・教師としての子どもへの愛情というものは、とにかく子どもが私の手から離れて、一本立ちになった時に、どういうふうに人間として生きていけるかという、その一人で生きていく力をたくさん身につけられさえすれば、それが幸せにしたことであると思いますし、つけさせられなかったら、子どもを愛したとは言えないと思います。
・パトカーの運転手で、警察の車を運転していた時には、ずっと無事故で実に安全な、すぐれた運転手だったのだそうです。あれほど長い間、あんなに達者に運転していたのに、タクシーの運転手になってみたら、危なくて危なくて今にもぶつかりそうで運転できないというのです。・・・
パトカーとかそういう警察の車は、みんなが用心して、こっちを敬遠するので、そのためにじつにうまく運転できたのです。ところが、タクシー運転手になってみると、だれも遠慮しません。そばにも寄ってくるし、車間距離なんかどんどんつめて、あけていればすっとはいってきてしまうし、いろいろなことをされるので、こわくてとうとう運転できなくなったというのです。
・「仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車は、そのぬかるみにはまってしまって、男は懸命に引くけれども、車は動こうとしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても、どうしても車は抜けられない。その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらしたが、ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、車はすっとぬかるみから抜けて、からからと男は引いていってしまった」という話です。「こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。男は観仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、その車を引いていったのだ」
・『大村はま国語教室』
・研究する、研修するということには、私たちがそうした力をみがくということだけでなく、もう一つ、たいせつな意味があります。それは、私たちが子どもたちと同じ天地にいるためのくふうの一つでもあります。研修はつらいし、やってもやっても急には効果が上がらないし、わかったような、わからないような、・・・さまざまな苦労があります。そしてまた、少しの喜びのあるものです。・・・自分を見つめたり、自分の到らないところを伸ばそうとしたり、それから高いものに憧れたり、一歩でも前進しようとしたりするということ、それはそのまま少年という育ち盛りの人たちのもった自然の姿なのです。子どもというのは、身のほども忘れて、伸びようとしたり、伸びたいと思っている人間です。・・・その子どもたちと同じ気持ちになることが、まず大事でしょう。
・自分で自分の仕事を愛するということが、結局いい仕事のもとになるのではないかと思います。
感想;
ことばを育てることは
こころを育てることである
人を育てることである
教育そのものである
こころを育てることである
人を育てることである
教育そのものである
大村はまさんを知りませんでした。
国語教育一途にやって来られた方です。
色々と教えられました。