な例外だ)、世界の主要な宗教のほとんどにはこのどちらかがある。たとえば、イスラム教、シク教、道教、ヒンドゥー教。また、議論のあるところだが、仏教もそうだ。

実際、宗教的な思想の多くは、「現世ではこれこれの規則に従いなさい。そうすれば死後の世界で報われる(または、来世においてより良い形に生まれ変われる、あるいは、神と一体になれる)」という、一種の取引の形式を有している。

我々の脳が意識の永続を想定しないように作られていたら、世界の宗教はいったいどのようなものになっていただろう? そして、宗教と、宗教間の対立が深く形作ってきた我々人類の文化は、どのように変わっていただろうか?

こうした疑問を検討しながら、私は同時に、自分自身の状況について深く考える。私は信心深い人間ではないが、しかし死に備えるなかで、永く広く共有されてきた「死後の世界」「生まれ変わり」の物語の魅力と、つまるところ神経生物学的なそのルーツについて、敬意の念を新たにした。

「死後の世界」「生まれ変わり」の物語が、人間の認知能力における「機能」なのか「バグ」なのか、最終的にはよくわからない。しかし仮にバグだったとしても、私はそこに共感を覚える。

だって、マナティーやサナダムシに生まれ変わるかもしれないなんて、素敵に奇妙な話じゃないか。それに、自分が死んだ後で、ディーナや子供たちにまた会うことができるとしたら、それは格別の喜びに違いないのだから。

感想
3つの学び
1)「人は一見矛盾する2つの精神状態を同時に体験することがあり得るし、なんとなればよくある」
2)「人間であること」の深遠なる真実、それは、「客観的な経験は存在しない」ということだ。
3)「自分自身の死」の全体像や、自分がもはや意味のあるものとして存在していない世界を、私は想像できない。私の思考は、私のこの差し迫った死を真の意味で捉えることができないまま、その表面を上滑りしていく。

自分が突然亡くなる場合もあれば、余命を宣告されるか、もう駄目だと自覚するか、数年あるいは数か月先には死が待っていると受け入れざるを得なくなるか、どちらにしても終わりが待っています。
分かっていても、受け入れることは簡単ではないです。
普段はそれを先送りして生きているように思います。
それが現実味を帯びてくるとき、それは初めての体験になります。
このように、先達からの学びを知ることで、それを想像するヒントをもらえます。
そして、今のこの時間をどう生かすかを真剣に考える時間として、今からの人生を大切にしたいと思います。
つい、それを忘れてしまいがちになりますが、こういった先達からの学びの機会に今一度考えることが重要なのでしょう。

『愛と死をみつめて』は骨肉腫に冒され死んでいく大島みちこさんと彼女を愛した男性のレターのやり取りの一部をまとめたものです。
「若きいのちの日記」(大島みち子著だいわ文庫)
https://blog.goo.ne.jp/wser8ucks4atwg/e/fbd63aeee209b603267bd833613036e0

彼女は神様に健康な3日を下さいと遺していました。
大島みち子さんが日記に残した「健康な日を三日ください」
です。彼女はこの詩を記した四カ月後の1963年8月7日永眠しました、21歳でした。
         *        *       *
病院の外に健康な日を三日ください
一日目
私は故郷に飛んで帰りましょう。
そしておじいちゃんの肩をたたいて、 
それから母と台所に立ちましょう。 
おいしいサラダを作って、
父に熱燗を一本つけて、
妹たちと楽しい食卓を囲みましょう。

二日目、
私は あなたの所へ飛んで行きたい。
あなたと遊びたいなんて言いません。 
お部屋をお掃除してあげて、 
ワイシャツにアイロンを かけてあげて、 
おいしいお料理を作ってあげたいの。 
そのかわり、お別れの時、やさしくキスしてね。

三日目、
私は一人ぽっちで 思い出と遊びます。 
そして静かに一日が過ぎたら、
三日間の健康をありがとうと
笑って永遠の眠りにつきます。

大島みちこさんはなにげない日常の3日間を神様にお願いされました。
彼女は私が卒業した高校の11年先輩でした。
今私たちには3日以上の日を持っています(たぶん)。
林先生のCM「いつやるか? 今でしょう!」
今やりたいことを今しないと将来できる保証はありません。
それは38歳で胃がんになり胃を2/3切除して実感しました。
だったら、何をするか。
それを考えながら、思いついたことを先ずはチャレンジすることなのでしょう。
違うと思ったらまた違うことにチャレンジしていく。
失敗を恐れていたら何もできません。
失敗も体験と思って失敗を積み重ねていくことがまさにやりたいことが見つかり、あるいはそれがやりたいことだったと思えるのではないでしょうか。